第八話 心的外傷
謎の穴に吸い込まれ、町の住人がゾンビと化し、私達七班の四人が三人組の強盗と共同生活をするようになって、六日目。昨夜の見張り当番は凛音と平岩だった。
もう、一週間ほど夜が来ていない。時間の感覚が狂ってしまったのか、壁にかけてあるアナログ時計を見ても、今が午前なのか午後なのかがわからなくなってしまった。今が昼の七時なのか夜の七時なのかを確認するには、二十四時間表記のデジタル時計に頼るしかない。
一昨日は地図の南側、昨日は地図の北側を埋め、そちらも何もない荒野に繋がっていることを確認した。残るは地図の東側。この先は、本来ならば町から外れ、山や畑のある地域になっているはずだ。今日は、それを確認しに行く予定だった。
「あ、ねえ、くーちゃん。あたし一つ思ったんだけどさ。あっちの商店街って、食料とか沢山あるんじゃない?」
朝食を取りながら進める会議の最中。萌々子が今更な疑問を口にした。彼女の言う商店街とは、平岩達が強盗した宝石店のある辺りのことだ。
「あ、なるほど。そういえば、そうだったね」
「あそこには確か、近くの畑で採れた野菜とか、売っていたはずですよね」
「なんだよ。そんな場所があるなら、真っ先に行くべきだったじゃないか」
思い出したように頷く詩澄と凛音に、平岩が唇を尖らせる。萌々子に言われるまでもなく、私は商店街に多くの食料があることを知っていた。だが、あえて近付かなかったのにはちゃんと理由がある。
……あまり気は乗らないが、まあ、一度覗いてみる必要はあるだろう。行ってみなければわからないこともある。そこが存在していればの話だが。
そう思って、私は萌々子の案を採用した。
「……そうだな。午後にでも行ってみよう。だが、肉なんかは腐っているかもしれないぞ」
食品を扱う店の中には当然、生鮮食品がある。それらは電気が止まってから六日間、常温で放置され続けてきた。店の中はおそらく、とんでもないことになっているだろう。
「う、そ、そっか……」
腐った生肉に虫がたかる様子でも想像してしまったのか、萌々子は嫌な顔をしながら、手に持っていた乾パンをゆっくりと机の上に置いた。まあ、食事中にする話ではなかったな。
これまで商店街に近付こうとしなかった理由の一つがそれだ。もう一つは、食べ物の匂いにつられてゾンビ共が寄ってくるのではないか、という心配だ。そちらはまだ確かめていないので、真偽はわからない。検証してみる必要があるだろう。
商店街にあるのは、八百屋、肉屋、ジュエリーショップ、食堂、詩澄の大好きな洋服屋など。ラーメン屋も何軒かある。町から外れるにつれて、萌々子御用達のゲームショップ、たまに行く古本屋、古い音楽ディスクを扱う店、古着屋などになる。この中で役に立ちそうなのは、服屋くらいだろう。同じ服を着続けるのも、そろそろ限界だ。
スーパーマーケットでもあれば、食糧事情は一気に解決するのだが、生憎とそれが位置しているのは町の中心部。しかしその場所は、荒れ果てた大地に変わり果てていた。
「で、今日はどうするんだ? また地図を作りに行くのか?」
「そうだ。今日は町の東、町の外に繋がる方向に行く」
他の方角同様、こちらも途中で町が途切れているのなら、私達は救援が来るまでずっとこの町の中で暮らすことになる。期間は、わからない。一ヶ月か、一年か。もっと続くかもしれない。その問題は、できるだけ考えないようにしていた。
「了解、じゃ、早く行こう」
ひと足先に食事を終えていた平岩が、椅子から立ち上がってそう言った。とにかく動いていないと気が済まないという様子だ。彼はいつも、外に出る探索班に志願していた。
「……ああ。じゃあ、今日の班編成だ」
そんな平岩の意見も含めて、班を編成する。今日の探索班は、私、泉、平岩、春山。拠点班は、詩澄、萌々子、凛音だ。
