ヘクターの最期・3a
ディビッド・リップマンは目を凝らしていた。薄暗くて狭い通路はオレンジ色の非常灯で照らされている。通路のすぐ先が曲がり角になっていて、遠くを見通すことができない。後ろを振り返っても、上下左右に分かれた道は複雑に絡み合って視界を遮っている。焦げ臭い嫌な臭気はその濃さを増し、彼の前後から押し寄せてくる。
リップマンは奇妙な音を聞いていた。それは金属がきしむ音だった。宇宙船全体が悲鳴を上げるようにきしんでいた。まるでオデュッセウス号が深海に沈んでしまったかのような、重くて密度の濃いものが周囲から船を押し潰そうとしているような、不穏で、不吉な予感を感じさせる音だ。
リップマンは本能的に、来た道を引き返さなければならないと思った。何か恐ろしいものが船橋の奥に潜んでいる。曲がりくねった通路の向こうで、怪物が自分を貪り食おうと待ち構えている。それはほとんど確信となって、リップマンを突き動かした。電池残量がどのくらいかわからないが、とにかく空を飛ぶ手摺の出力を最大にして、この場を離れようとした。
そうして振り返ったとき、彼の目の前に、それは現れた。
狭い通路は液体の塊で満たされていた。天井から床まで隙間なく、びっちりとその液体で埋め尽くされていた。リップマンは液体の塊と向き合った。その液体の表面は、まるで水槽から中を覗くように、天井から床までまっすぐ滑らかな断面を描いていた。細い筒の中をゼリーが押し出されてくるように、その液体の壁がゆっくりと近づいてきた。その壁が近づくごとに、高まった気圧がリップマンを圧迫した。鼓膜がバリバリと音を立て、その後から耳鳴りが止まらなくなった。胸が押しつぶされて、息を吸うのも吐くのも難しくなった。
せめて与圧服とヘルメットさえあれば、これほどの恐怖を感じずに済んだかもしれない。
後ろを振り向くと、すでに液体の塊は背後からも迫っていて、通路のすべてを埋め尽くしていた。前後から水に挟まれて、もはや絶望的だ。
この大量の水はどこから来たのだろうかとリップマンは考えた。最初からオデュッセウス号に積まれていた水だろうか? カリストから汲み上げた水だろうか? それとも、もしかしたら他の星からやって来た水だろうか?
三つ目の答えが正解だった。
そのとき、オデュッセウス号は他の星からやって来た水の中に深く深く呑み込まれていたのだ。
世界中の軍・警察・消防の宇宙船たちが協力してカーボンナノチューブの繊維を張り巡らし、オデュッセウス号を包もうと感動的な奮闘を演じていたそのとき、その水の塊はエウロパの方角から飛来してきた。
恐るべき密度と質量、そして致命的な放射線を放つ汚染された水は、無重力の中で不定形なゼリーのようにまとまって、地球人たちのあらゆる努力を飲み込んでしまった。
たちまちみんなは逃げ出した。張られていた網は切り離され、無重力の中を虚しく漂った。オデュッセウス号を確実に捕らえるべく複雑に編まれていた網は、広大な範囲に広がっていたために、多くの宇宙船が絡めとられて操縦不能になった。必死になってもがけばもがくほど網はもつれ、多くの仲間たちを巻き込んでしまう惨事となった。カーボンナノチューブの頑丈さがむしろ仇となったのだ。
各国の軍はただちに行動を開始した。レーザー兵器の使用を伝達し合い、その間合いに入らぬよう、互いに注意を促した。そうして、網を切断するために放たれたレーザーの光が、エウロパの空を鮮やかに染めた。
ディビッド・リップマンは、おぼろげな意識の中で、その美しい光景を眺めていた。彼は液体の壁に呑み込まれ、狭い通路から押し流されて、広い甲板通路まで出てきていた。
彼の身体は透明な液体の中に浮かび、細かな泡が彼の身体をびっしりと覆っていた。大きな風防ガラスの向こうでは七色のレーザーが飛び交い、カーボンナノチューブの網を赤く燃え上がらせている。液体は彼の口や鼻からとてつもない圧力で流れ込んできて、肺の中も胃の中もぱんぱんだった。
ところが、不思議と呼吸は苦しくないのだ。
液体呼吸という技術が存在することは、リップマンもよく知っている。ある種の炭素の化合物の液体は、その中に多量の酸素を含むことができる。その液体で肺を満たすことによって、空気中におけるのと同じ呼吸が可能になる。液体は気体よりも圧力による変形が少ないので、宇宙旅行で大きな加速度にさらされたときでも人体に受けるダメージが少なくて済む。そうした優れた特性を持ってはいるが、この技術は一般に普及することはなかった。与圧服とヘルメットで十分呼吸ができるのなら、こんな得体のしれない方法を使う必要はないという、単純な理由からだ。
まさか、それをここで体験することになろうとは、リップマンは思いもしなかった。そして、なぜそれが普及しなかったのかという理由もよくわかった。人間には溺れることへの潜在的な恐怖があるからだ。身体の中に液体が流れ込んできたとき、リップマンはひと思いに殺してくれと願うくらいに苦しかった。恐怖という感情に殺されかけたのだ。こんなものに慣れるために訓練を重ねるくらいなら、最初から手を出さないのが普通だろう。
ただし、呼吸に関しては、喉元を過ぎればどうとでもなる。
それよりももっと重大と思われる、別の恐怖がリップマンの脳裏を新たに支配した。もしも、この水が宇宙からやって来たものであるなら、きっと木星の放射線を浴びて放射化した物質が大量に溶け込んでいるに違いない。おそらく致死量をはるかに超える放射能が身体の中に入ってきている。もはや元の健康な身体に戻ることはないだろう。
人間は大きな絶望に襲われると、自分を救ってくれるものにならなんにでもすがりつこうとするものだ。それがたとえ見たことも触れたこともない未知の知的生命体であったとしても。
リップマンは白い不定形な物体が液体の中に浮かんでいることに、さっきから気づいていた。その白い物体は、窓の外から届くレーザーの鮮やかな光を浴びて、そのおぼろげな輪郭を現している。水の中に牛乳を垂らして、それが溶けずにまとまっているような姿をしている。水の中で生活している生物は、その環境に適応した姿かたちをしているものだ。
そこにいた白い物体はアメーバのように形を変えながら、リップマンのそばに近づいてきた。その物体は一つではなかった。何十もいるのだ。それぞれが意志を持って動いていることが、リップマンにもはっきりとわかった。
「エウロパ人のみなさん、私がまだしばらく生きていられるなら、あなたたちのことを地球の人々に紹介させていただきたく思います。それが私の最後の仕事になるかもしれませんが……」
その白い物体の一つがリップマンのそばに近づくと、まるで人間のそれを真似るように、にっこりと微笑んでみせた。そんな映画を、リップマンは昔観たような気がした。
「確か、その映画は『アビス』とか言ったかな。あの映画で海の底にいた生き物たちも、こんな風に人間に微笑みかけていたような気がするが、はたして、現実ではどうだろう?」
エウロパ人たちはリップマンを取り囲み、その柔らかな腕の中に包んだ。リップマンは素直に身を委ねた。




