第2話
今から400年前、歴史から名前を消した国がある。
周りを山に囲まれているにも拘らず、広大な草原、枯れる事のない河川、対岸が見えないほど広がる大きな湖の畔にその都があったとされる。国名は文献には残っておらず、王家の系図も存在していない。
この国の事は『とある国』として、近隣諸国に文献に度々登場するが、その国でどんな文明が栄え、どのような人種が生活しているのか詳しくは書かれていない。
ただ国が歴史から消える頃、どの国の文献にも同じことが書かれてあった。
『亜麻色の髪と青く透き通った瞳を持つ姫は、17歳の誕生日を迎えたその日、神の逆鱗に触れ、老いる事のない体と尽きる事のない命と共に国を追放された。神の逆鱗に触れた姫は、何があっても死ぬことは許されない』
同時期に同じことが書かれた文献が見つかったことで、これは事実だと判断された。
だが、この姫の行方は何処にも書かれていない。
それどころか、姫が追放された数ヶ月後、名もなき国は内部で発生した炎によって、国そのものが消滅してしまった。炎に包まれたことで、すべてが灰になってしまい消え去ってしまった。
大きな湖も姿を消し、文献に残る国がどこにあったのかも忘れ去られたしまったようだ。
その青年は、大学の教授から借りた本を読んでいた。
日本語でも英語でもない文字が並ぶその本は、貸してくれた教授も読み解くことができないらしい。教授の先祖が残した英語訳の対になる本はあるのだが、それを和訳すると意味不明な文になる。解読は不可能だと思っていた教授だったが、二週間前にこの青年がセミナーに参加し、日本語でも英語でもない文字を解読できるという。
青年は教授から解読してほしいと頼まれ、慣れない和訳に悪戦苦闘していた。
青年は本を閉じると、ソファに身を沈め、黄ばんでしまった表紙に描かれた2本の羽根の絵を軽く撫でながら大きな溜息を吐いた。
この本の持ち主の名前は判明した。王族に近い家に生まれた貴族の娘だという事もわかった。
「なんで思い出させるんだよ、あの時の事を…」
意味深な言葉をつぶやく青年は、目を閉じた。
忘れることができない記憶。
何年経ても鮮明に思い出す記憶は、今の青年にとって本当は忘れ去りたい記憶だもあった。
「たっだいま~~~!!」
感傷に慕っていた青年の気持ちを打ち破るような賑やかな声が聞こえてきた。
買い物に出かけていた姉が戻ってきたようだ。
リビングに入ってきた姉は、上機嫌で鼻歌を歌いスキップをしながらキッチンへと横切って切った。
「気色悪…」
機嫌のいい姉・百合香がうっとうしく思えた青年・夏稀は、姉に絡まれないようにソファに寝転がって寝たふりを始めた。
しばらくして、百合香の鼻歌が聞こえなくなった。
何かがおかしい…姉貴が急にテンションを下げるなんておかしすぎる。
何かあったのか?
不安になった夏稀がそっと目を開けると、目の前に百合香の顔がすぐそこにあった。
「うわぁ!?」
寝たふりをしていた夏稀の顔を、頬杖をついてニコニコとした笑顔で眺めている百合香のドアップに、夏稀は驚き、ソファから転げ落ちてしまった。
「何してんだ!!」
「なっちゃんの寝顔を見ていたの♪」
「気色悪い事してんじゃねーよ!」
「可愛い弟の寝顔を見ちゃいけないの? お姉ちゃん、あなたの可愛い寝顔が見たかっただけなのよ」
「知るか!!」
「ひど~い!!」と大きな声で泣き出した百合香は、夏稀に飛びつこうとした。
だが、夏稀はひらりと交わし、羽根の絵が描かれた本を拾い上げると、リビングに隣接する自分の部屋に入ってしまった。
バタン!と大きな音を立てて閉まる音に、百合香はビクついた。
が、その数秒後、百合香は悔しそうに舌打ちをした。
「今日も失敗か」
先ほどまでのキャピキャピとした声とは真逆の低い声をだす百合香。
弟とのスキンシップを楽しむ彼女にとって、この街に引っ越してきた2週間前から急に冷たくなった気がした。
「2週間前、何があったかしら?」
引っ越し作業が忙しかったため、2日間、弟とは別行動をしていた。その2日の間になにかあったのだろうか…?