バリケードが完成してから、拠点班はやることが少なくなったので人数を減らしている。拠点班の仕事は、周辺の警戒をすることと、無線機を使って救難信号を発信すること。無線機の電源は、コンビニから持ってきた乾電池式の充電器と、道路に放置された自動車のバッテリなどから確保している。外で充電するのは危険が伴うが、バッテリはとても重いので、室内に持ち込むことは諦めていた。
自家発電装置のようなものがあればよかったのだが、そんなものを持っている家庭は少ない。こちらに関しては諦めるしかなかった。
「何か、欲しいものはあるか」
探索に出る前、私は拠点に残る三人に尋ねた。半分冗談のつもりだったが、彼女らは少し考えて、
「うーん、贅沢は言わないけど、美味しいものが食べたいかな」
「ゲームしたい。けど、ネットも繋がらないし……なんか、みんなで遊びたいかも」
「弓、引きたいですね。なんか、最後に弓を引いたのが、もうずっと昔のような気がしてしまって……」
自分の希望を語る三人は、それぞれ何かを我慢しているようで、表情がさえなかった。彼女らも、色々と不満が溜まっているようだ。そういう私だって、色々と心に感じるものがある。きっとそれは、あの男三人も同じだ。
……皆、ストレスが溜まっているな。あまり良い状態とはいえない。どこかで発散させなければ、いつかとんでもないことになる。早めになんとかしなければ。
「早く来いよ、稲塚。置いてくぞ」
「……ああ」
ストレスのことは頭の片隅残し、脚立を伝って下に降りる。そういえば、この四人で探索するのはこれが初めてだ。彼らとも、随分仲良くなったものだ。
平岩とは、それなりに他愛ない話をするくらいの仲にはなったし、シャイな泉とも、まあ普通に会話している。萌々子のほうが誰よりも仲良さそうにしているが、それは彼女がお喋り好きなせいだろう。
ただ、春山との関係だけは微妙な感じだ。銃の通常分解を教え始めてからは、私へ盾突くことが少なくなっていたが、それが逆に奇妙に感じる。私のことを受け入れたのかもしれないが、それにしてはよく睨まれているような気もする。この変化が良いものなのか悪いものなのか、私は測りかねていた。
「行ってくる。誰か一人だけ、無線機の電源を入れておけ。後は頼んだぞ」
二階の窓から顔を出す三人に向かって言う。
「うん」
「まっかせて」
「気をつけてくださいね、みなさん」
三人の言葉に手を上げて答え、私達は今日の進路を確認した。
「さてと。今日はあっちだったな」
そう言いながら、平岩が未探索の東側に指を向けた。その方角には、私達が商品のほとんどをいただいたあのコンビニや、布団を運び出した民家がある。今日はそこに用はないので、その先へと進んでいく。
「そうだ。平岩は地図を頼む。泉と春山と私で周囲の警戒。何か気になることがあったら遠慮なく言え」
「了解」
「わかった」
私の指示に平岩がノートを取り出し、彼の背後を泉が守る。春山だけ何も言わなかったが、彼は静かに銃を握り直して、頷いた。
ある程度土地勘のある私を先頭に、私達は歩き始めた。
探索は順調に進んだ。ここ数日はずっとこんなことを繰り返していたので、皆慣れた様子で先へ先へと進んでいった。
周囲を警戒しつつ、立ち並ぶ家や店を見て、大きめの家は隙を見て物色する。水と、常温の保存食目当てだ。ガスボンベなどの消耗品も必要になる。要冷蔵のものは傷んでいることが多いので、冷蔵庫は開けない。一週間も放置された生ものの臭いは、中々にキツイことを学んだから。
余裕があるときは、車から発煙筒を取り出した。まずボンネットを開けて、バッテリを取り外す。警報装置に繋がるセンサが機能していないことを確認してから、窓ガラスを割り、内カギを開け、内部を漁る。
発煙筒は主に、ドアのポケットやダッシュボードの下に付いていることが多いようだ。私は車の免許を持っていないので、これらの知識はまったくなかった。これに関しては、平岩達がいてくれたから可能だったことだ。もし何も知らずに窓ガラスを割っていたら、警報が鳴り、ゾンビ共を引き寄せていただろう。
