スター・チャイルド・1a
三国樹雨は鏡の前で格闘していた。ただでさえ余裕のない朝の身支度の合間を縫って、この聞き分けのない前髪をなんとか切りそろえなければならぬ。水でしっかり濡らしてうねりを整えつつ、前髪を三つの束に分けてそれぞれ慎重にカットしていった。スキバサミなどという洒落たものはここにはない。たった一本の事務用ハサミでなんでも済ませてしまう。そいつは何度も研いでいるうちに異様に鋭利になってしまった代物だ。服も作れるし髪も切れる万能なハサミは、めったに手に入るものではなく、ここではみんなの宝物だ。
「樹雨、わしは先に行っとくぞ」
インチキ坊主の黄明和尚は、いつものように袈裟に似た金ぴかのエプロンを着けて、麦わら帽子を片手に外へ出ていこうとしている。
「待ってよ、お師匠さん、これ済んだらすぐ行くからさ」
振り返った和尚は、樹雨を面白そうに眺めている。
「お前もわしみたいに全部剃っちまえばいいんだ」
「嫁入り前の女の子に酷なこと言わないで」
樹雨は前髪に仕上げのハサミを素早く入れると、洗面台に落ちた髪を両手でさっとまとめて、すぐそばのゴミ箱に放り込んだ。
洗面所のすぐ隣りに、樹雨の部屋がある。
タンクトップの肌着に短パンという格好だった樹雨は、ベッドの上に並べておいた服に素早く着替えた。水色の大きな格子模様が入った白いシャツと、だぶだぶのオーバーオールだ。長い髪は頭の後ろできゅっとポニーテールにまとめた。切ったばかりの前髪がつんつんとおでこの前で跳ねている。
この宇宙時代に、ヘルメットを被ることが日常になってくると、髪でおしゃれをすることがなかなか難しい。大体がショートヘアか、ショートボブだし、それ以上長くなるとポニーテールにするしかなくなる。だからせめて前髪だけでも切りそろえて、若々しく見せたいのだ。実際、樹雨はまだ若いのだから。
「お師匠さん、ごめん、お待たせ」
樹雨は帽子掛けスタンドから自分の麦わら帽子をつかみ取ると、それを無造作に脇の下に挟んで、黄明和尚の後を追いかけた。
今日も外は快晴だ。鐘の街の中央にそびえ立つ太陽柱は、日の光をしっかりと集めて、それを街の隅々まで放出している。
街全体は鐘をさかさまにしたような形をしていた。その鐘の内側に人々は家を建て、畑を作り、家畜を飼って暮らしていた。学校や宗教施設や商店なども普通に建っていて、どこにでもある田舎の風景を作り出していた。あらゆる国籍や人種の人々がいた。教会やお寺やモスクがすぐそばに並んでいたりするし、木の家や、石の家や、レンガの家や、コンクリートの家があちこちに入り混じっている。ただそれらが、さかさまになった鐘の内側に遠心力によってへばりついていることだけが、地球のそれとは違っていた。
ここは火星なのだ。街の中心に立つ太陽柱は、弱い日光でも人間や動植物が凍えたりしないように光と熱を供給してくれる。重力は地球の三分の一なので、それによって人の筋肉や骨が衰えたりしないように、一Gの重力を作り出すべく、この鐘の街が設計された。緩やかな円錐形は空に向かって大きく開いている。その斜めの形が回転することによって、火星の重力と遠心力とをミックスして、ちょうど一Gになっているのだ。鐘の直径は三百メートルある。
開いた空は見えない屋根で覆われている。その向こうは薄い火星の大気で、その内側は地球と同じ組成の空気で満たされている。屋根は何層かで構成されているので、どこかが破れても一気に空気が抜けてしまうようなことはない。ただ、一応念のために街の真上は飛行禁止になっている。
樹雨と黄明和尚はクワとカマを持ってえっちらおっちら畑へと向かった。彼らに割り当てられた農地には、地球と同じ作物が育てられている。同じ重力、同じ空気、同じ水を使っても、なぜかどこか火星らしい個性を持った作物になっていた。
「このイチゴは酸っぱすぎて食えたもんじゃねえや」
先に畑に出ていた五条さんが、収穫したてのイチゴを両手にいっぱい抱えて歩いてきた。それを味見した樹雨と和尚も、酸っぱさに口をすぼめた。
「やっぱり土の成分が違うんだろうな」
和尚はイチゴのヘタをペッと吐き出して言った。
「私が言った通り、ミミズの養殖を始めなきゃね」
ノリノリの樹雨を、和尚と五条さんは化け物を見るような目で見つめている。
「やめてくれよ、お前が言うミミズはほとんどサンドワームじゃねえか」
「それが何か問題でも?」
虫が大好きな樹雨は、いつかミミズの養殖の許可が下りることを今か今かと心待ちにしていた。そして、ミミズの次は昆虫も連れてきたいと思っていた。さらにその次は小鳥も。そうやって地球と同じ環境を火星に作るのが彼女の夢だった。
「おうい、樹雨ちゃんよ」
納屋のほうから八海さんが走ってきた。太っている彼は、短すぎる上着からへそをはみ出させ、腹の肉をタプタプと揺らしながらぜいぜい息を切らした。
「何を慌ててるの? 八海さん」
樹雨が彼の汗をタオルで拭いてやると、彼は喘ぐようにこう言った。
「木星から極秘の通信が入っているってさ。樹雨ちゃん宛てに」
「はあ? なんで私に」
木星に知り合いなんかいたかしらん、と樹雨は首をかしげて、しばらく空を見上げていた。空と言っても、直径三百メートルのわずかな範囲から見える雲のない灰色の空だ。そうやって考えているうちに、ふいにある人物を思い出した。
「ああ、兄貴か」
樹雨はぱっと顔を輝かせたかと思うと、一目散に駆け出した。「そうか、木星にいるって言ってたっけ」
「樹雨ちゃん、無線はこっちだよ」
納屋のほうへ向かおうとする樹雨を、八海さんは慌てて引き留めた。
「はあ? だって、今、納屋のほうから出てきたじゃん」
と、文句を言う樹雨に、八海さんは、
「極秘の通信だから、市長さんのところまで行かなきゃいけないよ」と言った。
「うへえ、なんだよ、めんどくさいな」
樹雨は文句を言いつつも、被っていた麦わら帽子を手に持って、一心不乱に市長宅を目指した。そこは鐘のちょうど反対側にあったが、彼女の脚力をもってすればどうということはない。




