続・饗宴(究極の秘密)・4b
妙子が、オットーの首に両腕を絡め、その金色の髪を撫でながら顔を近づけたとき、耐え切れなくなったアレクサンダーは追いすがるように言った。
「頼む、それ以上はやめてくれ」
妙子は鋭い目で彼を睨み返し、勝利を確信した微笑みを唇の端に浮かべて、次にその視線を夫たるオットーの両目へと移した。二人の息で丸眼鏡が曇ってしまったので、オットーは眼鏡を外し床に落とすと、そばに駆け寄ってきた幸子がそれを受け止めた。
饗宴が催されている宴会場において、大浴場を囲む者たちのすべての視線はこの二人に注がれていた。華の両親と祖父母、オットーの父と母、妙子の仲間の第十七小隊の面々は言うまでもなく、その他、料理を準備する従業員たちにおいても、森田町長のそばでアレクサンダーとの今後の交渉事の詳細を詰めている町の職員たちにおいても、はたまた、会場に遅れてやって来たために中へ入ってよいかどうか迷いながらエレベーター横の巨大な鉢植えのソテツの陰に身をひそめている桃井翼とその友人の白石智香においても同様だった。二人は浴衣を借りて、それを仲居さんに手伝ってもらいながら着付けるのに時間を費やしすぎたために乾杯に遅れてしまったのだった。翼は薄紫の浴衣を選び、智香は薄黄色の浴衣を選んだ。ショートカットの翼は紫の貝殻の髪飾りを着けてもらい、智香は左右に分けた髪をツインテールにまとめてもらっている。
「ある意味、ギリギリ間に合いましたね、師匠」智香はひそひそ声で言った。
「でも、ここからじゃ肝心の部分が見えないよ」
翼は悔しそうに言った。「今から駆け込んだら、すごい邪魔しちゃうだろうしなあ……」
翼と智香の視線の先はちょうどオットーの金色の髪と、絡まった妙子の両腕によって隠れている。その手前でちょろちょろしている大胆な服を着たきれいなお姉さん(※幸子)は目の保養にはなるものの今のところはどうでもいい。
「まあいいや、後でお姉ちゃんにネビュラで見せてもらおう」
「それがよろしいでしょう」
一方、愛を確かめ合おうとしている夫婦のすぐそばで苛立ちを隠せない人物が一人いた。彼はついに耐えきれなくなって、その場の高まり切った空気をご破算にする覚悟で声を上げたのだった。
「やめろやめろ、こんなの見ていられない!」
そう言って立ち上がったのは、なんとこれまでずっと沈黙を守っていたオットーの父のペーター・ハイネマンだった。
「どうしたのよ、あなた?」妻のヘレナも驚愕している。
ペーターは声を荒げた。
「私は二人の華々しい門出を見守りたいと思っているのに、肝心なところでこの『ああああああああああ』とか『おおおおおおおおおお』とか『妙ちゃああああああん』とかいう邪魔な文字はなんなんだ。二人がちっとも見えないじゃないか」
寝椅子に座っていた全員がそこから転がり落ちそうになるほど、ペーターのそのセリフは完全に場違いなものだった。
「ごめんなさい、つい興奮しちゃって……」
華が代表して謝ると、視界を埋め尽くしていた文字の洪水が一旦は治まって、邪魔するものは漂う温泉の湯気だけになった。大浴場の反対側にいる愛梨紗とユズとしのぶが舌を出して反省している。男たちは知らん顔をしている。
「いいのよ、華ちゃん、この人が機械の使い方を知らないだけなんだから」
ヘレナは夫に向き直ると、小声できつく叱りつけた。「バカね、文字の消し方はこうするのよ」
その騒ぎの隙を見て、翼と智香は誰にも気取られることなく、大浴場の脇を駆け抜け、母親の寝椅子の陰に滑り込むことに成功した。
「あら、あんたたち、かわいくしてもらったのねえ」と、母の敏江は目を細めた。
「やっほー、お姉ちゃん、久しぶりー」と、翼は姉に向かって手を振った。
華は、妙子に全力の注意を向けていたので、妹の突然の登場に十分な反応をする余裕がなかった。なので、そっけなく手を振り返したのだが、妹はそれでも嬉しそうだった。
「あのう……」
お伺いを立てるように、主役であるはずのオットー・ハイネマンは言った。「そろそろ、続けてもよろしいでしょうか?」
彼は妙子と向き合ったまま立ち尽くしている。
「おう、思いっきりやれ」
そんな声を上げたのは、これまで前に出るのを遠慮していた華の父の広志だった。「オットーさんも妙子さんも、みんなの見ている前でお互いの気持ちを証明して、そこにいるアレクサンダーさんが付け入る余地なんかないってことを見せつけてやりなさいよ」