「……もういいだろう。先へ進むぞ」
「了解、班長さん」
凛音達が私のことを班長と呼ぶからか、いつの間にか泉達も、私のことをそう呼ぶようになっていた。悪い気はしないが、いい気もしない呼び方だ。第一、私はまだ、こいつらが同じ班になったとは認めていなかった。彼らは私達が救助した生存者で、一緒に行動しているだけの仲間。そういう位置付けのつもりだった。
「行くよ、隆」
「ケッ……」
何やら気に入らなさそうに舌打ちした春山は、しばらく車内に残されていたブランドバックを恨めしげに見ていたが、泉に急かされるとすぐに戻ってきた。まさか、この期に及んで金が欲しいのだろうか。それとも何か、今の女性物の鞄に思うところがあったのだろうか。
疑問を抱きつつも先へ進み続け、もう少しで雑木林に入るというところで、私達は立ち止った。
「えっと……本当なら、この先が森になってるはず、なんだよな?」
手に持ったノートを見ながら、平岩が訪ねてきた。
「……ああ」
目の前に広がる光景を見ながら、私は頷く。
「でも、これって……」
「おいおい、今度はなんだよ……」
泉と春山がそんな声を漏らし、その場に立ち尽くす。
確かに想像していた通り、城釧の町は終わっていた。だがその先にあったのは森でも畑でもなく、あの何もない荒野でもなかった。
そこには、また別の町が広がっていたのだ。
道路のアスファルトは、まるで地中に木の根が這っているかのように盛り上がっていた。その先は強引に継ぎ接ぎされ、また違う道幅の狭い道路へと繋ぎ直されている。そこはもう私達の知るどの場所でもなく、見慣れない文字の看板や標識が並ぶ、日本とはまったく異なる世界だった。
「どう、なってるんだ」
信じられない光景を前に、平岩がそんな言葉を絞り出す。あの荒野を見た時もと同じ、いや、それ以上に混乱している。
「ど、どうする。行くのか?」
一歩踏み出すのを躊躇いながら、確認するように春山が尋ねた。これ以上は進みたくなさそうな表情だ。その気持ちは私も同じだった。
「……いや。やめておこう。ここに何があるのかわからない。今は、拠点に戻ってこのことを早くあいつらに――」
伝えることが先決だ。
そう続けようとした矢先、私の言葉を遮って、泉が叫んだ。
「み、みんな、あいつらだ!」
意識を戻し、泉の指さした方を見る。そこには、こちらに向かってフラフラと歩いているゾンビが数体。その姿は、依然見た時よりも数段グロテスクになっていた。
異常にブヨブヨした皮膚。骨折して折れ曲がったままの腕。顎関節が外れ、開きっぱなしになっている口からは、乾燥して小さくなった舌が垂れている。そして、異臭。生ゴミが腐ったような、独特で強烈な臭いが、奴らから漂っていた。
「うぅっ! なんだこの臭い……!」
堪らず平岩が鼻をつまむ。その声に反応した一体と、目が合った。その途端、ゾンビ達の動きが活発になり、こちらへ向かって一直線に走ってきた。
「こ、こっちに来るぞ!」
「チッ、逃げるぞ。ひとまず身を隠そう」
追ってくる奴らの視線から逃れようと、近くの建物に避難する。入ったのは二階建ての平屋。開きっぱなしだった窓から侵入し、窓を閉め、すぐに逃げられるよう、玄関に集まる。
「気持ち悪い。なんだよ、この臭い……」
「鼻が、曲がりそう……」
鼻をつまみ、吐き気を堪えるように腹を押さえる三人。そんな彼らに、臭いの原因を教えてやる。
「……死臭だ。人が腐った臭いだ」
奴らは動く死体。一週間近く放置された死体から死臭がするのは当たり前だ。
「そ、そりゃあわかるけど……くそっ」
悪態を吐く春山は、少し涙目になっていた。
それから数分間は静かに息を潜め、外の様子を伺う。
「仲間を呼ぶ機能でもあんのかよ……」
平岩がドアスコープを覗きながら、そんな愚痴を零す。その狭い視界には恐らく、周囲の隙間からわらわらと現れるゾンビの姿が映っているのだろう。確かに、あいつらは一度私達を見つけると、大勢で追いかけてくる。宝石店の時も、コンビニの時もそうだった。