「百合香ちゃん……顔、怖いよ?」
夏稀の部屋を睨み付けるように見つめていた百合香に、いつの間にか帰宅した夫が声をかけてきた。
「あら、お帰りなさい」
心配する夫に、ほぼ棒読みの返事をした。
「何かあったの? 百合香ちゃんの顔、すごく怖かった」
「そう? なっちゃんが冷たいから怒っていただけよ」
「また百合香ちゃんを怒らせたの?」
「なっちゃんの寝顔を見ていただけなの。それなのに怒られちゃった」
「なに!? 夏稀君の寝顔だと!?」
愛する妻が弟の寝顔を見たと言う発言に、夫・潤哉は怒るかと思いきや、
「俺様も見たかった!!」
と、予想もしなかった言葉が返ってきた。
百合香も潤哉も夏稀のことを周りがドン引きするぐらい溺愛している。両親や親族が他にいないということも関係しているのだが、その溺愛ぶりは会話だけ聞いていると弟というよりも、息子の事を語っているように聞こえる。
その溺愛は、夏稀にとってうざい存在だ。なぜなら、夏稀と百合香は血が繋がっていない。全くの赤の他人なのだ。出会ったときは「仲間」だった。ある日を境に「姉弟」になったのだ。
部屋に戻った夏稀は、机の上にリビングで読んでいた本を置いた。
机の上には全く同じ2本の羽根が表紙に描かれた本が置かれている。元から机の上に置いてあった本は、2本の羽根が黒く塗られている。
2冊の本を並べ、夏稀は同時に表紙をめくった。
表紙をめくって現れたのは誰かの肖像画だった。
黄色く変色してしまった羽根の本には、貴族だと思われる着飾った娘が描かれている。
黒く塗りつぶしてある羽根の本には、将校だと思われる軍服の様な服を着た青年が描かれている。
2つの肖像画には共通する箇所があった。それはそれぞれの肖像画の下に、その人物の生きた年代が書かれていたのだ。そこに書かれた年代は今から400年も前。
「なぜ、今になって、俺の前に姿を現すんだ…」
夏稀は並べられた本の隣に積まれていた大量の紙の束を勢いよく払い落とした。宙に舞う紙は、この2冊に書かれた内容を和訳した物。訳せば訳すほど辛くなっていく。息苦しくなっていく。
関わらなければよかった。
気に止めなければよかった。
なぜ和訳を引き受けてしまったのだろう。
本の持ち主だった教授が出版した本を本屋で偶然見つけ、何かに惹かれるように手にした。この著者に会いたい。そう思い、一般人も参加できるセミナーに参加した。教授は失われた王国の研究をしている。そのセミナーで教授は羽根が描かれた本を参加者に見せていた。
その本は見覚えがあった。色違いではあるが夏稀も持っていたのだ。
教授と直に話した。教授は中の内容が読めないようだ。表紙をめくって現れる娘の肖像画に書かれた名前も分からなかった。
だが、夏稀はその名前が読めた。名前が読めたから教授も和訳を頼んだ。
今となっては後悔の連続だ。
「どうすればいいんだよ…」
ベッドに身を放り投げた夏稀は両手で顔を覆った。
ふと右手を見つめた夏稀は、小指を紙の端で切ったのか、赤い線が出来ている事に気付いた。
体を起こして赤い線が出来た小指を眺めた。
確かに紙で切ったのだろう。少しだけ裂けていた。
手当てをするわけでもなく、その傷を眺めていると、スーッと赤い線が消えた。
小指の傷は綺麗に跡もなく消え去ってしまったのだ。
その光景に驚くことはなく、夏稀はじっと右手を眺め続けた。
<つづく>