第五話 サバイバル
「すぐにバリケードを作れ。二階にある家具を使うんだ。早くしろ」
放心状態の仲間達をより安全な二階に押し込み、私は手早く指示した。
「おい、早くしろ。……死にたいのか、お前ら」
六人はしばらくボーっとしていたが、私が渇を入れると、ビクッとして動き始める。けれど、それに従おうとしない者が一人いた。春山隆だ。
「おい、待て。お前、稲塚。なんであいつを……高橋を殺した」
その言葉を無視して、安全を確保するために指示を出し続ける。
「その机と椅子を絡ませて階段を塞げ。延長コードか何かで結んで、より強固に。重いものがあれば、それを――っ!」
ようやく仲間達が行動し始め、バリケードを作り始めたその矢先。我慢の限界に達した春山が、力任せに私の襟首を掴み、壁に押し付けてきた。
「答えろ! 俺は、なんで仲間を殺したのか聞いてるんだ!」
こうしている間にも、階段下にはゾンビと化した住人が集まってきている。だが、階段を登ってくるゾンビの数は想像よりも少ない。登ってきても、すぐに階段の段差につまずいている。奴らは足を上げるのが苦手なようだ。
「……黙れ。今はここを死守することが先だ。お前との喧嘩はその後でいくらでもしてやる」
屈強な男の怒りを殺気で返し、春山の手を振り払う。そして私は、階段下に群がるゾンビに向かって発砲した。二点射で、引き金を二度引く。
放たれた弾丸は、私が殺したはずの高橋一樹のゾンビに命中。しかし、効果はなし。そして、元から減っていた残弾はすぐに尽きた。
「チッ……」
……やはり、駄目か。こうなってしまったら、もう殺しきることはできない。
マガジンを入れ替え、コッキング。一発目を装填。空になったマガジンを防弾チョッキのポケットに入れる。これで、二つ目。もう六十発も弾を使ってしまった。もっと節約しなければ。
そこでふと、もう一つの出入り口の存在を思い出した。一度銃を下ろして、振り返る。
「春山、非常階段を確認してこい」
「なんだと。お前に従うつもりはもう――」
「死にたいのか、春山。……あいつを殺してまで、ここに逃げ込んだというのに」
そう言うと彼はたじろき、そして舌打ちしながら非常階段へと急いだ。あれこれ言いながらも従ってくれるということは、生き残るという目的は一致しているのだろう。それでいい。今この場で、それ以上のことは求めていない。
春山がここを離れている間に、残った仲間が事務所から大きめの机を拝借し、階段を塞いだ。それを基盤に、パイプ椅子の足を互いに絡ませて、スタンドライトのコードで結び、積み上げる。急ごしらえの簡易バリケードができた。
そうしているうちに、裏口に回っていた春山が戻ってきた。
「裏の階段は無事だ。まだ奴らは来てない」
「……そうか。そこも何か重いもので塞いでおけ。私も手伝う」
「……ああ」
他の連中には上に逃げるよう指示し、春山と二人、二階の非情階段へ続く扉を塞ぎにいく。
非常階段は廊下の向こう側にある。事務所内にあった高級そうな椅子が重たかったので、それと掃除用の箒を使って、階段の扉が開かないようにしておいた。
「……これでいい。私達も行くぞ」
「あ、ああ」
最後に一度バリケードの様子を確認して、簡単には破られそうにないのを確かめる。それから、表情の固い春山を連れて三階に行く。
先に戻っていた仲間達は、揃って床を見つめ、椅子や地面に腰を落としていた。
「……下の非常階段を塞いできた。今後非常階段を使う時は、三階から使え」
声を掛けても、誰も返事をしない。ついさっき起こったことを考えれば、当然だ。返事など最初から期待していなかった。
意気消沈した仲間達のことは放っておいて、近くの窓へ歩み寄る。窓はきちんと閉まっていたが、下からはまだ、狂った住民達の呻き声と、壁を叩く耳障りな音が聞こえていた。
ついさっき通って来た道路には、人の形をした別の何かが蠢いている。不気味な光景だ。自分がそのただ中にいるのだと思うと、気味が悪い。けれど、これでしばらくは安全なはずだ。そうなるように事を運んだのだから。