「そうだそうだ」と祖父の哲志も賛同すると、母とおばあちゃんも「そうだそうだ」と声を合わせた。
そのとき、ペーター・ハイネマンはトーガの襟を正して再び立ち上がった。横にいるヘレナが手を伸ばして止めようとするのも構わず、義父は堂々たる声音でこう言い放ったのだった。
「妙子、オットー、君たちは慌ただしく籍を入れたために、十分な披露宴を行う機会がなかったね。今こそがそのときだと思うよ。この饗宴は君たちの披露宴でもあるんだ。今こそ見せてくれ。君たちの誓いのキスを。きっと神も君たちを祝福してくれることだろう」
歯噛みして反撃の機会をうかがっていたアレクサンダーは、義父のこの一言によって戦意を失ったようだった。神の名を出されたのでは、自分の要求など子供の駄々に過ぎないことが、誰の目から見ても明らかだ。恥ずかしさが胸に込み上げ、この場に自分の居場所などないことが、アレクサンダーにははっきりとわかった。
なぜ僕はこんなことをしているのだろう? ここに来て、そんな疑問がアレクサンダーの中に急に湧き上がった。僕はどこで道を間違えたのだろうか。僕はエリザベスとの婚約を拒否して、クリスチャン・バラードの操り人形であることから逃れるために、すべてをかなぐり捨てて妙子に救いを求めたのではなかったか。あのときの妙子はとても幸せとは言い難かった。夫がいても二人の心は繋がってはいなかった。だから自分こそが彼女を幸せにでき得ると思ったのだ。むしろ妙子を救うことと自分が救われることとは同一のものであるとさえ思えていた。
ところがどうだ。今の妙子は迷いから解放されて夫としっかり結びつき合っている。何が彼女をそこまで変えさせたのだ?
「ねえ、マギー、僕はどうしたらいいと思う?」
彼は後ろで控えている秘書に声を掛けた。彼女は困ったように眉根をひそめて、ただ黙っている。
そのとき、彼女の代わりにその問いに答えた者がいた。
「教えてやるよ、アレクサンダー」
すべてを見通したような力強い声が背後から聞こえてきた。それは幼少の頃から聞き慣れていて、忘れたくても忘れられない、世界でもっとも頼もしく、世界でもっとも憎らしい、たった一人の肉親の声だった。
アレクサンダーは猛烈な勢いで身体を回し、声が聞こえた方向を見た。そこには豪奢なトーガを着た、見慣れた兄の姿があった。彼の透き通ったグリーンの瞳があった。
「クリスチャン……」
他人のいる前ではけっして口にしてはならないと決めたはずの、その名をつぶやく弟を、兄はあえて止めようとはしなかった。
普段はヘクター・クラノスという名を通しているクリスチャン・バラードは、弟の寝椅子に腰かけ、隣りに肩を並べた。宴席の人々の注目は若い夫婦が独占しているので、彼ら兄弟がみんなの関心を集めることはなかった。
「教えてやるよ、アレクサンダー」
クリスチャンは言った。「妙子とオットーは、自分たちが社会から切り離されていないことを知ったんだ。以前の二人は、二人だけでなんとかしようとしていた。代理母ロボットを利用しようと思ったり、卵子を冷凍保存しようとしたりしてね。でも、どこかで手詰まりを感じていたんだ。それでは本当の解決にはならないと、二人は気づいていたんだな」
「僕は妙子に救いを与えようと思ったんだ。それと同時に僕自身も救われたかった」
「違う。お前は妙子が救われる道を奪おうとしていたんだ。彼女を所有することによって、自分だけが救われればいいと思っていたんだ」
「勝手に決めつけないでくれ、兄さん。僕は自分にとってよかれと思うことが、彼女にとってもよかれと思って、こうすることに決めたんだ」
「それは定言命法の履き違えだ。お前は自分の狭い視野で妙子を見ていたんだ。お前と妙子を囲む狭い範囲だけでものを見ていたんだ。妙子の周りにあるもっと大きな繋がりを見ていなかったから、お前の認識には偏りが生まれたんだ」
「その通りです」
と、急に口を挟んだのは、西里が生んだ大哲学者、桃井哲志教授だった。
「だからカントは『汝の意志の格率を常に同時に普遍的立法の原理として通用することができるよう行為せよ』と言ったのです。『普遍的立法の原理』の範囲とは、それはそれはとても広いものです。ある人にとって良いものが、他の人にとっては良いものではないかもしれない。それを考えながら良いものだけを選び取って、その範囲を広げようとすると、実に困難な壁にぶつかります。だからこれまで人類は議論を重ねて七転八倒しながら法律を作ってきたのです」