「ど、どうする。また強行突破する?」
鼻声で訪ねてくる泉に、私は首を振って銃口を下に向けた。
「いや、奴らがいなくなるのを待つ。銃は使うな。銃声を聞かれたらアウトだ」
「わ、わかった」
そうして扉の向こうの気配を探っていると、不意に物音がした。
「ヴ、ぁあ……」
「なん……」
私達の背後、すぐ近くから呻き声。泉と春山が振り返り、目を見開く。そこには、私達を追いかけていたのとはまた別のゾンビがいた。恐らく、元々この建物の中にいたのだ。
「な、ひっ!」
「うわっ!!」
しまった。身を隠すことに気が回って、部屋の中のクリアリングを忘れていた。
「こ、この。来るなっ!!」
「おい馬鹿、やめろっ」
怯えた春山が反射的に銃を構え、平岩がそれを止めようとする。だが、間に合わなかった。
バンッ、と銃声が一つ。弾丸はゾンビの顔に命中したが、敵は何ともない様子。クソッ、室内に隠れたのは、完全に私のミスだった。
しかし、後悔している暇はない。状況は動いた。私達も動かなければ、その先にあるのは死だ。
玄関の扉を開け放ち、三人に怒鳴った。
「走れ!」
外にはゾンビの群れ。迷っている時間はなかった。私は三人の行動が一瞬遅れたことにも構わず、先陣を切って表通りに銃弾をばら撒いた。
「来い! 足を止めるな!」
幸か不幸か、敵の動きはまだ少し鈍かった。その隙にゾンビ共の間を走り抜け、なんとか元来た道を戻る。後はただ、走るだけだ。
拠点から町の端までそれなりの距離を進んできたつもりだったが、走ればすぐだった。コンビニが見えてビルが見えて、次第に大きくなってくる。十分拠点に近付いたところで、私は無線機に向かって声を張り上げた。
「奴らに見つかった。援護しろ」
『え……え!?』
無線機越しに聞こえたのは萌々子の声。彼女は一瞬、何を言っているのかわからないというような声を上げたが、すぐに言葉の意味を理解した。
『わ、わかった。みんな! くーちゃん達がピンチ!』
背後からは、どうやったらそんなに早く走れるのか、腐りかけた死体が全速力で追いかけてくる。その距離は少しずつ縮まっていた。当然だ。こちらは走れば疲れるが、相手は疲れない。私達はまだ、謎の力で動く死体ではないのだ。
くそっ、足止めしてもギリギリだな。どうする……。
背後の圧力に気持ちが挫けたのか、泉のか弱い声が聞こえた。
「も、もう駄目なんだ……僕ら、ここでみんな死んで……」
その言葉に振り返る。私より体力のない彼は、もう息も絶え絶えという様子だった。
「詩澄と萌々子は二階から、凛音は屋上から援護だ。無線を付けて、合図を待て」
『りょ、了解!』
仲間達の限界を見越して、萌々子を通して指示を伝える。彼女の声は、心なしか少し震えているようだった。
泉の弱音を聞いた平岩が、銃を構えながら励ます。
「馬鹿なこと言うな、庄司。諦めるなよ。走れ!」
「でもっ、はぁ、はぁ……もう、無理……」
「チッ、貸せ」
泉を戦力外と判断した私は、ショットガンをひったくり、群がるゾンビに向かって撃った。しかし、装弾数がたったの二発しかないため、弾はすぐに切れた。アサルトライフルに持ち替え、応戦。銃声が鼓膜を震わせる中、汗だくで今にも倒れそうな泉に行った。
「泉、弾を寄越せ。それから上に上がれ」
「え、あ……」
疲れて判断力の落ちた泉は、私の指示に戸惑いながらも震える腕をポケットに突っ込み、弾を渡した。その数六。少ないが、何とかするしかない。
上下二連ショットガンの銃身を折り、次弾を装填している時、唐突に春山が叫んだ。
「うあああ!! 俺は、俺はもう嫌なんだ! こんな所で死にたくねえ!」
「おい隆! 馬鹿! 何してんだ!」
平岩の静止を聞かず、春山は銃を撃った。だが、その弾は半分以上がゾンビの頭上を越え、当たらない。ガク引きを起こしているのだ。
