スター・チャイルド・1b
空に向かって開いている鐘の街は、どこかハイビスカスの花のようにも見える。がんばって植物を育ててはいるが、まだほとんどの土地が剥き出しの赤土のままだからだ。中心にそびえ立つ太陽柱は、さながらハイビスカスの蕊のようだ。その花の内側を走っている自分は、まるで蝶みたいだ、などと樹雨は考えていた。
ポール・マルテル市長の邸宅は、樹雨たちの農場から見て、回転する円錐の反対側にある。その距離はおよそ五百メートル離れている。太陽柱が眩しいので、どんなに目を凝らしても円錐の反対側をしっかりと見ることはできない。走っていく先を眺めてみると、どこまでも続く上り坂なのだが、不思議なことに坂を上っているという感覚はない。円錐の内側はどこまで行っても平坦なのだ。
様々な人々が管理する土地土地を、樹雨は駆け抜けていった。そこにいる人たちはみんな顔見知りだ。大きな麦わら帽子を被り、田舎の農民のような格好をした人たちが、クワを振るって、小さく区切られた土地にたくさんの種類の植物を育てている。彼らはみな学者や、企業から派遣された専門家たちで、こうして火星でどのような植物が育つかどうかを研究しているのだ。もちろん、樹雨もそのうちの一人だ。
「樹雨ちゃん、今日も精が出るね」
などと、彼らは気楽に声を掛けてきたので、樹雨も元気に「おかげさまで!」と返した。
そうやって走っていくうちに、さっきまで天井だった場所に辿り着いた。今度は自分たちの農場が眩しい太陽柱の向こうで天井になっている。
市長の邸宅は、赤レンガを積み上げて白い漆喰で仕上げた素朴なフランス風だ。市長宅とは言えど、他の住人の家とそんなに変わらないくらいにこじんまりしている。玄関ポーチの前を、お手伝いさん見習いの楊昭少年がホウキで掃いていた。彼はくりくりとした目が特徴のかわいらしい中国人の子で、聞けばまだ十歳になったばかりだという。ポール・マルテル市長が連れてきたお手伝いさんの息子らしいのだが、働き者の彼はこの街では誰からもかわいがられている人気者だ。毎朝、学校が始まる前に家のお手伝いをするのが彼の日課になっている。
「ヤンシャオ、今日も精が出るね」
樹雨が声を掛けると、楊昭少年も、
「おかげさまで!」と元気に答えた。
「市長さんいる? 無線を借りたいんだけど」
「市長さんなら、さっきから樹雨を待ってるよ」
「うわあ、ご迷惑かけちゃったかな」
樹雨は恐縮して、手に持っている麦わら帽子をくしゃくしゃにした。兄貴ったら、何の用事で無線なんか寄こしたんだろう……
楊昭少年がポーチの階段を上がってドアを開けてくれたので、樹雨は頭をひょこひょこ下げながら玄関をくぐった。すぐにお手伝いさんの茉莉おばさんが出迎えてくれた。彼女は中国語の響きが少し混じった、聴き取りやすい英語でこう言った。
「あら、樹雨、よくおいでなすったね。さっきから市長さんがお待ちだよ」
おばさんはふくよかな体格の持ち主で、白いエプロンがお腹の前ではち切れそうになっている。身長は樹雨と同じくらいなのだが、横幅だけが倍くらい違う。
「市長さんはどちらにいらっしゃるの?」
「無線室のほうにいるよ」
「無線室ってどこ?」
おばさんは大きな声でガハハと笑った。
「そんなにおろおろしなくたって、私がちゃんとご案内いたしますとも」
おばさんは大きな手で樹雨の腕をつかむと、転びそうになってもお構いなしにぐいぐいと引っ張った。そうして連れていかれた先は、廊下の行き止まりに設けられた秘密の地下への入り口だった。床板が蓋になっていて、そこを持ち上げると、長い階段が地下へと伸びている。
「私は閉所恐怖症だから、ここから先は一人でお行き」
茉莉おばさんは樹雨の背中をドンと叩いて、階段の奥へと押しやった。下へ降りるなり、おばさんが蓋を閉めてしまったので、中は完全な真っ暗になった。
もしも転んだりしたら、どこまで落ちていくのやら見当もつかない。手すりはどこにもなかった。足元は木でできているようだ。樹雨はそーっと壁を手探りして、幅の狭い左右の壁を手で突っ張るようにして降りていった。もしも足を踏み外したら、両手ですぐにブレーキを掛けられるようにするためだ。壁はしっとりとした石造りで、ひんやりと冷たかった。
想像していたよりも十倍くらい長い階段をようやく降りると、広い場所に出た。慎重につま先で床を探ってみるが、それ以上は階段は続いていないようだ。手探りで壁をぺたぺた調べていくと、突然、木でできたドアらしきものが見つかった。縁を手でなぞり、ノブのようなものを手でつかんだ樹雨は、それを回す前に、まずはノックしなければならないことを思い出した。
大きすぎず小さすぎず、これ以上気を使えないくらいに気を使って、樹雨は三回、拳でノックした。
「どちら様ですか?」
太くてよく響く声が返ってきた。ポール・マルテル市長に間違いない。
「三国樹雨です」
そう答えると、つかんでいたノブが向こうから回されて、薄明かりが外へと漏れてきた。市長はずいぶん薄暗い部屋にいるようだ。アフリカ系フランス人の市長の顔は汗ばんでいて、つやつやしている。
「入りたまえ」
市長は緊張感のある声で言った。「君のお兄さんから緊急の連絡があるそうだ」




