続・饗宴(究極の秘密)・1a
時計を見ると午後五時五十五分。
天野幸子が最高級スイートルームのリビングで鼻歌を歌いながら仲居さんに手伝ってもらって饗宴の支度をしていると、すでにばっちり身支度を整えた双子の妹の天野妙子が迎えにやって来た。
「さっちゃん、どんな塩梅? もう出られそう?」
ドアを開けて入ってきた妙子の目の前にいたのは、ゆったりとした袖なしのストーラ(古代ローマの衣装)に身を包み、三つ編みにした髪を冠のように頭に巻いた、それはそれは美しい姉の幸子だった。部屋の豪華さと相まって、妙子はいつになく興奮してしまった。
「すごいじゃん、さっちゃん。もう、ばっちり出られるでしょ?」
「まだまだ、もうちょっとお化粧を直してもらわなくちゃ」
自分で塗るとどうしても下品になってしまう口紅を、和服を着た仲居さんが丁寧に塗ってくれている。
一方の妙子は、ユズが用意してくれた青いあさがお柄の浴衣を無難に着こなしている。化粧もあっさり目に抑え、髪はシンプルにまとめて後ろでアップにしてある。ワンポイントで小さな風鈴の付いたかんざしを挿しているので、妙子が頭を動かすたびに小さく澄んだ音が鳴った。意識してかせずか妙子は何をしてもきれいだ。
「さすがは我が妹よのう……」と幸子も目を細めて感心している。
「やあ、幸子、どんな具合だい?」
オットー・ハイネマンがひょっこり部屋に入ってきた。いつもならば相手が幸子だとどうしても態度が雑になってしまう傾向があるが、今日のオットーはさっきいろいろと助けてもらったこともあって(ひっかき回されただけという説もあるが)、少しばかり頭を低くしていた。
「もうちょっと待っててね、オットー。おや、あんたも浴衣似合うじゃん」
「そいつはどうも」
オットーはユズが選んでくれたらしい、巨大な富士山と大波が描かれた、いかにも日本風の柄の浴衣を着ている。
時計を見ると午後五時五十八分を十五秒過ぎている。それに気づいた妙子が慌てだした。
「あらいけない、時間に遅れたらまたアレクサンダーさんがあらぬ疑いを持っちゃうよ。絶対遅れないって約束したんだから」
「それなら先に行っちゃいな。私はゆっくり行くよ。主役は遅れて登場するものであるからして、慌てる必要はまったくないのだよ」
そのとき、ふと、幸子の開いた胸元から真っ赤なものがのぞいているのが、妙子の目に留まった。
「あれ、さっちゃん、その赤いのは何?」
「ああ、これ? 水着だよ」
と言って、幸子は無邪気に胸元を大きく開いてみせた。オットーは目のやり場に困って顔を逸らした。彼女がストーラの下に身につけていたのは、真っ赤なビキニの水着だった。「宴会場にお風呂があるらしいから、いつでも入れるように用意してあるってわけさ」
妙子はヒステリックに叫んだ。
「ダメだよ、そんなの大胆過ぎる。もうちょっと地味なのにしなさい」
「いいからいいから、今から選ぶ時間ないもん」
幸子は、妹の反応を楽しむように笑っている。そうそう、こうでなくっちゃとばかりに嬉しそうに、幸子は妹夫婦をぐいぐいと押して部屋から追い出した。
「さあ、妙子、間に合うかなあ」
心配しているオットーと一緒に妙子が廊下を走っていると、エレベーターの前で仲居さんが「こちらです、こちらです」と手を振っているのが見えた。
妙子がエレベーターに滑り込むと、そこには第十七小隊のメンバーが男女入り交じった勢ぞろいですし詰めになっていた。みんなは新しい浴衣に着替えて、同じ臙脂色のスリッパを履いていた。思わぬ遭遇に、妙子はのけぞった。
「妙ちゃん、今から場所開けるから」
と言いながら、桃井華はあからさまに自分の身体を三国龍之介のほうに押しつけた。龍之介は文句ひとつ言わずにそれを受け入れる。しかし、まだ一人しか余分に乗れない。
千堂しのぶは、空腹のあまり昏睡状態の佐藤愛梨紗をお姫様抱っこして立っていたが、愛梨紗の抱き方を工夫して縦にすると、それを山田健太郎と二人がかりで支えて、なんとかスペースを作った。
