ヘラクレスとヒドラ(後編)・2
全太陽系でもっとも高い人気と信頼を誇る、アメリカの名アンカー、ディビッド・リップマンの元にその一連のメッセージが送られてきたのは、六月の半ばから七月初めまでの二週間だった。
メッセージには、グラス・リングの事故に対する怒りと、このようなことが二度と起きてはならないという決意の表明と共に、宇宙開発に携わる世界中のあらゆる企業(規模の大小を問わない)の膨大な不正と隠蔽と役人との癒着の資料が添付されていた。そこには、自社の利益のみを優先し、人の命を顧みない人道に反する違法行為が満載だった。差出人の欄には、控えめなアンシャル書体で「HERCULES」と記されていた。ラテン語で「ヘラクレス」を意味する言葉だ。
同じ資料は、国連合同検察チームにも送られた。チームの本部は、ガラパゴス人口群島の上空三万六千キロメートルに浮かぶ宇宙エレベーターの空中都市「クロノ・シティ」の中心部にある。
リップマンはこのメッセージの内容を大々的に報じた。それを追うように、国連合同検察チームも捜査本部を設置し、資料に書かれていた各企業への強制捜査を実施した。その遂行には、地球から数万人規模の応援を要請する必要があった。こうして、人類が宇宙への進出を本格的に開始して以来の最大級のスキャンダルへと発展した。株価は暴落し、宇宙への投資に大きなブレーキがかかった。
こんなニュースが世間を騒がす中、サトルと華は黙々と自分たちの任務をこなしていた。
華は学校が終わると、サトルの家まで一緒に帰った。サトルの部屋には、暗号化されたヘラクレスの通信用の電波のみを通し、それ以外の電波を完全に遮断する機械があった。それを二人はブラック・ボックスと呼んでいた。少し大きめの弁当箱くらいのサイズで、真っ黒に塗られており、側面にオンオフを切り替えるレバー型のトグルスイッチが一つだけ付いている。
二人の仕事は、ヘラクレスの本部から送られてくる様々な企業の不正の資料を参照しやすいように分類整理し、送り返すことだった。それには各社の繋がりやお金の流れを把握することも含まれる。
二人の視野の中では、フローリングの床いっぱいにそれらの資料が足の踏み場もないほど散らばっていて、関連性を示すカラフルなマーキングがちかちかと光って互いの存在を主張していた。そのマーキングの色に従って、資料を束ねていくのだ。もし誰かがふいに部屋に入ってきても、これらの資料を見られることはない。
マスコミと検察に送り付けるメッセージの第二段として、二人は毎日この作業に没頭していた。今度は裁判に用いるためのより詳細な情報が含まれていた。ヘラクレスは徹底的に企業を追いつめるつもりなのだ。
「ねえ、サトル君」
ふと思うところがあって、華は訊いてみた。「私たちが今やっていることって、本当に合法なの?」
「うーん、どうだろう」
サトルは痛む腰を伸ばしながら答えた。「情報を集めるためにどういう手段を使っているのかはわからないけど、あくまで内部告発として、しかるべき人たちの協力は得ているはずなんだ。そうでないと、証拠としての正当性がなくなってしまうから」
「つまり、勝手に泥棒しているわけじゃないってことね?」
「そのはずだよ。でも……」
「でも?」
「今はとにかく不正な開発が行われていることを世間に広く知らせることが最優先だからね。なりふり構っていられないのかもしれない」
「そうなんだ……」
二人は話をやめ、作業に戻った。
華の胸の中に、何か黒々としたものが広がっていった。自分たちがやっていることでたくさんの企業や大勢の人たちが大変なことになっている。仕事を失ったり、罪に問われたりしている。それは彼らに責任の一端があることではあるけれど、彼らだって好きでそれをやってきたわけじゃない。上の人間はともかく、その下で働くほとんどの人たちは悪事に絡め取られて、逆らおうにも逆らえない状態にあったのだ。それが今、明るみに出て、多くの苦しみが生まれている。
華は突然ハッとして、資料を取り落した。赤いマーキングの光が自分の手を照らして、まるで血で汚れているように見えたからだった。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。目の錯覚でびっくりしただけ」
華は赤く光る資料を拾った。光に照らされて、手が赤く染まった。ふいに、英語の授業で習ったシェイクスピアの『マクベス』の一場面を思い出した。夫をそそのかして主君を殺害させたマクベス夫人が、何度手を洗っても血の染みが消えないと嘆く。「どんなに香水を振りかけても、この血の臭いを消すことはできない!」という夫人の叫びが、華の頭の中を駆け巡った。
ヒドラは猛毒を持っている。ギリシャ神話のヘラクレスも、最後にはその毒に犯されて死を望むようになるのだ。ヒドラを倒そうとして、自分もそのヒドラに取り込まれてしまってはいないか? その疑問を、華は必死で自分の胸に押し込めた。今となっては、後戻りはできない。
それから数日が経った放課後、華はどうしてもサトルの家に足が向かわなくて、突然、道の途中で立ち止まってしまった。駅へ向かう交差点の人混みの中で、華の背中にぶつかりそうになった男の人が一人、大きくよろけた。
「どうもすみません」
と、サトルが代わりに謝ると、男の人はぶつぶつ言いながら去っていった。
