饗宴(後編)・3a
「次は誰が近くにいるわけ?」
ブラック・スワン(幸子)に訊かれて、守は頭の中でぐるぐると樹冠の立体映像を回した。同じものがブラック・スワンの頭の中でもぐるぐる回っている。すぐ近くにいて助けに行くのが簡単そうなのは、赤く点滅してくっつき合っている二つの点だった。ここから五十メートルも離れていない。
「龍之介と華ちゃんだ」
「二人まとめてとはお得だね」
目標が決まればグズグズしていられないのが幸子の性格だ。ブラック・スワンはさっさとマントをひるがえし、超音波ナイフを口に咥えて、枝に飛び移ろうとした。それを守が呼び止める。
「ちょっと待ってよ、ブラック・スワン」
「ごうひたの? がごっひ(どうしたの? まもっち)」
「僕はどうやってあっちに行ったらいいんだい? 僕は君みたいに怪力じゃないし」
「そいつは気がつきませなんだなあ」
ブラック・スワンは咥えていたナイフを腰に差し直すと、ベルトの道具箱から小さく折りたたんだ黒いものを取り出し、それを守に差し出した。
「これ、握力強化グローブ。これを着けると握力が十倍になるから」
「すごいテクノロジーだね」
守は素直に驚き、そのペラペラの手袋を両手にはめると、手首の金具をしっかりと締めた。
そうしている間にも、ブラック・スワンは先に行ってしまった。
守はドームの天井の下を枝から枝へと飛び移り、猿のように渡っていった。本当にブラック・スワンが言っていたとおり、自分の身体が綿菓子にでもなったかのようにフワフワ軽くて、そのまま飛んでいけるかと思えるくらいの力が両手から漲っている。もちろん、手を離したら本来の体重のままに川に落ちて、濁流に流されてしまうのだろうが。
ブラック・スワンのマントの先が枝と枝の隙間にすっと消えていくのが見えたので、守もそこをめがけてさらに速度を増した。
切り裂かれた枝葉の隙間に守は軽快に滑り込んだ。そこでばったり出くわしたのは、龍之介と華がお互いに、大急ぎで浴衣の帯を締め直している意味深な光景だった。二人とも浴衣が真っ赤なのが妙になまめかしい。
ブラック・スワンが、仁王立ちして二人をからかっている。
「おやおや、お楽しみのところでしたか」
龍之介は早口で言い逃れした。
「下品な姉ちゃんだな、濡れた服を着たままで風邪をひくよりはマシだろ。それより、あんたは誰なんだよ?」
「誰? 私は誰かと訊いているの?」
ブラック・スワンが待ってましたとばかりに名乗りのポーズを決めようとしたそのとき、華がすかさず割り込んだ。
「龍之介さん、さっきネビュラでこの人が守さんとやり合ってたのを見てたでしょ。闇に蠢く仮面のなんとかさんだよ」
幸子はひるまない。
「省略してくれたのはありがたいけど、美しき仮面の守護神ブラック・スワンとだけは名乗らせて」
「美しき……?」
と龍之介はつぶやいて、ブラック・スワンの尖ったバイザーの下から見えているほっそりとした顎と、口紅を真っ赤に塗りたくった唇とを見た。「なんか見覚えがあるような……」
「さあ、まもっち仕事にかかろう」
ブラック・スワンと助手の守は、とっとと自分たちの仕事を片付けるべく、二組のハーネスをベルトの道具箱から引っ張り出して、要救助者の二人に装着させた。作業はテンポよく進み、ブラック・スワンはワイヤーガンで斜め下の対岸に生えた大木を狙い、ワイヤーを発射した。守がターンバックルを回してワイヤーをしっかり張ったところで、ジップラインの準備は整った。
「さあ、さっさと降りて。いちゃいちゃの続きは下でやってね」
「手際がいいな」
龍之介は舌を巻いていた。「あんた、どこかでレスキューの訓練でも受けたことがあるのか?」
ブラック・スワンは腰に手を当て、得意顔で答えた。
「私はエリート官僚だから、なんでもできるの」
「国家公務員試験に通るくらい賢いなら、宇宙消防士でも立派にやっていけるよ」
「龍之介さん、スカウトしてる場合じゃないでしょ。この人は忙しいの」
