饗宴(後編)・3b
ユズが守をひっ捕らえて無事に川岸に下りたのを確認した幸子は、いよいよ本命の獲物に取り掛かるべく、枝にしがみついて武者震いしていた。
そこにヘクターからの通信が来た。幸子は彼からの通信を「森のくまさん」に設定している。
「なによ、救助はここまでで中止とか言われても、やめる気はないから」
幸子は何か言われる前に予防線を張った。
「そんな野暮なことはしないさ」
ヘクターも先にそんな反応が来ることを予想していたのか、優しく語りかけた。「君がベストの結果を出せるように、アドバイスしておこうかと思ってね」
「どうぞお聞かせ願いますでしょうか」
「君の腰のベルトに、黒い布が折りたたんで入っていると思うんだが」
幸子は腰のベルトに並んでいる道具箱をあちこち探ってみた。
「それ系がいっぱいあって、どれだかわかんないんだけど」
そのとき、ブラック・スワンのユーザー・インターフェースが作動し、たぬきさんがお腹をぽこぽこ叩きながら「ここだよ」と教えてくれた。
「これなの?」
と、幸子が広げてみたのは、ワンピースのような薄っぺらい黒い布だった。
「そう、それだよ。そいつをまず着てごらん。ヘルメットはそこらへんに置いておきな」
幸子はヘルメットを脱いでから、その布を頭からかぶった。すると、その布は瞬時に水色のブラウスと青いパンツに変わった。
「すごい、どんな原理なの?」
「見た目がそう見えるだけで、実際はただの黒い布さ。相手のネビュラに作用して、そう見せているだけなんだ。専門用語で擬態布と言うんだがね」
「すごいテクノロジーだね」
幸子は素直に驚いた。
「これで君は、外見上は完全に天野妙子になったわけだ」
「なるほど、そういうことか。妙子になって人を騙すのは、しょっちゅういたずらでやっているからお手の物でござるよ」
「そうらしいね」
これで成功間違いなし、と思いきや、幸子はここで急に難色を示した。
「だけど、それだと幸子としての魅力がアピールできないじゃないか」
「君の……、魅力?」
ヘクターは思わず口を滑らせたが、幸子はそのくらいのことは言われ慣れている。
「玄人だったら、私のほうが断然魅力的だと感じるはずだよ」
「玄人ねえ……」
「まあ、いいや。ところで、こんな無駄話をしている場合じゃないんじゃないの? そろそろ黄金の林檎に力が溜まってくる頃じゃなくて?」
「実際に力が溜まるのは林檎のほうじゃなくて、この峡谷の一帯に浸透している機械細胞のほうさ。同じ地域で機械細胞を再び働かせるには二、三日から長くて一週間はかかるとデータにはあるんだ。ただ、場所が変わると新鮮な機械細胞がいくらでも利用できる。だからアレクサンダーを捕まえるには、すでに林檎を使ったばかりのこの場所で実行するしかないのさ」
「アレクサンダーじゃなくて、社長でしょ。君、ときどき失礼だぞ」
「そいつは失敬、社長だね」
幸子はたまに鋭いところを見せるから油断ならない。
「さあ、善は急げ、ぐずぐずしちゃいられない」
幸子はそう言い放つとヘルメットを被った。そして、枝から枝へと飛び移り、ときどきワイヤーガンを駆使してショートカットしたりしながら、アレクサンダーと秘書のマギーが隠れている樹冠のドームの中央へと突き進んでいった。
そして、ついに狩人と獲物は対峙したのだった。
「妙子、来てくれたのか?」
「本当は来たくありませんでしたけど、こうしないと解決しないと思って、嫌々来たんです」
相手を騙すコツその一、あえて強い態度を取ってみる。
「君や君の仲間たちには、本当にすまないことをしたね」
アレクサンダーはしょんぼりした素振りを見せたが、その青い瞳は妙子(本当は幸子)が来てくれたことへの喜びで輝いていた。彼は濡れたシャツを枝にぶら下げて乾かしているので、上半身は裸だ。青っ白い胸をさらし、両足を大きく開いて、背後の葉っぱに埋もれるようにもたれている。その隣りのマギーは白いスカートスーツのまま横座りして、平然とした顔をしている。
「風邪を引いたりしていませんか? ちょっと診させていただきますね」
相手を騙すコツその二、妙子にしかできないことをやってみせる。
幸子はアレクサンダーのすぐ近くに正座すると、彼の胸に触れたり、瞼をめくって裏側を見たり、脈を取ったりして、いかにも医者らしい一連の動作をやってみた。さらに大胆なことに、幸子はおでこをアレクサンダーのおでこにくっつけて体温を測ることまでやってのけた。そのとき、アレクサンダーは彼女から甘い匂い(本当はコスチュームのゴムの匂い)を感じたようだ。
実はそれらのデータはネビュラを通して遠くの妙子に届けられており、救命医である彼女から本当の診断が送られてきた。
「呼吸音に雑音が混じっていますね。肺炎になりかけているのかもしれません。早くここから降りて身体を温めましょう」