「ごめんね、サトル君」
「気分でも悪いの?」
「なんだか電車に乗りたくないの」
「いいよ、歩こうか」
「なるべく人がいないところを通りたいな」
二人は駅前を避け、裏通りを進むうちに、安倍川の河川敷に出た。夏の雨で水位が上がり、澄んだ水をいっぱいに湛えて雄大に流れる安倍川には、たくさんの魚や鳥たちが生息している。その背後には徳願寺山が優しくなだらかに盛り上がっている。サトルの家はあの山の麓にあり、そこから眺める富士山と静岡の夜景が美しい。
しかし、今日はそっちにどうしても行きたくない。
橋を渡らずに河川敷に降りた二人は、徳願寺山を横目に、南へ南へと、なんとなく歩いていった。真っ白な水鳥が、群れで川面を泳いでいる。足元の草は青々と茂り、熱気で立ち昇る草の匂いが華の胸を満たしていく。久しぶりに安らぎを得た気がする。
「疲れちゃった?」
と、サトルが訊いた。
正直に答えていいものかどうか一瞬迷ったが、サトルのことを信用しているので、華は思い切って言った。
「うん。疲れちゃった」
「実は僕も……」
サトルは言いかけて、その続きを飲み込んだ。自分はもっと強く構えて、華を支えてやらなきゃいけないんだという自覚がそうさせた。
ブラック・ボックスや防寒シートがないので、二人は言葉を慎重に選ばなければならなかった。
「ねえ、サトル君」
「ん?」
「罪を憎んで人を憎まず、っていう言葉があるじゃない?」
「うん」
「どうやって人を憎まないで、罪だけ憎めるんだろう? どうしても、人と罪はセットになるじゃない。悪いことをした人が罰を受けなかったら、みんな怒るでしょ」
「その人がまた同じ悪いことを繰り返すかもしれないからね。捕まえてしまえば、みんな安心するし」
「だけど、罪を犯した人が、自分が罪を犯しているという自覚がなかったら?」
「客観的に見て罪があるとみなされたら、仕方ないよ」
「その客観は誰が決めるの?」
「え?」
「たとえばさ、ある国とある国が争っていて、仲間がやっていることは全部正しくて、敵がやっていることは全部罪だと考えるとするよ。そうなると、客観的な見方って、どっちから見たものなんだろう?」
「うーん……」
サトルは頭を抱えた。華は続ける。
「正義の味方だって、やっつけられるほうから見たら、悪の味方かもしれないよ」
「だけど、戦わなくちゃ。目の前で被害を受けて苦しんだり悲しんだりしている人たちが実際にいるんだ。そういう人たちがこれ以上増えないように、正義の味方は必要さ」
「もし、罪を犯している人を傷つけないで、罪だけ取り除く方法があったら、どんなにいいだろう?」
「僕も、いつかそれを見つけられたらと思っているよ」
華はため息をついた。
「正義の味方はしんどいな……」
「そういうものさ」
話は途切れ、二人はとぼとぼと歩いた。
やがて、目の前に海が見えてきた。駿河湾を大きな貨物船や漁船が行き来している。夏の日差しを受けて、波がキラキラと輝いている。草の匂いと潮の匂いに包まれて、身も心も温かい。華はいつまでもこうしていたいと思った。だが、そういうわけにはいかない。
対岸に渡る、残り一本の橋の手前で、二人は立ち止まった。道も折り返していて、これ以上先へ進むことはできない。
サトルは言いにくそうに言った。
「華ちゃん、どうする?」
華も迷いに迷って、こう答えた。
「ごめん……」
「いいよ、ゆっくり休みな」
「明日のことは、後で連絡するね」
「一人で大丈夫?」
「バスで帰るから」
「うん」
「じゃあね、ごめんね」
華は、河川敷の土手を登っていった。サトルはその後姿を見上げた。草の匂いのする熱い風に包まれた華は、これまでになく儚くて、もろく崩れそうに思えた。なんだか、このまま永久に会えなくなるのではないかという思いが、サトルの頭によぎった。
「華ちゃん!」
思いもかけない、サトルの必死な声に、華は驚いて振り返った。
「なに?」
サトルは土手を一気に駆け上がり、道に出ようとしている華の肩を両手でつかむと、自分のほうに向き直らせた。
「どうしたの?」
華はちょっと怖くなった。
「華ちゃん、僕……」
サトルは、急いで息を整えてから、華の目をしっかりと見つめて、言った。
「華ちゃん、僕は、君のことが好きだ」
「えっ」
びっくりして後ずさろうとしても、サトルの力に負けてしまう。
「君が苦しいのなら、僕が代わりにそれを引き受けるよ。君のためなら、なんでもしてあげたい。ずっと僕はそれを言いたかったんだ。本当は、それだけを言いたかったんだ」
華は、このときの自分の行動を思い出すたびに、いつも後悔でいっぱいになる。どうしてあのとき、サトルにちゃんと答えられなかったんだろう? あのときの自分が、何度思い出しても理解できない。
「ごめんね、さよなら!」
華はサトルの手を振りほどき、全力で駆け出した。後ろを振り返りもせず、とにかくこの場所から早く逃れたい気持ちで頭がいっぱいだった。サトルの気持ちなんて考えられなかった。
その晩、ベッドの中で、華は自分を責め続けた。サトルの顔と声が、あらゆる隙間から心の奥に染み込んでくる。龍之介の顔なんて、もう思い出せない。自分はいったい何がしたいんだ? もう、わけがわからない。
「私って、最低だな……」
涙を流すなんて無責任なことは、できなかった。




