饗宴(前編)・4b
黒い飛行物体を見上げている華のネビュラに、ショパンの「夜想曲第二番」が静かに流れた。それは最初、周囲を打つ雨音に紛れるように始まり、次第にはっきり、力強くなり始めた。他の第十七小隊の仲間たちも同様だった。ここには妙子を除く九人のメンバー全員が捜索に来ていた。その後を追いかけて、アレクサンダーと秘書のマギーもいた。二人は静岡に到着したときのスーツ姿のままだ。
「聞こえる?」
華はすぐ横にいるしのぶと顔を見合わせた。しのぶはうなずき、彼女は横にいる龍之介の肩を叩いた。龍之介は振り返って、「天野からだ」と言った。
上空で小さくなった飛行物体を覆い隠すように、大きなスクリーンが表示され、そこにふわふわのタオルを首に巻いた濡れ髪の妙子が映し出された。
「ブラボー……」
秘書のマギーと並んで雨に打たれているアレクサンダーが、思わずつぶやいた。「やはり彼女は美しい」
妙子は優しく語りかけてきた。
「みんな、いろいろ迷惑かけてごめんなさい。私とオットーはこれから、クリスチャン・バラードさんの手を借りて、しばらく安全な場所に連れて行ってもらえることになったの」
「天野、怪我はないか?」龍之介が訊いた。
「はい、ありがとうございます。私とオットーは大丈夫です。みなさんこそ、雨に濡れると風邪をひいてしまいますから、ホテルの中へ入ってください」
アレクサンダーは、マギーから差しかけられた傘を手で抑え、雨の中に大きく踏み出して叫んだ。
「僕の女神よ、そこには君の他に誰かいるのか?」
スクリーンの中の妙子は強い目で見返し、きっぱりと答えた。
「アレクサンダーさん、ここに誰がいるのか、あなたにお答えすることはできません」
アレクサンダーはひるまない。
「妙子、そこにいる誰だかわからない人物に言ってくれ。すまないが、僕はもう二度とクリスチャンの思い通りになるつもりはないんだ。この件に首を突っ込むのなら、巻き込まれることは覚悟してくれ」
妙子が、すぐそばにいる人物(無論、幸子のこと)に動揺した視線を向けたとき、地上にいるアレクサンダーは、秘書のマギーにこっそりとある指示を出していた。
マギーは傘の下で、自分の白いハンドバッグから小さな木箱を取り出した。そして、その木箱を、差し出されたアレクサンダーの手の上にそっと置いた。それはガラパゴスの船上パーティで、彼が舞台の上で披露したものとまったく同じものだった。
アレクサンダーは木箱の蓋にもう片方の手を置いた格好で、スクリーンの中の妙子に呼びかけた。
「妙子、僕は君や、君の仲間の人たちがこの数日間、何をやってきたのかを知っている。君がプロメテウス号でパンドラや乗組員たちと共に『あの瞬間』を迎えたことも知っている。あのとき、クロノ・シティをはじめとして、地球上のあらゆる地域に機械細胞が降り注いだよね? それは日本の、この場所においても例外ではないんだ。今は静かに眠っているマシン・セルだけど、僕は彼らをコントロールする手段を持っている。それを今から君たちに見せてあげるよ」
龍之介は、アレクサンダーの手に握られている木箱の存在に気づいた。その蓋が今まさに開かれようとしているのを、龍之介はとっさに駆け寄って止めようとした。しかし、距離があって間に合いそうになかった。龍之介があと数歩で木箱を奪い取れそうなところまで近づいたところで、アレクサンダーは蓋を剥ぎ取り、箱をひっくり返して中身を手の上に出そうとした。
それを、後ろに立っていた源吾がそのたくましい両腕を伸ばして、アレクサンダーの手を木箱ごと捕まえた。箱の中身が出てしまわないように、源吾はアレクサンダーの両手をまるごとぎゅっと握りつぶした。
「いいぞ、源吾」龍之介が叫ぶ。
「愛梨紗、こるばお前が持っとけ」
源吾はアレクサンダーの手から木箱をもぎ取り、足元まで来ていた愛梨紗の両手にぽとりと落とした。そして、こうつけ加えることを忘れない。「中身は林檎ばってん、食いもんじゃなかぞ」
「また私ばバカにして」