奴らにこちらの姿を見られないよう、カーテンを閉める。あいつらが人間の姿に反応するのかどうかはわからないが、用心するに越したことはない。そうして私が一人室内のカーテンを閉めて回っていると、それまで沈んでいた仲間達の中から声が上がった。
「……なあ、稲塚。どうしてお前は、そんな顔してられるんだ」
静かな口調。椅子の上でショットガンを抱きかかえていた平岩だ。
「……なんだ。お前も、私のことが気に入らないのか」
最後のカーテンを閉め、振り返る。室内が少し暗くなった。彼の視線に力は入っておらず、どこか宙に浮いたようだった。
私の返答を聞いて、春山がチッと舌打ちする音が聞こえた。
「お前……人を、殺したんだぞ」
「……ああ」
「どうしてそんな、平気なんだ」
「……あいつはまだ、死んでいない。あいつは死ななくなった」
右太もものホルスター、高橋から受け取った拳銃に触れながら、食い下がる平岩に言い放つ。
高橋の体は、今も下で動いている。バリケードの向こうで、連中と一緒だ。……くそ。
「そんな、それはただの屁理屈だぞ。お前、それでも、お前は……」
平岩の言葉が小さくなって、聞こえなくなる。この後、彼は何と続けたかったのだろう。
それでもお前は十七歳なのか。それでもお前は女の子か。それでもお前は、人間なのか。そんなことを言おうとしていたことは、想像に難くない。
……ふん。どれであろうと。大きなお世話だ。
「もういいだろう。もう」
我慢できなくなった春山が、首を振りながら口を出す。そちらに顔を向ける。
「お前は人を殺したことがある。そうだろう」
決めつけるような言葉。春山は私のことを、仇を見るような目で睨み付けていた。
「なんかおかしいと思ってたんだ、最初から。何が起こっても、こいつだけやけに落ち着いている。こいつだけ、目が違うんだ。普通の高校生の、女の目じゃない」
その言葉に、私は目を細め、数センチ視線を外した。
……不快だ。こいつに、私の何がわかるというんだ。
心に浮かんだ感情を鎮め、黙って先を聞く。
「そうなんだろう、稲塚。お前は人を殺したことがある。この人殺しが!」
春山が、憎悪を込めてそう言い放った。私はそれを、否定する気はなかった。
「……ふん」
……人殺し、か。
面と向かって言われたのは、これが初めてだった。
……これはあまり、気持ちのいいものではないな。
「……お前だって、人を殺すつもりだっただろう、強盗。あの時人質を取っていたのはお前だった」
不快感を皮肉で返す。
「俺は……俺は殺すつもりなんてなかった。脅しただけだ」
そう言って春山は、罪悪感からか、静かに拳を握り締めた。だが、本当のことはわからない。
……脅しただけ? 本当にそうだろうか。あの女性に銃を突き付けていた彼の目は、明らかに殺気を孕んでいた。何かがあれば、彼は確実に彼女を撃っていただろう。間違いなく、殺す気で。
そんな彼のことを心の中で嘲笑い、私は小さく呟く。
「……臆病者」
「なんだと」
聞こえたようだ。今にも殴りかかってきそうな勢いの春山を、横から平岩が押さえる。
「っ、何すんだよ!」
「頼むから、今は静かにしててくれ。稲塚、教えてくれ。はっきりさせてくれ。そうなのか。お前は……人を、殺したことがあるのか」
「……ふん」
彼の目が、まっすぐ私を見る。視線を外して、平岩の問いに答える。
「……七歳の時だ。私は、私を殺そうとした人間を殺した。これで満足か」
これ以上のことを言うつもりはなかった。過去のことは、誰にも話したくなかったから。
「班長、そんな……」
「くーちゃん……」
信じられない、というように呟く凛音と萌々子。詩澄だけは何も言わなかった。平岩の腕を振りほどいた春山が、続けて問う。
「なんで、高橋も殺したんだ」
「あいつが、殺してくれと頼んだからだ。あいつは、自分が人間であるうちに死にたいと言った。だが、結局あいつはゾンビになった。手遅れだったんだろう」
顔を苦痛に歪ませながら、私に懇願して来た高橋の顔。彼のことは、しばらくは忘れられそうにない。
そういえばあの時、彼は腰を押さえていた。コンビニで作業をしている時も、しきりに腰を伸ばしていたような気がする。いや、それは出会った時からだったか?
