スペース・オデッセイ・3b
エアロックの中で脱出を待っていた私たちは、全身がばらばらになるような激しい衝撃に襲われた。宇宙船が加速するときのGよりもはるかに大きなGが、あらゆる方向からハリケーンのように吹き荒れ、エアロックの中の人々はカクテルシェーカーの中身のようにかき混ぜられた。何か大きな力によって、私たちはエアロックごと宇宙船から引き剥がされ、宇宙に向けて放り出されたのだ。何が起きたのか、最初はさっぱりわからなかったのだが、何やらとてつもなく大きなものが私たちを「握りしめて」いるらしいことが様々な情報を総合することでようやくわかりかけてきた。
ブラボー・チームのネビュラに(同時に私のネビュラにも)、第十七小隊の小山隊長の姿が映し出された。彼はやや距離を置いて飛んでいる司令船から現状を見ているようで、切迫した気持ちをなるべく抑え、平静を保とうと努力しているのがよくわかった。
「先ほど隊に送られてきた情報にあった、船体の損傷の原因は小惑星の衝突であるという分析結果は誤りだということがわかったので、お前たちにもそのことを知らせておく。訂正して言うと、船の破壊は過激派による攻撃が原因だ。これより、われわれの任務は事故救助ミッションから戦地における従軍衛生ミッションに変更される。要救助者を速やかに消防宇宙船に移送したのち、前線の戦闘に参加して衛生任務に就け」
私と一緒に暗いエアロックの中でかき混ぜられているリーダーの桃井華が、驚くほど平然と力強く、隊長の声に答えた。
「隊長、私たち自身の状況が把握できていないのですが、そちらから何かわかることはありますか?」
隊長が答える。
「ここからよく見えているぞ。お前たちはクトゥルフ型宇宙船に捕らえられて、オデュッセウス号から遠く離れようとしているところだ。触手に取り込まれているが、頑丈なエアロックの中にいれば大丈夫だ。航空宇宙自衛隊の船が三隻、後方から追跡中だ。」
クトゥルフ型宇宙船とは、宇宙空間での現場作業に特化すべく大量のアームと巨大な胴体によって構成された大型重機宇宙船を揶揄した呼び方だ。なぜか現場の人間も好んでそう呼ぶようになり、その悪趣味なネーミングが一般化してしまった。
桃井華は、救命医の妙子から情報を聴き取り、それをそのまま隊長に伝えた。
「オデュッセウス号の中に、エアロックに入り切れなかった六名の要救助者と、しのぶさんが一人取り残されています」
隊長が答える。
「そちらには龍之介と源吾を向かわせた」
「外で待機していた愛梨紗は今、どうしていますか?」
桃井華のその質問に、隊長はほんのわずかに言葉に詰まったが、即座に決然としてこう答えた。
「愛梨紗と、彼女の乗る消防宇宙船は攻撃を受けた後、大破して漂流中だ。航空宇宙自衛隊の船が回収に向かっていると連絡が入った。安否は不明だ」
妙子がぐっと歯を嚙みしめて顔をうつむけたのが、すぐそばにいた私にはわかった。私のような素人が、仲間を失ったかもしれない彼女をどのように元気づけたり慰めたりすればよいのか、とっさにはわからない。ただ私には、彼女の手を握ってやることくらいしかできなかった。
「大丈夫、きっと大丈夫です」
私のやけっぱちな慰めに、妙子は手を強く握り返すことで答えた。
この時点で、私はこれが仮想空間におけるシミュレーションなのだということをすっかり失念していた。これは夢なんだと変に抵抗するより、この状況に素直に身を委ねたほうが「助かろうとする人間の本能」はよく働くだろうという考えに、私の意識が持っていかれたような形だ。人間の精神は仮想空間においても現実世界におけるのと同じダメージを受けるという説もある。私は訓練に参加しようと決めるときに、もっとそのことについて深く考える必要があったように思う。こうなってしまうと後の祭りだが。
