スペース・オデッセイ・3a
加速のための四日が過ぎ、慣性飛行に切り替わった頃、オデュッセウス号は火星の軌道を越え、小惑星帯に入った。
太陽と木星のラグランジュ点に位置し、二つの巨大な天体の重力によって引き裂かれた百万個以上もの小惑星が、この一帯にリング状に集まっている。その密度は想像以上にはるかに薄い。小惑星同士の距離は平均で五百万キロメートルは離れているうえ、その九十九パーセントには名前が付けられ、位置と軌道が完全に把握されているので、全長五百三十二メートル、幅百四十五メートルのオデュッセウス号がそれらと衝突する可能性は極めて低い。
ただし一パーセントの可能性が残っているので、船の周囲に複数の小型無人宇宙船を飛ばし、そこから発生させた磁気の網によって、隕石や見えない小惑星へのシールドが形成される。そのシールドが異物を感知すると、小型宇宙船からレーザーが照射され、それらを焼き尽くす仕組みになっている。
ガラパゴス日本区航空宇宙消防本部に所属する宇宙消防士たちは、各隊合同で、小惑星帯での衝突事故に備えたシミュレーション訓練を実施した。訓練は仮想空間でアバターを使って行われる。一般人でも希望すれば要救助者として参加することができる。私ことディビッド・リップマンは、かの有名な天野妙子の所属する隊に密着取材を申し出てみたところ、快い了解を得たので、ここにそれを紹介することとする。
「第十七小隊ブラボー・チームへ、こちらアルファ・チーム、現状を報告せよ」
「こちらブラボー・チーム、第五隔壁と第六隔壁の中間地点で待機中、空気は残りわずか、室内温度は摂氏マイナス二℃、要救助者は十六名、そのうち怪我人五名、一人は重傷、意識不明者なし、全員与圧服を着ており、バイタルサインはいずれも正常」
窓がなくて薄暗く、空気の薄い密室内で、ディビッド・リップマン(※私)のネビュラには、隊員たちの交信が途切れる暇もなく流れてくる。オレンジ色の髪をした若い通信士の小気味よい声が、我々の今置かれている状況を先輩チームに伝えている。宇宙消防士たちは黒いボディスーツの上にオレンジのジャケットを羽織り、全面が透明なすっきりとしたヘルメットを被っている。
「リップマンさん、意識ははっきりしていますか? 思いつく限り、なんでもいいから喋り続けてください」
と、ネビュラで私のIDを確認した救命医の天野妙子が声を掛けてきた。彼女は横たわる私の隣りにしゃがみ、血がとめどなく流れてくる私の太ももに止血のための接着剤を流しこんでいるところだ。
「ええ、意識はとても明瞭です」
私が声を出すと、被せられているヘルメットが一瞬だけ白く曇り、その後すぐ透明に戻った。。
私はここで、宇宙港で彼女の姉と会ったことを話そうかと一瞬考えたのだが、そういう俗なやり取りがあまりにそぐわないほどの真剣な雰囲気なので、慎重に言葉を選び、役になり切って、こう尋ねた。「小惑星がぶつかったのですね。この船はまだ航行可能でしょうか? 私たちはここで宇宙の藻屑となってしまうのですか?」
妙子は優しくいたわるように答えた。
「とても小さな石と接触しただけです。救助のためのバックアップ船が何隻も随行していますので、よほどのことがなければ助からないということはありませんよ」
ブラボー・チームのリーダーの桃井華が、ネビュラを通して外に待機している消防宇宙船に指示を出した。
「愛梨紗、要救助者を移すから、消防宇宙船をできるだけ近づけて」
「了解」とパイロットが返事した。
オデュッセウス号の外殻の外側から、軽いノックの音が三回響いた。消防宇宙船が配置についた合図のようだ。リーダーが指示を出す。
「愛梨紗、ポリュペーモスを投入して」
「了解」
室内にいたブラボー・チームの四人が、たくみな連携で要救助者たちに寄り添い、全員をノックの聞こえた壁際から引き離した。私も妙子の肩を借りて、両方の手の平で跳ねるようにして無重力の中を移動した。太ももの出血は止まったが、シミュレーションはリアルで意識がやや朦朧としてきた。
「少し眠くなってきたようです」
私がそう言うと、妙子は私の腕や背中をさすって刺激を与えてくれた。
「眠らないで。なんでもいいですから、私に話しかけてください」
そこでとうとう、私は我慢しきれずに姉の話題を出した。
「実はあなたのお姉さんをラウンジでお見掛けして、一緒に搭乗口までやって来たのですよ。お仲間とはぐれて道に迷われたとかおっしゃいましたかな。なかなか面白い方でした」
それを聞いたときの妙子の反応は実に明確で愉快ですらあった。薄暗い部屋のヘルメット越しでも彼女が赤面していることがわかり、心の底から申し訳なさそうにしているのが見て取れた。
「それはどうも、大変ご迷惑をおかけしました」
私は詳しいことは何も話していないのに、彼女には姉がどんなことをしでかしたのかが容易に想像できるようだ。私は否定せずに、正直な気持ちを答えた。
「いえいえ、お気になさらず。こちらも楽しませていただきましたので」
「本当にごめんなさい。姉には後でしっかり注意しておきます」
そんな雑談をしていると、船体の外から外殻を切り裂くパワーソーの刃が差し込まれたことが、激しく散り始めた火花でわかった。薄暗かった部屋全体が、奔流のように壁から吹き出す白い火花に照らされ、一挙に明るくなった。宇宙消防士たちのヘルメットにも、その火花が映り込んでいる。
火花の奔流が止まると、二人の宇宙消防士(宇宙船技師の千堂しのぶと、通信士の夏木ユズ)が、長方形に切り離された外殻を受け止めて、それをゆっくりと床に横たわらせた。船の外にはすでにエアロックが取りつけられており、そこにパワーソーを持った金属の骨組みだけのロボットが立っていた。彼の名はポリュペーモスといい、隊員たちは親しみを込めてポリーの愛称で呼んでいる。ポリーの頭の上に離れて置かれた二つの電球のような目玉が、船内を見回して一通りの情報を集めている。
私は治療が必要な重傷者のため、最優先でエアロックに運ばれた。怪我をしていない元気な要救助者たちも、入れるだけどんどんエアロックに入らせると、船に接している側のハッチが閉じられ、中にわずかに残っていた空気が抜かれた。それからみんなに命綱が結ばれた。この後は外側のハッチが開いて、いよいよ宇宙空間に出ていくことになる。
そうやって待っていたとき、この訓練に臨んでいる者たち全員のネビュラに、唐突にこんなアナウンスが流れた。
「これより、航空宇宙自衛隊、航空宇宙機動隊、航空宇宙消防隊合同による、抜き打ち演習に切り替わる。各隊員は全力を尽くし、各々の任務を遂行せよ」
これが訓練であって本当によかったと、後から神に感謝したほどの凄まじい体験が、私を待ち受けていた。