くそ、あいつまで恐怖で思考がおかしくなったのか。そんなことをしている場合じゃないというのに……。
「援護しろ」
『は、はいっ!』
手遅れにならないうちに、無線機に向かって叫ぶ。詩澄と萌々子は二階の窓から、凛音は屋上にある落下防止柵の隙間から銃口を出し、援護を始めた。
そうして作った隙に逃げ込もうとするが、泉は中々脚立を上ろうとしなかった。
「早くしろ、何してる!」
「わ、わかってる! でも、手が、手が震えて……」
くそっ、早くしないと間に合わなくなる。
二度目の弾薬交換をしながら、私は、一人冷静さを失わなかった平岩に指示を出した。
「平岩、押し上げろ」
「あ、ああ」
平岩が下から泉の尻を押し、二人が二階に上がる。残ったのは、半狂乱になって引き金を引き続ける春山だけだ。
「春山! 早くビルに戻れ」
「断る! 俺はもう、お前の言うことなんか聞きたくない!」
顔を赤くして肩で息をする春山は、私の指示を突っぱねて撃ち続けた。
だが、弾薬はすぐに切れる。弾が切れてスライドがストップしても、カチカチと引き金を引き続けている。完全にパニック状態だ。無理にでも下がらせなければ。
「この、このっ……!」
「この馬鹿野郎」
春山の目の前に迫りくるゾンビ。その前に躍り出て、散弾を打ち込み、群がるゾンビを食い止める。そして弾が切れたショットガンを春山に押し付け、ひと言。
「行け」
「い、稲塚……」
背中のゾンビを脇の下からストックで殴り、振り返って銃口を腹部に突き刺す。そのまま引き金を引いて腹部を破壊。黒いドロドロした血と内臓の破片が飛び散る中、銃身を短く回し、別のゾンビの腕に絡ませる。そして関節を無理な方向に曲げ、肩を破壊。腕を絡ませたまま銃口を下に向け、発砲。両膝を壊す。倒れたゾンビの後ろから近付いていた二体に狙いを合わせ、腰部分に二発ずつ撃ち込む。
「隆! 稲塚! 早く来い!」
「お、俺は、俺は……」
「はるっち!」
「春山さん!」
未だ呆然と立ち尽くしていた春山は、仲間の声でハッと我に返り、脚立に飛びついた。隙を見て、私も銃を撃ちながら脚立を一段ずつ登り始める。三段目に足をかけたところで、空になったマガジンを外す。噛みつこうとしていたゾンビの口に空マガジンを押し込み、首を蹴る。マガジンを交換する手間を惜しんで、ライフルからハンドガンに持ち替えたその時、上から春山の叫び声が聞こえた。
「は、早く脚立を外せ!」
「駄目だよ! まだ久美ちゃんが!」
「い、いいからやれ! 俺は死にたくないんだっ!」
嫌な予感がして、急いで脚立を登り切る。
そしてちょうど私が建物の中に転がり込んだ時、春山が脚立を倒した。下では、私に続いて脚立を登ろうとしていたゾンビ何体かが下敷きになり、立ち上がろうともがいている。だが、泉達が作ったバリケードのおかげで、奴らは上まで上がってこれない。それを確かめようとはせず、私は、目の前に立つ男を睨みつけた。
こいつ……私を犠牲にして、生き残ろうとしたな。
「春山、お前……」
状況が終わり、どこか呆然とした表情をしている春山。その胸倉を掴み、壁に押し付ける。
「く、久美ちゃん!」
「お、落ち着け、稲塚」
こいつは私を殺そうとした。それは、それだけは絶対に許せない。必ず報いを受けさせてやる。
握り締めた拳と一緒に恨み言の一つでも言ってやろうかと思ったとき、まだ外で銃声が響いていることに気付いた。屋上にいる凛音が、まだ銃を撃ち続けているのだ。
「……おい、凛音、もういいぞ」
彼女のいる位置からだと、こちらの様子が見えなかったのだろう。そう思い、無線機に手を当て呼びかける。
『ふ、ふふふっ。あっははははっ』
しかし、無線機から聞こえてきたのは、乾いた笑い声だった。
……あいつ、まさか……。
脳裏に悪い予感が浮かび、春山を放り出す。こんな奴に構っている場合ではない。彼は最後まで抵抗せず、そのまま床に転がった。