「そうしたいのはやまやまなんだが、そうすると下で待ち構えている連中に僕はひっ捕らえられてしまうだろう?」
「それは仕方がありませんよ。あなたがしでかしたことの結果です」
ここで、アレクサンダーは急に謎めいた真顔になった。透き通った青い目がますます神秘さを増している。
「妙子、僕がなぜ、こんなことをしでかしたのだと思う?」
「お父さんに反抗したいからでしょう?」
「そんな子供みたいな理由で、二十七歳の会社社長がこれほどのリスクを冒すと思うのかい」
「それなら、なぜ?」
アレクサンダーは、隣りのマギーの顔を見た。マギーは相変わらず無表情のまま、小さくうなずきを返した。アレクサンダーは言った。
「僕はずっと前からマギーと話し合っていたんだ。僕が会長のクリスチャンと同じ土俵に立つためには、このくらいの大胆な行動を取るしかないと思った。それはマギーも考えは同じだ。僕がいつでも本気を出せると思わせなければ、クリスチャンは僕のことを甘く見るだろうからね」
「あなたは何がしたいの? 何を会長に訴えたいの?」
「妙子、一番迷惑をかけた君には本当のことを言うよ。僕は機械細胞をオープンソースにしようと思っているんだ。基本的な権利と開発に関するわずかな秘密はわれわれが所有するが、その他の情報のほとんどを開示して、みんなが自由に研究したり商品化できるようにしたいんだ。機械細胞を、ソラリ・スペースライン・グループが独占的に支配するものではないようにしたいんだよ」
「それはとても立派なことだけど、会長と直に話し合うことでは解決できないの?」
「あの人がまともに取り合うわけないよ。クリスチャンは資源と情報と権力を独占することに取り憑かれているんだ。要するに自分しか信用できないのさ。他人は全部敵なんだ。だから、僕以外の後継者なんて考えられないし、僕の行動はすべてあの人の考え通りじゃなきゃいけないんだ。そんなのたまんないよ」
相手を騙すコツその三、あえて妙子が言わなそうなことを言ってみる。
「だけど、考えてもみてください。お父さんはもうずいぶんお年を召されているじゃありませんか。あなたがもう少しお待ちになれば、やがて時が解決してくれるものだと、私には思えますよ」
すると、意外なことに、アレクサンダーの顔には絶望しか浮かばなかった。
「世間からはそう見えるだろうね。だけど、あの人は違うんだよ」
「たとえお金がたくさんあっても、延ばせる寿命には限界がありますよ」
「違うんだ、妙子、あの人は……」
アレクサンダーは心の奥底から、何かを訴えかけようとしていた。もうこの際吐き出してしまいたいと、彼の青い目が訴えかけてきた。
ところがそのとき、隣りにいた秘書のマギーが、彼のむき出しの腕を強くつかんだ。いつもは無表情のはずの彼女が、初めて眉根を寄せて口をとがらせ、小さく首を横に振った。
アレクサンダーは強く制止するマギーと向き合って、しばし呆然としていた。いつもは見せない彼女の表情に驚いたのか、それとも自分自身の自制心の脆さに驚いたのか、もう少しで取り返しのつかない状況に自分を追い込むところだったことを自覚したように、顔を真っ青にして固まってしまった。
「すまない、妙子、僕はどうかしていた」
ようやく顔をこちらに向けたアレクサンダーは、なんとかそれだけを言って、後は黙り込んでしまった。
ものすごく重苦しい絶望が、アレクサンダーの中で渦巻いている。それを幸子は感じていた。彼は、単に金持ちで権力があってハッピーな人生を歩んでいるだけの人間ではない。運命に囚われ、必死になってもがいている、ほとんど無力な青年だ。幸子は、彼と一緒になりさえすれば自分もハッピーでもっと前向きな人生を歩めると思っていたが、そんな簡単なものではないことがはっきりわかった。
つまり、これはとんでもない鉱脈だということだ。この世に生を受けた以上は、立ち向かう運命は重ければ重いほどいい。もうここまで来たら、別に彼と一緒にならなくてもいい。その代わり、せっかく関わったのだから、とことんそれを突き詰めて、運命を変えていきたい。アレクサンダーやクリスチャンが世界の命運を握っている巨人であるとするなら、それさえも圧し潰そうとしている運命に立ち向かうことは英雄冥利に尽きる。
私は闇に蠢く黒い白鳥、偽りの世を真実で照らし、人々を迷いから救う、新時代の先導者であり正義の求道者、美しき仮面の守護神ブラック・スワンなのだ。その名に偽りはない。
幸子は、座り込んでいるアレクサンダーに右手を差し出した。そして、こう言った。
「戦おう、アレクサンダー」
アレクサンダーは最初唖然としていたが、次に何かを悟ったように微笑み、彼女の手を握り返した。
「妙子、一緒にクリスチャンと戦ってくれるのかい?」
「いいや」
幸子は首を横に振った。「私は、あなたとクリスチャンを苦しめている運命と戦う。あなたたちはどちらも私の味方だ」