華は、龍之介のハーネスに繋がっている滑車をワイヤーにセットすると、容赦なく彼の身体をぐいぐい押した。「はい、ゴー!」
龍之介の悲鳴が斜め下に向かって遠ざかっていく。
ブラック・スワンは手でひさしを作って、龍之介が無事に着地したのを見届けた。それから華に向かって言った。
「華ちゃん、下に着いたら、ハーネスと滑車をワイヤーに戻してね。こっちで紐で引っ張り上げるから」
「そのあと、ワイヤーも外したほうがいいですか?」
「それには道具がいるでしょ。――ああ、そうだ、いいこと思いついた」
ブラック・スワンは腰の道具箱から真っ黒なペンチを取り出した。
「これ、超強力万能ペンチ。タングステンみたいな硬いものでもバターのように切ったり潰したりできる優れものだよ」
「すごいテクノロジーですね」
華は素直に驚いた。
「下でワイヤーを外したら、その先端にペンチを引っ掛けて、ハーネスと滑車も一緒に返してくれればいいや。ワイヤーを外す前に合図を寄こしてね、そしたらまもっちがワイヤーを緩めるから」
「わかりました」
まるで先輩宇宙消防士が指示を出しているような手際の良さに、華はただただ感動していた。「この人、有能だ」というが正直な感想だ。
実はそれらの段取りは、ブラック・スワンのユーザー・インターフェースによって、ねこさんといぬさんがわかりやすく教えてくれたものだとは、華は知る由もなかった。
こうやって、救助はスムーズに進んでいった。しのぶ、源吾、愛梨紗、コウジ、健太郎、そしてユズへと順番に廻っていく。途中、すぐそばにアレクサンダーと秘書のマギーが潜んでいる場所に差し掛かると、幸子は舌なめずりして、そちらの方向に言葉を送ったのだった。
「もうちょっと待っててね、未来のダーリン」
そのとき、アレクサンダーは一瞬の寒気を覚えたかもしれない。
幸子と守が宇宙消防士の最後の要救助者であるユズのところに辿り着いた頃には、川岸から十分に距離を取ったところに宇宙消防士たちの基地が出来上がっていた。まずは火を焚き、身体を温める。
「具合の悪い者はいないか?」
龍之介の質問に、華が大慌てで答えた。
「大変! 愛梨紗が息してないの」
「それ、腹が減ってるだけだから」
しのぶがすぐフォローしたので大事にならずに済んだ。食事をおあずけにされた愛梨紗は空腹のあまりに動けなくなっていただけだった。それ以外に身体の調子を悪くしたものはおらず、さすがは鍛え抜かれた宇宙消防士といったところだ。
「あとはユズを降ろしたら、残るはアレクサンダーか。それと妙子たちはどうしてる?」
華が答えた。
「今から私としのぶさんとで妙ちゃんを迎えに行ってきます」
「源吾とコウジも連れていけ」
こうして四人はスワン・ウイングの足元へと救助へ向かった。巨大な鳥の卵のような塊は、まだ樹冠のドームの端にひっかかったままだ。
そのころ、ブラック・スワンと守が助けに向かったユズのところでは、ひと悶着が巻き起こっていた。
「守さん、さっきからずっと見てたけど、その女の人のそばでデレデレデレデレとずいぶん嬉しそうだったよね」
「おやおや、お二人さん、そういう関係だったの?」
守は、ユズとブラック・スワンに挟まれて泡を食っている。
「違うんだよユズちゃん」
「どう違うのよ?」
守とユズがどういう関係か、見ていればさすがの幸子にも察しが付く。
「ねえ、まもっち、私に一目惚れしちゃう気持ちはわかるけどさ、こういう人がちゃんといるんなら、あんまり無責任なことしちゃだめだよ」
「一目惚れ?」ユズは目を剥いて守を見つめた。その両手の爪は狩りをするネコ科の動物のように、獲物に向かって突き立てられようとしている。
「違うんだよユズちゃん」
「どう違うのよ?」
ユズは守の浴衣に手を突っ込み、脇腹の肉を鷲づかみすると、百八十度ねじり上げた。守の痛々しい絶叫が山の隅々までこだました。こうして彼の短い恋は終わりを告げたのだった。