……これが、手掛かりか。ゾンビ化した連中の腰辺りに、何かあるのかもしれない。もしかすると、そこが弱点という可能性もある。解体でもすれば詳細がわかるだろうが……今は不用意に近付かないことが一番だ。
重要なのは生き延びること。奴らから身を守る場所を確保した今、次にするべきは、持続的な生活環境を整えることだ。
ふと気になって、スマホを取り出してみる。ここでも画面上には圏外の表示。やはり、ネットも何も繋がらない。そして、ついでのように時間を確認すると、私の視線はそこで止まった。驚いたことに、もう午後六時を過ぎていた。
……妙だ。まだ外は昼間のように明るいというのに……。
「……この話は終わりだ。少しは冷静になれ」
違和感を抱きつつ、不毛な話題を打ち切る。こんなことに構っている時間はない。
「おいっ、そんなんで俺達が納得するとでも……!」
「納得などする必要はない。気に入らないなら、一人で勝手にすればいい」
春山にそう言い放つと、私は四階のオフィスに向かった。コンビニから持ってきた品物は、全部この部屋に置いてある。
とにかく運ぶことだけを考えて適当に入れたからか、オフィスには足の踏み場もないほど商品カゴが溢れていた。どこに何があるのかもわかりにくい。早めに整理する必要があるだろう。
その中から、消費期限の近い弁当やおにぎり、サンドイッチを集め、飲み物や割り箸、ゴミ袋と一緒に下に持っていく。仲間達はまだ、心ここにあらずといった状態のままだった。
「……飯でも食って、落ち着いたらどうだ」
ヘルメットとグローブを脱いで机の上に置き、持ち込んだ食べ物を机の上に並べる。電子レンジが使えないので、弁当は冷たいまま食べることになる。だが、冷凍されていたわけではないので大丈夫だろう。
少し待ったが誰も手を付けようとしないので、こちらから適当なものを選び、仲間の目の前で食べる。そうして彼らの食欲を刺激する。
「……お前らも何か食え。嫌なら、食ってから吐け」
そう言いながら、一緒に持ってきていたビニール袋を指さす。皆も空腹を感じていたのだろう。その指の先に視線を向けるほどに、六人の気力は戻ってきているようだった。
しばらくすると、不意に立ち上がった萌々子が、おにぎりを一つ手に取った。袋を開け、食べ始める。一人動けば、すぐに他の連中も動き始めた。
平岩が弁当を取り、凛音が詩澄と一緒にサンドイッチを食べ、泉がお茶を一気飲みする。やはり、皆腹が減っていたようだ。
そして何を思ったのか、最後に春山が残りっていた弁当二つとおにぎり三つを取り、大きな口を開けて食べ始めた。
……やけ食いか? 本当に全部食べるつもりなのか。
これには私も驚いた。つい春山の箸の動きに注目してしまう。
「……なんだよ」
「……別に」
あんなことがあった後だったので、何を食べても喉を通らないのではと思っていたが……全員、その心配はなさそうだ。
「え、ちょ、僕の分は……」
「……ふん」
お茶しか飲んでいない泉の目の前で、春山は意地悪くすべてを平らげた。そして、一リットルの緑茶を全部飲む。中々豪快な食事だった。
その様子を羨ましそうに見つめていた泉が流石に可哀想だったので、私は上を指さしながら、
「……上にまだある。消費期限を見て選べ」
「う、うん……ありがとう」
食欲に従い、階段を上がっていく泉。それを見送ってから、私はおしぼりで口元を拭う春山に、一つ苦言を言った。
「次からは量を抑えろ。食料は無限ではない」
すると彼は意外なことに、まるで悪さをした子供のような顔をして、素直に謝った。
「……わかってる。今回だけだ。別に今日くらいいいだろ。滅多にできることでもないし……」
その時私は、春山という男の意外な一面を見たような気がした。
