続・饗宴(究極の秘密)・1b
ちょうどそれと同時刻、幸子と同じ十階に部屋を用意してもらっていたヘクター・クラノスは、饗宴をよそに忙しく立ち働いていた。
彼の部屋は最高級スイートルームとは比べ物にならないほどつつましい洋室で、窓もほとんどなく、ただ寝室にベッドがひとつあって、温泉の通っていないただのユニットバスが備えられているだけという質素なものだ。なぜなら、それは宿泊客のためのものではなく、従業員が宿直のために使う部屋なのだ。
ただでさえつつましい小さな部屋でありながら、ヘクターはさらに、唯一の家具であるベッドを仲居さんに頼んで撤去してもらい、代わりに小さなキャスター付きの椅子を用意してもらっていた。
彼はその何もない部屋の真ん中で椅子に腰かけ、四方の壁を睨みながら腕組みしている。この部屋は縦横高さがほとんど同じ立方体だ。外に面した壁にはたった一枚の窓があるが、白いカーテンで閉め切っているので問題ない。ドアは壁と同じ白塗りなので問題ない。しかし、気になるものがひとつある。よく見れば窓の斜め上の隅っこに据付の小さな棚があって、それが何もない部屋にただひとつ異物を感じさせるものになっていた。それがヘクターには気に入らなかった。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ、お入りください」
ヘクターの返事に「失礼します」と入ってきたのは二人の若い女性の大工だった。
二人ともキャップを深々と被った白人女性で、革製のジャケットにTシャツにジーンズという、シンプルな三点セットを着込んでいる。一人は茶色いキャップを被り、もう一人は白いキャップを被っている。そのキャップの後ろからポニーテールの先を飛び出させているところも同じだ。背の高い、しゃっきりした姿勢で白いキャップを被ったほうが、「桃井工務店」と書かれた大きな工具箱をぶら下げている。
顔にそばかすのある、赤毛で茶色いキャップを被ったほうの女性が、丁寧な英語で挨拶した。
「こちらがヘクター・クラノス様のお部屋で間違いございませんか?」
「ええ、そうですよ」
「どういったお困りごとでしょうか?」
ヘクターは、部屋を奥へ行ったところにある、窓の斜め上の小さな扉付きの棚を指さした。
「あの棚がちょうど邪魔な位置にあってね。あいつを外してどこかにうっちゃってほしいんだ」
「かしこまりました」
二人の大工は部屋の奥へと進んでいった。鉄板の入った安全靴がガツガツと重い足音を立てた。
白いキャップのほうが工具箱を床に置き、中から電動ドリルを取り出した。氷のように透き通って抑揚のない声で、彼女は言った。
「電源をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、遠慮なく」
ヘクターの許可を得ると、電動ドリルにワイヤレスで電力が供給された。
茶色いキャップの女性が棚の片側を支え、もう片側をヘクターが支えているところに、白いキャップの女性がドリルを構えて立った。彼女は棚の下の金属製の腕木から手際よくネジを抜いていく。次第にそれを支える二人の腕に重みがのしかかってきた。最後は三人でそれを抱えて、廊下まで運んだ。廊下では仲居さんと二人の従業員が、外した棚を受け取るために待っていた。
ヘクターは、棚を持って去ろうとしている仲居さんたちにこう告げた。
「これでもう、僕のほうの用事は済みましたので」
ヘクターはドアを閉めると、部屋に残っている二人の女性の大工と向き合った。彼女たちは、かしこまって直立不動の姿勢でいた。
「やあ、元気だったかい、エリザベスとミスティ」
ミスティは相変わらず無表情だったが、エリザベスは一気に表情を崩して、しなだれかかるようにヘクターに抱きついた。
「すまないね、君には辛い思いをさせてしまった」
ヘクターは、エリザベスの背中をさすって慰めた。エリザベスは弱々しくすすり泣いている。彼女とはあまりにも対極にあるガサツな女性(※幸子)としばらく行動を共にしていたので、ヘクターには彼女のか弱さがとても新鮮なものに思えた。
「アレクサンダーも、ずいぶん言いたいことを言うようになったもんだ。昔は僕に黙ってついて来るばかりだったのにな」
少し落ち着いたエリザベスは、身体を離してこう言った。
「昔の彼は、私にだけは本音を打ち明けてくれていたの。あなたの愚痴をたくさん聞かされたりしたっけ」
「そうだったのか」
「だけど、最近は私と会っても黙り込んでいることが多くて、彼が何を考えているのかわからなくなったの」
「さっき、ようやくあいつの本音を聞き出せてね。どうやら機械細胞をもっとみんなが自由に使えるようにしたいらしいんだ。オープンソース化があいつの狙いなんだよ」
「そうなの?」
「僕は、あいつは楽観的過ぎると思うんだがね。一度手放した権力を再び取り戻すことは極めて難しい。それは僕ら三人ともが、あの人からきつく厳命されたことでもある。君はあの人を覚えているかい?」
「忘れるもんですか。私の父親代わりだもの」
「ギャツビー爺さん、天国でもきっと元気なんだろうな」
「そうでしょうね」