「諦めるんじゃないよ、妙子。私がネビュラで消防宇宙船に接続してみるから、愛梨紗の生体反応が現れるかどうか確かめてみて」
オデュッセウス号に六名の要救助者と共に取り残されている千堂しのぶが、仲間にそう呼び掛ける声が、私のネビュラにも届いた。
「消防宇宙船のメイン回路がやられているから、それと干渉して愛梨紗のネビュラとも接続できないんだ。予備電源があるはずだから、そっちを探ってみるよ」
しのぶのその声に、リーダーの華は「お願い、しのぶさん」と返事を送った。
通信士の夏木ユズも、ネビュラを通してしのぶのサポートを始めたようだ。こうしてチームのみんなが仲間を救うために一丸となる姿を見ていると、私は宗教画を見るような崇高な美しさを感じてしまう。
やがて千堂しのぶは生きている電源を見つけたらしく、ネビュラを操作して巧みに接続を切り替えた。
「ようし、愛梨紗、聞こえたら返事しな」
返事は聞こえない。しのぶはそれでも諦めずに電源の復旧をひたすら試し続けた。
「愛梨紗ちゃんの生体反応が見つかったよ」
妙子が突然に声を上げた。「返事は返ってこないけど、心拍も呼吸も異常なし。軽い脳しんとうの診断が出てる」
「頭をぶつけて気絶しちゃったんだよ」ユズが言った。
数秒の後、しのぶの明るい声が聞こえてきた。
「消防宇宙船の予備電源は完全復旧したよ。私がこっちに戻ってくるように操縦してみる」
現場の緊張が少し緩み、みんなが安堵しているのがその動作の変化でわかった。不安と苛立ちが抜け、声と動きが柔らかくなったのだ。
佐藤愛梨紗のほうはひと段落したものの、肝心の私たちの状況は少しも改善していなかった。クトゥルフ型宇宙船による責め苦はまだ続いていて、その触手に締め付けられているために、頑丈なエアロックもあちこちに亀裂が走り始めている。ヘルメットの中に酸素は満たされているとはいっても、真空の宇宙との間にズタズタの金属板一枚という状況は、それだけでもとにかく息苦しい。背中に背負った生命維持パックがいつまで持つかもわからない。
この訓練が終わった頃には閉所恐怖症になっていることは間違いないだろうなと、私は諦めかけていた。リーダーの桃井華は様々な情報を収集して助けを呼んでいるようだが、決め手となるような答えは返ってきていない。
エアロックはついに限界に達したのか、私たちを中に残したまま全方向から圧縮され始めた。ついに死が訪れるのだ。肉体は無事だとしても、私の精神には一度味わった死の記憶としてずっと残り続けるだろう。メンタルケアの予約を取らなければならないと、心当たりを探ろうと思っていた、そのときだった。
思いもかけぬ存在が、そこに現れたのだ。
私はそのときに見たものをぜひみなさんに紹介しておきたくてたまらない。
アルカイック・スマイルという言葉がある。古くはギリシャ彫刻や、仏教の仏像、ルネッサンスの時代ではモナ・リザなどが有名だが、あのなんともいえない柔らかな微笑のことだ。
私はそれを絶望の淵で見たのだ。全身が白い光で包まれた、アルカイック・スマイルをそのおもてに湛えた巨人が、迫りくるクトゥルフの触手から私たちを救い出す一部始終を。手斧でもって触手を切断し、砕けようとしていたエアロックから私たちをその手の平に受け止めた、その神々しい姿を私は一生忘れないだろう。
アルファ・チームのパイロットの山田健太郎が、その巨人に乗り込んでいたことを後に私は知った。彼はそのとき、こう言ったのだ。
「みんな、待たせたね。こいつが来たからにはみんなの無事は約束されたよ。人型特殊消防宇宙船スペース・ガーディアン一号のお出ましだ」
それに対し、千堂しのぶが「ださっ」と一言呟いたことも、私の記憶にしっかり刻まれている。




