戦艦イスカンダル(後編)・3a
クリスチャンと幸子は全面が透明なヘルメットをしっかり被って、首の金具もしっかり締めていた。
こちらを振り返った幸子は最初、輝くように美しくて、以前とまるで変わらない姿がクリスチャンの視覚を通して全太陽系に伝えられた。
ところが一方のクリスチャンのほうは、幸子の視覚を通して、エウロパ人の仕掛けによるおぞましい変貌を全太陽系にさらしていた。彼のヘルメットの中は、幸子が恐怖してやまない数万匹ものテントウムシによって埋め尽くされていたのだ。
クリスチャンの視界はそのテントウムシによってたちまち暗闇に没してしまった。クリスチャンの目から見えているそれは、なにやら毒々しい色をした泥のようなものだった。小山三郎隊長が見たという、すべての色をかき混ぜて汚く濁った絵具のようだった。それがヘルメットの中を満たしたので、クリスチャンは息ができなくなった。泥を吸い込まないように彼が呼吸を止めている間に、幸子がその首元に飛びつくのがわかった。幸子は力任せにヘルメットと与圧服を固定している金具を回したので、クリスチャンは首が千切れるかと思った。
次の瞬間、ヘルメットが外れて、顔の周りを覆っていた泥(幸子から見たらテントウムシの大群)が、ロブスター号の操縦席の足元に滝のように流れ落ちた。
鼓膜を突き破るような悲鳴が幸子の喉から発せられた。彼女はクリスチャンの全身から湧き上がるテントウムシの大群をまともに見てしまったのだ。それは与圧服を食い破って、クリスチャンの身体のあちこちから噴き出していた。そして、それはバスタブを満たすお湯のように彼の足元を埋め尽くし、次第に上へとせり上がってきていた。
クリスチャンの目から見たそれは、血のような赤と紫と茶色が混ざった汚い泥だった。その泥の中には、おぞましい動物の内臓のようなものが混じっていた。ときおり大きな目玉のようなものがごろごろと浮き上がってきては、彼の顔の周りを撫でるように転がりまわって、再び泥の中へ沈んでいった。その目玉のすべてが、まるでクリスチャンに対する憎しみを訴えかけるような視線を浴びせてきた。
「クリスちゃん、気をしっかり持ちなさい!」
光り輝く後光を背中から発している菩薩のような幸子が、その赤い唇をなまめかしく動かして、そう叫んでいるのがクリスチャンの目に捉えられている。それは同時に全太陽系にも視覚情報として伝えられていた。ところがクリスチャンはそれに対して声を出して答えることができなかった。
なぜなら彼の身体を取り巻いている泥のような、あるいは内臓のようなものが、彼の身体を食い破り、その中へ侵入しようとしていたからだ。彼の喉には大穴が開いており、呼吸するたびにそこからしゅうしゅうと息が漏れた。声を出す代わりにごぼごぼと泡が噴き出し、息を吸う代わりにドロドロの汚物が喉へ吸い込まれていった。クリスチャンは呼吸ができない苦しみと、おぞましい物体に浸食されていく苦痛とで、自分が絶望の淵に落ち込んでいくのを感じていた。あの目玉が訴えかけてくるおびただしい量の憎しみが、自分の身体に染み込んできて、魂の芯まで冷えるような思いだった。それは彼がこれまで苦しめてきた人々の恨みが我が身へと返ってきたものなのだろう。
幸子の視覚を通してみると、クリスチャンは今まさにテントウムシの大群によって貪り食われているところだった。彼の顔の皮膚は剥がれ落ち、剥き出しになった肉も食い荒らされて、ところどころから白い骨が露出している。そして、食われて何もなくなった空間にはテントウムシが我先にと飛び込んでいって、彼の内部へと雪崩込んでいるのだった。
「幸子、僕はもうダメだ」
クリスチャンは、ネビュラを通して文字のメッセージを送った。「今までありがとう。やっぱり僕は日頃の行いが良くなかったみたいだ。君ならきっとエウロパ人とまともにやりあえるはずだ。僕のことはここに置いておいて、君一人で外に出てくれ。もうこれ以上、僕の醜い姿を君に見られたくない。お願いだ。早く行ってくれ」
すでにクリスチャンは骨だけになった頭部を全太陽系にさらしている。頬の肉を失って、歯が剥き出しになっている。その目玉も食い尽くされており、眼窩には赤や黄色の水玉模様のテントウムシがぎっしり詰まっている。きっと彼の脳も今頃はテントウムシと置き換わっている頃だろう。
幸子は自分のヘルメットを脱ぐと、ぼさぼさになった髪をいったんほどいてから、きゅっと頭の後ろでひっつめた。彼女はすでに覚悟を決めていた。
「バカ言ってんじゃないよ。一緒に地球に帰って式を挙げるんだろ? 弱気になっちゃダメだ。しっかりしろ、クリ坊」
そう言いながらにじり寄ると、幸子はクリスチャンの頬骨を両手でつかみ、唇があった辺りの歯に、自分の唇を思いっきり押しつけた。
その途端に、まるで宗教画の一幅のような光景が繰り広げられた。幸子の背中から発せられていた後光が、唇を通してクリスチャンの頭部へと移っていった。その光は肉となり、皮膚となり、クリスチャンに元のような豊かな睫毛とグリーンの瞳を与えた。凛々しい眉は彼の男ぶりを引き立てた。そして、茶色いチリチリの髪も元に戻った。
この瞬間に、クリスチャンは悟ったのだ。エウロパ人は何を自分たちに見せようとしているのかを。
「これが、ルドルフ・カーペンターが言っていた『精神エネルギー』というやつなんだ」
自分の顔を取り戻したクリスチャンが最初に言った言葉がそれだった。
「精神エネルギー?」
首をかしげる幸子の瞳は、自分が発している光が跳ね返ってきて、宝石のようにきらめいている。
「僕は言っただろう? 君は誰よりもきれいな心を持っているって。君の心をきれいにしているものが、その精神エネルギーというやつさ。こう言うと、なんだか宗教めいてくるけれど、目に見えないこういうエネルギーを目に見えるものに変える技術を、エウロパ人たちは持っているみたいだ」
「それじゃあ、あんたのそのテントウムシはなんなのさ?」
クリスチャンの、キスを受けた頭部以外の部分は、まだテントウムシ(クリスチャンから見たら汚れた泥)でいっぱいだ。
「幸子にはテントウムシに見えるんだね。僕には汚い泥か内臓みたいに見えるよ。これは僕の精神エネルギーによっても浄化できなかった、おぞましい負のエネルギーといったものだろうね。『不機嫌』とでも名付けようか。ゲーテも言っているじゃないか。『人間の最大の罪は不機嫌である』ってね。僕は全太陽系から、こうやって負のエネルギーをぶつけられているんだ」
それを見た幸子は、奇妙なことに満足そうに微笑んでいた。
「知ってるよ。だから、私はあんたのことが好きになったんだよ。あんたは全太陽系で一番重いものを背負っている、いい男なんだよ」
そう言って、幸子はもう一度クリスチャンにキスをした。さっきよりも大きな光が、二人を包み込んだ。