「お前らは早く三階に上がれ」
「ちょ、ちょっと!」
「久美ちゃん!」
仲間の静止を無視し、私は階段を駆け上った。梯子の下に積み上げた荷物に足をかけ、屋上へ上がる。その先に、彼女はいた。
「……凛音」
「あははっ、あはははははっ!」
壊れたような笑い声。狂気を孕んだ瞳。しかし彼女は、何も見てはいなかった。ただ周囲に空薬莢と空マガジンをまき散らし、点射もバラバラで、ゾンビ相手に銃を撃ち続けていた。
凛音。お前、ここまで……。
空になった弾倉を交換しようとしている凛音に駆け寄り、その手から銃を取り上げようとする。
「凛音。もういい。みんな無事だ。撃ち続ける必要はない。奴らは殺せないんだ」
「ん、嫌っ、放せっ!!」
乱暴な口調で抵抗し、私を跳ね除けようとする凛音。だが、私はそれを押さえつけて銃を凛音の手から引き剥がし、そして、強く抱き締めた。
「……もう、いいんだ。凛音。力を抜いて、落ち着け」
「嫌、放して……撃たせて……銃を撃たせてください!!」
震える小さな拳で、がむしゃらに背中を殴りつけてくる凛音。
彼女の顔は見えないが、声はとっくに泣いていた。そんな彼女の耳元で、強く言い聞かせる。
「駄目だ。もう、弾を無駄にするな」
「嫌だ。撃ちたい。撃たないとみなさんが……ともだちが……」
「大丈夫だ。お前のおかげでみんなは無事だ。それに、奴らはここまで上がってこれない。お前が無理をする必要はないんだ」
正気に戻り始めた凛音の口から、小さく嗚咽が漏れる。その震えが全身にまで広がり、彼女の腕が私の体を強く抱き締め返してくる。
そう。普段は副班長として頼もしかった凛音の精神は、かつてない緊張の連続で、すっかりボロボロになってしまっていたのだ。
私は、それに気付けなかった。彼女が人知れず壊れてしまうまで、何もしてやれなかった。そのことに歯噛みし、後悔し、そして今はただ、壊れてしまった彼女を正気に戻すために、興奮して熱くなった体を抱き締め続ける。
「班長……久美、さん……う、うぅ」
「それでいい。お前は無理しすぎたんだ。少し、休め」
「うぅ、ぁぁあああ!!」
彼女が私の前で声をあげて泣いたのは、これが二度目だった。
◇ ◇ ◇ ◇
泣き疲れた凛音を連れて三階に戻ると、きちんと全員集まっていた。だが、その空気はとても重い。まるで葬式のような雰囲気だ。高橋が死んだ――私が殺した――あの時よりも、さらに酷い。
「あ、久美ちゃん……」
「くーちゃん……」
「……詩澄、萌々子。凛音を頼む」
「あ、うん……」
まだ精神状態の安定しない凛音のことを二人に押し付け、床に座り込んでいた春山の元へ行く。彼は私がこの部屋に入ってからずっと、顔を背け続けていた。
ゆっくりとした歩調で近付き、部屋の奥で小さくなっている春山の前に立つ。そして私は無言のまま、もう一度彼の胸倉を掴んだ。
「ぐっ……」
「……春山。お前……わかっているな」
両手を使って、その大きな体を強引に立ち上がらせる。ここまでしても、彼は視線を逸らし続けていた。
逃げ込んだ家屋内での発砲。自暴自棄な言動の数々。そして、私を犠牲にしようとしたその行動。冷静さを欠いていたとはいえ、私を、そして仲間全員を危険に晒したのだ。仕方ないでは済まされない。
そして何より、私を殺そうとした奴を、許すわけにはいかない。その罪は、償わせなければ気が済まない。
「……なんとか言え」
「……人殺しに言うことなんか、ない」
「……ほう」
無意識のうちに、ピクリと頬が動いていた。それは、殺気たたえた私を不快にさせるには十分な言葉だった。
こいつ……皮肉のつもりか。
目を細め、睨みつける。無意識のうちに殺意が漏れ、手がホルスターに伸びる。
「……高橋の次は、お前になりそうだな」
「この、お前……っ!」
私の言葉に怒りを覚えたのか、それとも恐怖したのか。バッと身を引いた春山は、懐から銃を取り出し、こちらに銃口を向けた。その表情は、間違いなく本気だ。