「ありがとうございます、教授」
クリスチャンはおじいちゃんに敬意を表し、はじめましての挨拶と固い握手を交わした。おじいちゃんは、目の前の人物がかの有名なクリスチャン・バラードだと知って、驚きの声を上げたが、敬意へのお返しとして、騒ぎ立てることは控えた。クリスチャンは話をつづけた。「アレクサンダー、社会に秩序をもたらすためには二つの方法がある。昔、お前ともよく話し合ったよね」
「民主主義と独裁だろ? そして、兄さんは独裁の信奉者じゃないか」
クリスチャンはグリーンの瞳に深い輝きをきらめかせながら答えた。
「その通りだ。僕は独裁をこそ信じる」
「それは兄さんが、この社会を信用していないからだ。社会を信用していなかった点では、妙子たちと同じじゃないか。兄さんは自分の力だけで世界をなんとかしようとしている。そのために僕やエリザベスを無理やりに巻き込んで、すべてを思い通りにしようとしているんだ」
「それはギャツビー爺さんがそうせよと言い残したからさ。今の社会は未熟だ。だから力を持った者が正しい方向へ導いていかなければならない。そうして社会が正しい軌道に乗ったとき、独裁者は初めてその席を民主主義に譲ることができるんだ」
アレクサンダーは久しぶりにその懐かしい老人の名を聞いて心が揺らいだようだった。同じセリフを、彼は兄から何度も聞かされていた。しかし、今日は同じ言葉でも、違う意味として彼の胸に響いたのだった。
弟が黙っているので、クリスチャンはさらに続けた。
「お前が考えている、機械細胞を世界の人たちが自由に扱えるようになる世の中は、まだまだ先のことさ。人は自分よりも強い存在を知ることによって、初めて自分が成長することの必要性に気づくんだ。だからみんなに機械細胞のほうが人間より優れていることをはっきりと見せて、それに追いつくための努力を始めるきっかけを作ってやらなければならない。その自覚が生まれた頃には、人間の浅い知恵で機械細胞を思い通りにしようとすることがいかに愚かなことかがみんなにもわかるだろう。オープンソース化はそうなってからの話だ」
「ひとつ聞かせていただきたいのですが」
哲志おじいちゃんが恐縮しながら口を挟んだ。「機械細胞とは、どういった原理原則でその行動を選択するのでしょうか? 人間とは異なるものなのでしょうか?」
クリスチャンは自信を持って答えた。
「大雑把に言えば、定言命法・分裂生成・エロスが機械細胞の三原則になります。普遍的な善を追求しつつ、自己と他者を区別し、その二つの原則を踏まえたうえで美しく成長するようにプログラムされています」
「それを先験的に実行するとなれば、人間にとって大変な脅威になるでしょうな。人間は迷いに溺れて、成長する一歩目さえ踏み出すことが難しい生き物ですから」
「それはどうだかわかりません。機械細胞の中にも怠け者や愚か者がいるかもしれない。『自他を区別せよ』と命じているわけですから、いろんな奴が出てくるはずです」
「ともかく、楽しみなことには違いありませんな。われわれもうかうかしていられない。せめてかつて人類というものがあったと尊重して言い伝えてもらえるくらいには、存在感を示す必要があるでしょう」
おじいちゃんがそう締めくくったところで、ようやく誓いのキスの準備が整ったようだった。こんな長話ができるほどグズグズしていたのは、立会人として本物の牧師を呼ぼうと義父のペーターが言い出したからだった。
痺れた腕を下ろしていた妙子は、再び両腕をオットーの首に回した。オットーは彼女の背に手を回して身体を引き寄せ、しっかり安定するようにした。
「キスは五、六秒くらい、長めでお願いしますよ。みなさんからよく見えるように。そして、心の中で『愛してる』と唱えて、お互いの心をひとつにするのです」
司祭服を着こんだ壮年の女性の牧師はそう言うと、若い夫婦の緊張を解くようににっこり微笑んだ。「それでは、誓いのキスを」
妙子とオットーは顔を向け合い、目を閉じて、みんなの祝福を浴びながら、誓いのキスを行なった。それは長かった苦悩からようやく解放された瞬間であり、二人がこの社会の中で夫婦として、そしてやがては親として責任を果たすことに誓いを立てた瞬間でもあった。
アレクサンダーは、それを黙って見つめていた。