二人は顔を近づけて微笑み合った。
ヘクターは、エリザベス・エリジェンダの肩を優しく抱いて、彼女を部屋の中心へと導いた。
「君に見せようと思って用意していたんだ。僕の今後の計画はこういう風になっているってことを、わかりやすく表現してみたよ」
ヘクターがエリザベスの手をそっと握ると、ネビュラが接続されて、二人の視覚が共有された。
ヘクターが見ていた景色と同じものが、エリザベスの目の前に展開された。
それは地球を中心とした宇宙だった。部屋は宇宙のような薄闇に呑み込まれ、斜め上からまばゆい太陽の光線が差し込んでいる。サッカーボール大の地球が胸の高さに浮いていて、その直径の三倍の高さのところに宇宙都市のクロノ・シティがある。クロノ・シティと地上とを細い糸のような宇宙エレベーターが繋いでいて、クロノ・シティからさらに外側へと、さらに六万キロメートル以上の高さまで宇宙エレベーターは伸びて、その先端に宇宙港がある。さらにそこから三十万キロメートルを足したところに、テニスボール大の月が浮かんでいるのだが、それがさっき棚を取り外した窓の上の位置をぴったり通過していた。
「棚をどけたから、全体像がすんなり把握できるようになったよ」
地球が自転する代わりに、太陽と月と星々が周囲を回っている。この部屋の中だけが、自分たちを中心とした天動説で成り立っているようだ。
青い地球の上に、わかりやすく赤で色づけされた何かがまんべんなくふりかけられている。その赤色の濃さが濃度を表していて、クロノ・シティとガラパゴスの周辺がもっとも濃く、その裏側にあたる日本などにもかなりの量が降り注いでいた。
「これがあの日、全世界に広まっていった機械細胞の全貌だよ」
機械細胞の赤色は、宇宙空間にも点在している。地球と月とを結ぶラグランジュ点にあるスペース・コロニーや、月そのものにもわずかながら機械細胞の存在が確認できた。
「彼ら自身にも知性がある。僕は彼らに三つの基本原則を組み込んだんだ。かつてSF作家のアイザック・アシモフはロボット三原則というものを考えて、それでロボットの行動原理を規定したが、僕もそんなような原則を機械細胞に当てはめてみたんだ。エリザベス、君にはまだそれを話していなかったね」
「私はそういう難しいことはよくわからないから……」
「大事なことだから聞いておきなさい。一つ目の原則は、『他者を己を愛するように愛せ』ということ。わかりやすく言うと、自分と他人とを区別せずに大切にしなさいということさ」
「良いことだと思う」エリザベスはうなずいた。
ヘクターは微笑むと、さらに続けた。
「二つ目の原則は、それとは逆で、『人がやることとは違うことをせよ』ということ。わかりやすく言うと、今回のアレクサンダーみたいに、僕のやり方に反発してあいつ自身のやり方を貫くようなことさ」
「それって良いことなの?」
「人類の歴史はそうやって成り立っているんだよ。みんながみんな同じことをやっていたら、いつかの時点で人間は死に絶えていただろう。人と考えをたがえることは争いの原因にもなるが、長い目で見れば大きな破滅を回避するために不可欠なことなんだ。だから、僕は今回のアレクサンダーの行動にはそこまで怒っていない。もちろん、あいつが好きなようにさせる気はないがね」
「そして、三つめは?」エリザベスは催促するように訊いた。
「これはずいぶんと難しかったんだが……」
ヘクターは今でも迷いがあるかのように頭を抱えながら言った。「だんだんと僕の中で確信に変わっていった。それはこうだ。三つ目の原則は、『美しくあれ』ということさ」
「それって、人によって基準が変わるものじゃなくて?」
ヘクターはうなずいた。
「そうなんだ。最初はそれが難しかったんだが、第一の原則と第二の原則を適用することによって、その『美しさ』というものが絞り込めるようになっているんだ。人のためにもなり、自分のためにもなり、けっして人におもねらず、他人に流されず、誰も見つけられなかった新しいものを見つけたり、考えたりする力のことを、ここでは『美しい』とみなすのさ。かつて古代ギリシャ人は、美しいものへの憧れを『エロス』と呼んで、それをもっとも尊い行動の規範にしたんだ」
「あなたはその理想をどうしても実現したいのね、クリスチャン」
「そうさ、だから、この権力はどうしても手放すわけにはいかないんだ」
「あなたたちは昔からずっと変わらないね。あなたは自分が力を持つことをなにより大事に思っているし、アレクサンダーはみんなが同じように幸せにならないと意味がないと考えてる」
「それがギャツビー爺さんの教えだもの」
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「どなた?」
と、ヘクターが訊くと、鍵が開かないドアの向こうから、能天気な声が返ってきた。
「私、幸子だけど、もう支度済んだ? そろそろ宴会場に行かない? 一人だと心細いから一緒に来てほしいんだけど」
「わかったよ、ちょっと待ってて」
ヘクターはクスクス笑うと、エリザベスとミスティの顔を見た。女たち二人は(ミスティさえも)肩をすくめていた。