「よせ、隆!」
私達の一番近くにいた平岩が叫ぶ。だが、頭に血が上った春山はそれを聞かない。聞こえていないのだろう。それは私も同じだった。
……そんなことはどうでもいい。私に銃を向けた。その事実さえあれば、銃殺にする口実には十分だ。
素早く右の手の平で銃口を押さえ、そのまま力の限り押し込む。私の手の中でスライドが少し後退した瞬間、春山はトリガーを引いた。
――だが、彼が何度引き金を引いても、弾丸は発射されなかった。
「あ、な、なんで……」
突然いうことを聞かなくなった銃に戸惑う春山。その隙に私は春山の手首を捻り上げて銃を奪い、体勢を崩させる。
「うわっ!」
抵抗できず尻餅をついた春山の眉間に、私は銃口を突き付けた。
……こいつのせいで、私達は殺されそうになった。それはつまり、こいつは私を殺そうとしたということだ。私を殺そうとする奴は、生かしておけない。殺さないといけない。そうだ。殺さないといけないんだ。私が生きるために。
……ああ、でも、こいつは私達の仲間だったはずだ。仲間は、殺しては、いけない……?
頭の中で様々な考えが回る。けれど、浮ついた思考はどこかまとまらず、既に動いていた人差し指は止まらない。指の腹がトリガーに触れ、そのまま自然に指を引き、そして――。
「やめてよっ!!!」
悲鳴のような声が上がった。
ハッとして声のした方を見ると、詩澄が両耳を塞ぎながら、その場に蹲っていた。
「やめて、やめてよ。どうして……どうしてこんな時に喧嘩なんかするの!? 二人とも、おかしいよ。死にたくないのは、みんな、一緒なんだよ? 萌々子ちゃんも凛音ちゃんも、平岩さんも泉さんも、わ、私だって。怖い思いをしたのはみんな一緒なのに、辛いのはみんな一緒なのに。私達、仲間、でしょ? どうしてなの。こんな、やだよ。こんなの、全部おかしいよっ!!」
ヒステリックな叫びと、悲痛な訴えが心に響く。いつの間にか私の指は、トリガーから離れていた。
「しーちゃん……」
「岸崎……」
言うだけ言って泣き出してしまった詩澄の肩を、萌々子と平岩が介抱する。二人の視線が私を射抜き、次第に銃口は下がっていった。
もう、先ほどの強烈な殺意はなかった。今の私にあったのは、罪悪感という感情だった。
「……チッ」
力なく頭を垂れた春山を見ながら、銃を机の上に置く。念のため確認すると、薬室に弾は入っておらず、弾倉も空っぽだった。
「……」
そのあまりの間抜けさに、私は声も出なかった。
ああ……まったく。この私が銃の基本を忘れるとは。弾が入っているかないかくらい、持てば重さでわかるというのに。私もそろそろ、限界が近いのかもしれない。
「あ、謝ってよ。仲直りしてよ、二人とも」
涙と鼻水を袖で拭いながら、しかしいつになく強い口調で、詩澄が言った。私は、涙目で訴えてくる彼女の言葉に、従った。
「……すまなかった、春山」
顔を背け、しかし視界の端に春山の顔を入れて、私は謝罪した。
「……いや……俺が、悪かった」
そう言って、春山も静かに謝罪する。私も春山も、頭は下げなかった。
気まずい空気。けれど、不思議と悪い感じはしない。
これで私達は、多分、仲直り、したのだろう。こういったことをしたのは、これが初めてだった。
◇ ◇ ◇ ◇
午後一時過ぎ。レトルトのカレー、白米、ハンバーグと、いつもより少し豪勢だった昼食の後。私は三階の窓から、拠点の入り口に群がるゾンビ達を見ていた。
死臭を放つ、先ほどよりも赤黒くグロテスクに変容したゾンビ。ほとんどが手を上に向けて気味の悪い呻き声を上げているが、中にはバリケードを壊そうとしている奴もいる。気のせいかもしれないが、依然見た時より凶暴性が増しているような気がする。
……あいつら、肉体は既に腐っているのに、なぜ動いていられるのだろう。