そうして、ようやく妙子とオットーが乗り込めた。
壁際では、夏木コウジと犬養守が潰されながら「定員オーバーなんだよなあ……」とぼやいている。
でかい図体の菊池源吾は、少しでも足しにしようと夏木ユズを自分の肩に座らせた。ユズは天井で首を折りそうになりながら、「乗降よし!」と仲居さんに合図した。
扉が閉まると、息が詰まるくらいに窮屈になった。客室のある十階から、宴会場のある四階へと、じれったいほどゆっくりとエレベーターは降りていった。
「誰か温泉入った人いる?」
気まずい沈黙を、しのぶが打ち破った。
「そんな時間ないわい」
と龍之介が答える。「軽くシャワー浴びただけだ」
「宴会場に大浴場があるらしいよ」
と、押しつぶされている守が声を絞り出した。
「それ、私も聞いたんだけどさ、ほんとなのかな? そんな浮かれた施設、想像もつかないんだけど」
しのぶがそう言った瞬間、ぴたりとエレベーターが止まって、扉が左右に大きく開いた。そして、みんなの眼前に広がったのは、想像を絶するほどにあまりにも浮かれた享楽的な娯楽施設だった。
床はどこまでも真っ白な大理石だった。四階のフロアをすべてぶち抜いて大広間が作られており、山に面していない三方の壁はすべてガラス張りで、とてつもなく高い天井は格子状に組まれたヒノキでできている。圧倒されるのは大広間のあちこちで湧いているプールのような大浴場だ。それらは掘割のような流れで縦横無尽に繋がっていて、装飾された石造りの橋がいくつも架けられている。そのひとつひとつの温泉たるや、普通の宴会場がすっぽり収まってしまうほど大きい。温泉の中には小島が点在していて、そこには南国の木が植えられている。
それぞれの温泉の周囲には分厚いクッションの乗った寝椅子が数珠つなぎで並んでおり、その横に小さなテーブルがあって、すでに食器が並んでいる。調理済みの料理が乗せられた大きな台があり、料理人がそこで盛り付けたものを、給仕が一人一人に運んでくれるシステムになっている。豚やガチョウの丸焼きなどが目につくように置かれていて、いかにも古代ローマの宮廷料理といった雰囲気だ。
六時からの饗宴はアレクサンダー一行のための貸し切りになっているので、他の利用客は見当たらない。そのせいか、この大広間がますます特別なものに思われた。
年配組はとっくに勢ぞろいして、上座の寝椅子にくつろいでフルーツなどをつまんでいた。それぞれ服装はローマ風だったり浴衣だったりしている。
華の祖父の哲志がここでは主人役だった。彼の隣りの席はアレクサンダーのために空けてある。その左右を小百合おばあちゃんと母の敏江と父の広志が埋めていて、その横にペーター・ハイネマンとヘレナ・ハイネマンの夫婦が並んで寝ている。
あまりに空間が広々としているのと、大声を出すと反響して何を言っているのかわからなくなるのとで、みんなの会話はほとんどがネビュラを通してのものだった。これならクリアな声で、字幕なども利用して、話を進めていくことができる。ネビュラを使っていないおじいちゃんとおばあちゃんのためには、携帯用の字幕表示機が用意されていた。
「便利な時代になったものだ」と、おじいちゃんは寝椅子に横になったまま唸った。ローマ風のトーガを着たおじいちゃんは、古代の賢人のような風格だ。
第十七小隊のメンバーは、男女混合で左右に分かれて寝椅子に座った。森田町長は出口に近い一番端で、町の職員らしき人たちと固まって席に着いた。
さて、後は主役のアレクサンダーを待つばかりだ。
妙子はそわそわしながら幸子を待っていた。あの姉がまた何かしでかすのではないかと心配しているのだ。
そのとき、エレベーターの扉が開き、黒い光沢のある浴衣を着たアレクサンダーが、同じく白い浴衣を着たマギーと一緒に現れた。
「みなさんお揃いで、ようやくゆっくりお話ができますね」
アレクサンダーは晴れ晴れとした顔で、饗宴の始まりを宣言した。「それでは、始めましょう」




