トロイの木馬・2a
最近の忙しさのせいでみんなはすっかり忘れていたのだが、もともと知性を分離させて扱いやすくなっていた機械細胞に、再び知性を戻さなければならなくなったきっかけが、この「ガン化」だったのだ。
人間のプログラム通りに思いのままに利用することができた知性のない機械細胞「ミカエル」は、自分を修復する能力を持たないがゆえに、細胞分裂を繰り返すうちにエラーが蓄積し、やがてすべての個体がガン化するという問題があった。
ガン化した機械細胞は自分でエネルギーを作り出せないので、近くにあるあらゆるものを取り込んで食料にしてしまう。しかも、死ぬことがないので、増殖が永久に続いてしまう。
取り返しのつかない事態を防ぐために、機械細胞の知性体である「パンドラ」を受け入れ、地球や太陽系一帯に散らばったミカエルと融合させるというのが、プロメテウス号にまつわる一連の任務の目的だった。
そのときにパンドラと融合することなく、極めて危険な状態にまでガン化したミカエルの個体が、このカリストで保存されていたのだ。
ブラック・スワンがその手の平の上にひょいと載せている黒い球体の中に、その問題の物体が閉じ込められている。球体の周囲にはカリストの冷気が白くまとわりつき、それを威嚇するように、中で蠢いている赤黒いものが暴れ狂っているのがよく見えた。
龍之介は緊張にこわばりながら、ブラック・スワンの中にいる幸子に尋ねた。
「そいつを俺たちが預かったとして、その後はどう処置したらいいんです?」
その問いに、見知らぬ男性の声が答えた。
「僕が幸子の代わりに答えましょう」
「あなたは誰なんです?」龍之介は尋ねた。
「僕はソラリ・スペースライン特殊機工の技術者、ヘクター・クラノスです」
ヘクターはここで真実を洗いざらい打ち明けるつもりだった。ただ、いくら幸子に嘘をつかないと約束したとはいえ、自分がクリスチャン・バラードであることだけは、余計な混乱を招くことになると判断して、唯一の秘密として胸にしまっておくことにした。
龍之介の記憶に、一週間前の合同大反省会と、その後のパーティで行われたプロモーションの様子が蘇った。
「あなたは確か、人型特殊消防宇宙船の開発に携わった方ですよね?」
「あれは僕の仕事のほんの一部にすぎません。むしろ専門は機械細胞のほうですので」
龍之介は頭の中をもう一度整理した。
「それでは、クラノスさん、あなたにお尋ねします。この球体の中に閉じ込められている、ガン化した機械細胞を、俺たちはどのように処置したらよいのでしょうか?」
ヘクターは決めておいた通り、本当のことを正直に言った。
「実は、私たちにもわかりません」
「は?」と、龍之介は絶句した。
ヘクターはすぐさま後を続けた。
「生みの親である私たちにとっても、そこまでガン化が進んだ機械細胞をどう始末すればよいのか、その方法を見つけるところまで研究が進んでいないのです。そういう理由があって、あのプロメテウス号に積まれていた知性体のパンドラを呼び戻す必要があったのです」
横から守に耳打ちされたことを、龍之介は質問として投げかけた。
「それでは、もしもあのとき、全人類が「排除」を選択していたとしたら、ガン化した機械細胞はどうなっていたのでしょうか?」
ヘクターは本当に正直に答えた。
「私たちにとっても賭けでした。もしも「排除」が選択されていたとしたら、おそらく地球を守るために戦争が始まっていただろうと思います。そのくらいに事態は切迫していました」
龍之介は他の隊員たちが次々と投げかけてくる質問をネビュラにメモしていき、それらを噛み砕いて、ヘクターに投げかけた。
「今の俺たちは、そのときと比べて、どのくらい切迫した状況にいるんでしょうか?」
ヘクターは少しためらったが、なんだか幸子の存在がどんどん勇気を与えてくれる気がして、ずっと誰にも知らせていなかったことを、ここで初めて口にした。
「そのときと今とでは、問題の次元がかなり違います。私たちが選択すべきなのは、機械細胞をどう始末するかということではなく、古くから同じ太陽系内で暮らしていた隣人たちとどう付き合っていくかという問題なのです」
小隊のみんなの頭の上にクエスチョンマークが乱立した。
「それは、いったい、どういうことですか?」
「実は、ジェイコブ・ハンターの一味はすでにその隣人たちと接触しているのです。私たちはその情報をずいぶん前からつかんでいました。ジェイコブはその隣人たちに教えを請い、このようにガン化した機械細胞を封じ込める方法を学んだのです」
ブラック・スワンの手の平に置かれた黒い球体が、今にも破裂せんばかりに震えている。中では赤黒い物体がのたうちまわっている。
龍之介は訊かずにいられなかった。
「この球体は、人類の発明ではないということですか? 何か他の知的生命体の仕業だと?」
ヘクターは答えた。これは人類史上初めて、公式に発表される事実だった。
「その通りです。恐るべき放射線にさらされたエウロパにおいて、その放射線を友として暮らす知的生命体の文明が存在するのです。ガン化した機械細胞でさえ、彼らの文明の前では脅威にはなり得ません。私たちはエウロパをはじめとした木星系の文明に対抗するために、木星に軌道リングを築き、彼らからエネルギーと資源を奪うことを目的として、植民を始めたのです」




