戦艦イスカンダル(前編)・1a
第三部「火星編」
エウロパの問題は何も解決していない。しかし、クリスチャン・バラードの意志は固まった。
エウロパ人の高い知性は尊重する。地球人はそこから多くのことを学ぶかもしれないが、だからといって服従はしない。
エウロパ人の高い知性は脅威でもある。地球人はそれに恐れをなすかもしれないが、だからといって彼らを滅ぼすことはしない。
エウロパに使者を立てて協議をする必要がある。そのためには簡単に相手に呑み込まれない人材が必要だ。エウロパ人に用意された天国で、たやすく快楽に溺れて堕落してしまうような意志の弱い人間ではいけない。
エウロパ人によって乗っ取られたとみられる核パルス推進宇宙船オデュッセウス号は、密度の濃い謎の液体に包まれた状態で今も木星の方向に飛び続けている。その航行軌道を計算したところ、このままの速度で向かうと、ちょうど公転してきたエウロパと合流することがわかった。
クリスチャン・バラードの機転から始まった救出作戦によって、オデュッセウス号に取り残されていた乗組員たちはあらかた救出することができた。しかし、何人かは船を降りることを拒み、激しく抵抗したので、全員を連れだすことは結局できなかった。
反乱勢力に対する空爆と掃討作戦によって焼け野原になってしまったカリストには、安全に生活できる場所がもはや残っていない。反乱勢力の残党たちは、今も各地で抵抗を続けている。遠征隊を指揮していたアメリカ合衆国第七海兵遠征軍司令官ジャスティン・フューリー中将は、エウロパ人に拉致されたことによる洗脳の影響が否定できないために解任され、代わりにアメリカ、シカゴのジム・ハワード消防本部長が総司令官を務めることになった。
この二人のやり方は百八十度違っていた。「攻撃こそ最大の防御」を信条として徹底した先制攻撃と過剰なまでの追撃を行なったフューリー中将に対し、人命の安全を第一に考えるハワード消防本部長は、まず生存者の救助を優先し、反乱勢力たちへの攻撃を後回しにした。
小さな丸眼鏡と白い口髭がトレードマークのハワード消防本部長は、その優しい人柄と、信念のためにはときに大統領にさえたてつく揺るぎない意志の強さによって、仲間たちからの深い尊敬を得ていた。
そんな彼が、みずからクリスチャン・バラードとの面会を求めたのは、オデュッセウス号から遠征隊が引き上げ、カリストへの帰還を果たしたわずか三十分後だった。
天を突くような箱舟が三隻並んでいる周囲に、軍・警察・消防が一体となって円形の臨時基地を形作っている。その中に停泊している消防宇宙船の一隻に、クリスチャン・バラードはひっそりと身を隠していた。
その消防宇宙船はガラパゴス日本区航空宇宙消防本部第十七小隊ブラボー・チームが所有するレムス号だと、ハワード消防本部長は丁寧な説明を受けた。彼を直々に案内したのは小山三郎隊長だった。
レムス号の医務室で、クリスチャン・バラードは恋人の天野幸子と共に大掛かりな検査を受けていた。それはクリスチャン自身が望んだものだ。自分の体内にエウロパ人から仕込まれたものがないかどうか、徹底的に調べてほしいと要求したのだ。その検査を受け持ったのは隊の救命医の夏木コウジと天野妙子だった。新人の妙子は、幸子の双子の妹だという紹介がなされた。
「なるほど、お二人はよく似ていらっしゃる」
ジム・ハワード消防本部長は目尻に深い皴を寄せて、柔和な微笑みを浮かべた。彼の笑顔は、そばにいる者をたちまち安心させてしまう不思議な力があった。
クリスチャン・バラードはゆったりとした検査着を着て、後ろに傾いた状態で台に固定されている。彼はがんばって頭を起こすと、なるべく礼を失しないように喋りかけた。
「司令官殿、正体を隠して船に乗り込んだ僕の所業を、どうかお許しください」
「まあ有事ですから、細かいことは何もかもが済んでから決めることとして、とにかく今はあなたの助けが必要なのですよ。バラードさん」
ハワード消防本部長は、これまで老齢の紳士として人前に現れていたクリスチャン・バラードが、実はこんな若々しい学生のような男だったということには、まるで頓着しなかった。彼は単刀直入に言った。
「一度始まってしまったごたごたには、それを解決するための多額のお金が必要です。あなたはどのくらい、お金を出すことができますか?」
「あなたは、ずいぶんとはっきりものをおっしゃる方なんですね」
クリスチャンは驚きを隠せなかった。「ええ、もちろん、僕が責任をもってすべてお支払いしますよ。そもそも僕が進めてきた計画がこの問題をこじらせたのですから」
「それを聞けて安心しました。お金絡みの揉め事に国同士の政治が絡むといろいろと面倒なので、あなたから一括してお金が出るとなれば、こちらも動きやすいですからね」
ハワード消防本部長の柔和な微笑みの向こうには、こんなしたたかな部分が隠れていたのだと、クリスチャンは感心した。この男なら信用できるかもしれない。
「それでは、僕が考えた今後の作戦をあなたにお伝えします」
クリスチャンはネビュラを通して、検査の間に急いでまとめた計画の覚書を、厳重なセキュリティを掛けた状態で消防本部長へと送信した。
「作戦はいくつかの段階に分けてあります。それぞれに鍵を掛けてありますから、そのつど僕が解除したら、その通りに実行してください」
「最初からすべてをお教え願えないのですか?」
「これは秘密主義だからというわけではないんです。相手の出方によってやり方を変えなければいけないから、こうするわけでして」
「なるほど、わかりました。あなたを信じましょう。その代わり、資金はふんだんに提供願いますよ」
「それはもちろんです」
二人は固く握手して、作戦の成功を願った。
それを横で見ていた幸子は、まるで我が子の晴れ舞台を見守る母のようなまなざしで微笑んでいた。