愛梨紗がぶーっと頬を膨らますと、源吾はがははと笑った。
ところが木箱はもう一個あった。秘書のマギーは傘の下に隠れて、白いハンドバッグからもう一個の木箱を取り出し、アレクサンダーに手渡すのではなく、自分の手で蓋を開けようとした。
それを見逃す華たちではなかった。
「しのぶさん、ユズ、そっちからも捕まえて!」
マギーは三方から囲まれてなす術もなく捕らわれた。しのぶは木箱を彼女の手からもぎ取り、龍之介にそれを手渡した。
龍之介は蓋が開かないように箱の上から強く押さえた。
「アレクサンダーさん、そろそろ観念してはいかがですか? あなたは組織を代表する方なのだから、もう子供みたいなわがままはおやめなさい」
アレクサンダーは焦りと屈辱の入り交じった目で龍之介を睨んでいる。その両腕は健太郎とコウジによって引っ張られ、さらに脇の下から源吾に羽交い絞めにされているので、まったく身動きが取れない。
アレクサンダーは声を絞り出した。
「勘違いするな。その林檎は機械細胞のトリガーじゃない。機械細胞をコントロールするための知能となる『エルピス』が入っているんだ」
「何を言っているんだ?」
龍之介は、アレクサンダーと手の中の木箱を交互に見た。
アレクサンダーは諦めの混じった口調で静かに言った。その顔には雨が叩きつけている。
「どうせ何を言っても信じないだろうが、君たちに言っておく。その箱の中身を今すぐ出せ。今なら機械細胞をコントロールできる。その前に動き出したら、もう終わりだ」
そのとき、峡谷の奥で大きな爆発音のようなものが聞こえた。溢れた水が岩盤を突き破って噴き出したようなすさまじい轟音だった。
続けて激しい縦揺れが起きた。何度か激しい衝撃が下から突き上げた後、揺れはすぐに鎮まった。
「何が起きたんだ?」
龍之介は、気象情報を収集していた通信士の守に声を掛けた。守はネビュラに集中しながら答えた。
「鉄砲水が来る。数十秒後に、この辺り一帯が水に呑み込まれるよ」
龍之介はみんなにすぐ「走れ」と命じたかったが、アレクサンダーとマギーを解放することに躊躇を感じた。その一瞬の迷いの隙をつくように、上空のスクリーンに別の人物が映し出された。
それは、ゆったりとしたブルーのシャツを着た、落ち着いた老紳士だった。この場にいる全員がその紳士の名を知っていた。アレクサンダーがもっとも恐れ、もっとも憎んでいる人物、ソラリ・スペースライン・グループを支配する、会長のクリスチャン・バラードだ。
クリスチャンは落ち着いた口調で、噛んで含めるように言った。
「アレクサンダー、そろそろチェックメイトだ。お前はお前の仕事に戻りなさい」
「嫌なこった」アレクサンダーは吐き捨てた。
「そこにいる宇宙消防士の皆さん、私の息子の言うことは信じてはなりません。その木箱に入った二つの黄金の林檎は、あなた方が考えている通り、マシン・セルを起動するトリガーとなるものです。けっしてアレクサンダーの手に渡すことのないよう、ご注意願いたい」
龍之介は早口で答えた。
「それはわかったが、もう議論している暇はないんだ。鉄砲水が来る。今から逃げなきゃならんが、もしかしたら間に合わないかもしれない。そこでアレクサンダーさん、あなたに相談がある」
龍之介に真剣な目で見つめられ、アレクサンダーは思わず「なんだ?」と答えた。
「マシン・セルで、ここにいる全員を救うことはできるか?」
「無論、できるとも」アレクサンダーは即答した。
「あなたを信じよう」
龍之介はそう言ってから、黄金の林檎を頭上に高く上げて、小隊のみんなに呼びかけた。「異論がある者はいるか?」
異論を唱えている暇はないので、みんなは首を激しく横に振って答えた。
龍之介は、アレクサンダーに黄金の林檎を手渡した。スクリーンに映るクリスチャンが息を呑む音が聞こえた。そして、もう一個、愛梨紗が持っていた黄金の林檎はマギーの手に渡った。
龍之介は、アレクサンダーに向かって言った。
「さあ、見せてみろ。あなたが俺たちと共存できるかどうか、その証拠を示すんだ」