ふと、そんな疑問を抱く。そもそも、ゾンビというのはいったい何を示す言葉なのだろうか。よく一緒にされるのが、不死者という存在だが、奴らは本当に死なないのだろうか。それとも、単に死してなお動き続ける死体なのだろうか。
少なくとも、今目の前にいる大量のゾンビは、何かを考えているような素振りはない。足取りもどこかおぼつかない。動いているというより、動かされていると表現したほうがいい。だが、奴らはいったい何に動かされているというのだろう。腐りかけた人間の死体を動かし続けているのは、いったい何者なのだ。私には、それがわからなかった。
「大丈夫? くーちゃん」
「……ああ」
背後から訪ねてきた萌々子に頷いて、私は窓際を離れた。今日はもう、外に出るつもりはない。奴らが諦めてここからいなくなるのを、大人しく待つだけだ。こうして落ち着いていられるのも、泉の臆病さが作った三重のバリケードのおかげだった。
「……萌々子、あいつらは」
「えと、しーちゃんはもう平気だって言ってた。でも、りーちゃんとはるっちが、まだちょっと……」
「……そうか」
食事をして多少気持ちが落ち着いたようだが、調子を取り戻すにはまだ時間がかかるのだろう。あんなことがあった直後だ。仕方ない。
私と萌々子を除く五人は今、四階に集まっていた。精神状態が不安定なのもそうだが、怪我をした奴もいたので、泉が治療している。といっても、今できることは少ない。軽く消毒して絆創膏を貼る程度のことだ。あの状況の中、ゾンビに噛みつかれたりひっかかれたりしなかったのが救いだった。未知のウイルスに感染してゾンビ化、とまではいかなくとも、腐りかけた奴らが持っている何かしらの病原菌に感染して、何かの病気にかかってしまう可能性がある。治療の手立てがない今、そういったことはできるだけ避けたい。
私と萌々子は周辺警戒を引き受けた。かといって何かできることもないので、ゾンビ共があの頑丈なバリケードを破る心配がないか、こうして観察していた。
「くーちゃんは、その、本当に大丈夫なの?」
「ああ。……まあ、私も万全とは言えないが」
「そっか……」
萌々子が念押ししてくる気持ちもわかる。だが、ここで私までダウンしてしまえば、全員の士気にかかわる。
皆、いつの間にか私をリーダーとして扱っていた。そのことは別に気にしていなかったのだが、こういう時、長の役割は重要だ。私の判断、言葉、行動。すべて仲間に見られている。皆の希望を背負っていることを自覚しつつ、私は、改めて自分の行いを反省した。私を殺そうとしたことは許せないが、だからといって、あそこまでのことをするべきではなかった。
それから、何度か見張り当番を交代しつつ、午後を過ごした。
詩澄と凛音は少しずつ調子を取り戻し、一緒に地図の清書などの簡単な仕事を率先してやっていた。私と喧嘩した春山は、何か思うところがあったのか、私に頭を下げて、銃の扱い方を教えてほしいと言ってきた。私はそれを承諾し、平岩と泉も巻き込んで、拳銃と散弾銃の構え方や構造、覚えておいたほうがいい豆知識、弾薬の知識まで、時間の許す限り丁寧に教えた。あえて何も言わなかったが、既に授業で習っているはずの詩澄達三人もなぜか、一緒になって私の話を聞いていた。
そうやって過ごしているうちに、外のゾンビはいつの間にかいなくなり、今日も太陽が沈まない夜が来た。
午後八時。やはり少しだけ豪勢な夕食を済まし、濡れタオルで体を拭く。汚れの目立っていた制服は、洗剤とお湯で軽く拭いてから干し、適当な家から頂いたパジャマに袖を通す。
今夜の当直は詩澄と春山の予定だった。今日あんなことがあった後なので、皆二人の状態を心配していたが、二人が大丈夫だと言うので、見張りを任せることにした。
そして、午後十時前。私達五人は四階に上がり、眠りについた。
――けれど私は、皆が眠っていた七時間、凛音と萌々子の寝顔をずっと見ていた。
これは誰にも言っていないことだが、私はあの穴に吸い込まれてからこれまで、実は、一睡もしていなかった。