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ガラパゴス・ガーディアンズ  作者: 霧山純
第二十話「宴のあとに」
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宴のあとに・1b

「おはよう」を元気に言いながら返事も待たずに華は襖を開けた。

「おはよう、お姉ちゃん」

 そこにいたのは妹の翼で、友達(弟子)の智香と一緒にみんなの布団を端に寄せているところだった。狭い部屋に六人も寝ていたので、こうしないとちゃぶ台も出せないからだ。


「おはようございます、お姉さま」

 寝間着の浴衣の襟を正した智香は、きれいな姿勢で畳に正座し、三つ指をついて挨拶した。ツインテールの髪が胸元に垂れる。「本日もご機嫌うるわしゅうございますね」

 慌てた華は同じように三つ指をついて正座した。

「どうもご丁寧なご挨拶ありがとうございますでございます」

「変なの」

 と言って、翼はけらけら笑った。


「ねえ、翼たち、これから一緒に温泉行かない?」と華。

「行く行く行く行く」

 翼は四つ返事で引き受けつつ、うつぶせで倒れている父親の布団と向き合った。「お父さん、まだ起きられなそう? 布団動かしたいんだけど」

 父の哲志は枕に顔をうずめて突っ伏している。父は力なく言った。

「ごめんな、これだけ残しといて……」


 布団をどけて空いたスペースに、母の敏江がちゃぶ台を運んできた。

「バカだねお父さん、はしゃいじゃって鬼ごっこの鬼なんかするから」

「楽しかったんだからしょうがないじゃないか」

 喋るたびに、父の白髪交じりの角刈りの後頭部が揺れた。「久しぶりに青春を取り戻した気がしたぞ。腰は死んだがな」

 華の頭の中には昨夜の、「西郷さんが出たぞおおおおおお!」という声のそばから「広志も出たぞおおおおおお!」という声が聞こえてきて、みんながお湯を蹴散らしながら「きゃああああああ!」と逃げまどっていた様子がプレイバックされた。穴があったら入りたい。


「私がマッサージしましょうか?」

 智香の申し出を、母は大きな手を広げて制した。

「あんたにそんなことをさせるのはもったいない。私で十分」

 そう言って母は、うつぶせの広志の太ももにどっかりと尻を下ろすと、彼の腰をぐいぐいと手で揉み始めた。父は苦痛の混じった歓喜の声を上げた。


 いろんな恥ずかしさが込み上げてきた華は、早くここから離れたかった。

「もう行こう、翼。学校もあるでしょ? もう時間ないし」

 今日は木曜日だ。時刻は六時ちょっと過ぎ。

「うん」

 翼は素直に返事した。「お母さんたちどうする?」

「あんたたちだけで行ってきな。うちらはお茶飲んでのんびりしてから行くから」

「お母さんたちはレストランのほうに来るでしょ?」と華。

「お風呂はご飯の後でいいよね? お父さん」

 と訊きながら母が腰を押してやると、父は「おお……」と答えたので、母は「だって」と言った。


 娘たち三人が部屋を出ていった頃、小百合おばあちゃんはみんなのお茶をめいめいの湯呑に注いであげていた。顔を洗ったおじいちゃんは、ご機嫌な様子でちゃぶ台の横に座った。敏江からマッサージを受けている広志の様子を見て、おじいちゃんは目を細めた。

「昨日はこいつも若返った気がしただろうが、俺もずいぶん懐かしい気分になったよ」

「あら、そうですか」

 おじいちゃんとおばあちゃんは並んでお茶を飲んだ。


「話の内容はちっとも覚えちゃいないんだが、えらく充実した時間が過ごせたよ。あんな知的な会話ができたのは何十年ぶりだろうか。自分がソクラテスにでもなったような気がしたよ」

「それはよかったねえ」と言って、おばあちゃんはクッキーをつまんだ。

「あのアレクサンダーという男はずいぶんと賢い男だった。二人きりであんなに深い話ができたからなあ。中身はまったく覚えちゃいないが」

「あら、二人きりでしたっけ?」

「差し向かいだったろう」

「そうでしたっけ、もう一人いらっしゃった気がしたけど。三人で話してなかったかしら?」

「お前が言っているのは、あの無口な秘書のことだろう?」

「いいえ、男の(かた)だったけど。たしか白い服を着ていたような……」

「アレクサンダーは黒い浴衣だったかな。他に誰かいたような気もしてきたが、顔も思い出せないんだから、まあ、どうでもいいじゃないか」

「そうよね、何を喋ったかも覚えていないんだから、どうでもいいでしょ、細かいことは。楽しかったんなら、それでよし」

「そういうことだ」

 おじいちゃんとおばあちゃんはからからと笑った。


 一方その頃、ようやく目を覚ました龍之介は、窓の隙間から漏れる夏の日差しを顔に受けながら、布団に座って呆然としていた。横では源吾とコウジと守が折り重なって、今もなおいびきをかき続けている。


 龍之介のネビュラに、健太郎からのメッセージが残されていた。二頭身の健太郎が親指を立ててウインクしているイラストが表示され、その横に吹き出しがあって、「俺、女の子たちとお風呂行ってくるわ! お前らも来いよ!」と言っている。


 どんな顔をしてみんなと会えばいいのだろう……

 龍之介はがっくりとうつむいて、ため息をついた。昨夜の記憶が蘇る。「西郷さんが出たぞおおおおおお!」という声と、「広志も出たぞおおおおおお!」という声の後から、よせばいいのにみずから「龍之介もいるぞおおおおお」と叫んで温泉に飛び込んだ自分の姿が何度も繰り返しプレイバックされた。水しぶきを上げながら逃げる女の子たちを夢中で追いかけていた自分の締まりのない顔を思い出すと、あのときの自分を殴ってやりたいと思った。いっそ、このまま消えてしまいたい。


 それもこれも、あの女(※幸子)が俺をそそのかしたからだ。あの女さえいなければ、あんな醜態をさらすことなどあり得なかった。いや、そうじゃない。浮かれて調子に乗っていた自分の自制心のなさがすべての過ちの原因だ。俺がすべて悪いのだ。

 あのとき、俺の顔をまともに見ようとしなかった華のよそよそしい態度が嫌でも思い出される。この恥ずかしい過去を好きな人に思い出されながら、残りの人生を苦しみ生きろというのだろうか。


 神よ、仏よ、もしも願いが叶うなら――

 龍之介は天井を仰ぎ、本気でこう祈った。人の頭の中から都合の悪い記憶だけを消し去ってくれる便利な機械をください、と。

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