「……わかっているのなら、いい」
……また怒鳴ってくるかと思ったのだが。
少し驚きつつ、そう言って私は、自分が食べた弁当の片付けを始める。まとめた分は、ゴミ袋の中に捨てた。他の連中の出したゴミも一緒に放り込んで、部屋の隅にまとめておく。これがいっぱいになったら二階に移し、そこに溜めておくことにする。今はゴミを出す曜日になっても、ゴミ収集車は来ない。
廃棄物の他にも、私達が抱える問題は多い。そういう訳で、私は、ここで生活するうえでの取り決めを作ることにした。差し当たっての重要事項は、トイレについてだろう。誰もが食事をしなければ生きていけないように、排泄もしなければ生きていけない。
食事を終え、徐々に気力を取り戻してきた仲間達に集合をかける。
「……話がある。付いてきてくれ」
六人とも、渋々着いてきてくれた。
集まったのはすぐそこのトイレ。私の手には、コンビニから持ってきた黒いエチケット袋と、資源用のゴミ袋。それだけで何かを察した数名は、どことなく嫌そうな顔をしている。
「わかっていると思うが、今は自由に水が使えない。だから、水洗式のトイレは使えない」
そこまで言えば、察しの悪い同じ班の彼女達でも理解できただろう。私も、みんなの言いたいことは察していた。
「そんな顔をしても駄目だ。使えない。だからトイレは全部、このビニール袋の中にするんだ。終わったら、口を堅く縛って、二重にしたこのゴミ袋に捨てる。そしてある程度溜まったら、二階のトイレに置いておく」
私の言葉に、全員の表情がさらに沈んだ。誰もが視線を逸らし、何人かは少し恥ずかしそうにしている。それも当然だろう。普通の人は自分が出した排泄物を保存しておきたいなんて思わないし、通常ならその必要もない。すべて水に流してお終いなのだから。
だが、今はそんなことも言っていられない。ある程度のことには我慢するしかないのだ。
正直なことを言えば、私だって気が進まない。だが、他にいい方法がないのも事実。ここが町ではなく大自然の中であれば、適当な場所に埋めてしまうのだが、地面がコンクリートでは、それも不可能だ。
そんな中、萌々子がおずおずと手を挙げて意見した。
「でもでも、トイレのタンクに水を足せば、ちゃんと流せるんでしょ? テレビでやってた」
そう言う萌々子はどこか自慢げだ。災害対策の番組か何かで見たのだろう。確かにその方法なら、トイレを今まで通り流すことができる。だが、今はその方法も使えない。
「いや、それは無理だよ」
首を振って、泉が萌々子の案の問題点を指摘する。彼は、わかっているようだ。
「え、どうしてよ」
驚く萌々子に、私から一つ尋ねる。
「……萌々子。その水はどこから持ってくるんだ」
「えっと、確か、普段からお風呂に水を溜めておくって……あ」
どうやら、自分の意見が破綻していることに気付いたようだ。
「……わかったな。普通の家ならそれでいいが、ここには風呂なんてない。それに、下水管が無事なのかどうかもわからない。その辺から悪臭が漏れ出していたら嫌だろう」
「うぇ、それは、そうだね。ごめんなさい……」
この場にそぐわない話をしてしまったと思ったのだろう。萌々子は、そう言って俯いた。だが、彼女は悪いことをしたわけではない。しょんぼりした彼女を少しフォローする。
「別にいい。そういう知識は、今とても役に立つ。他にも何かあれば、躊躇わずに言え。トイレの件は無理だったが、他のところで何か改善できるかもしれない」
「う、うん。……わかった。ありがと」
顔を上げ、私の方をしっかりと見る萌々子。それを確かめてから話を続ける。
「紙のことは心配しなくていい。節約は必要だが、トイレットペーパーは沢山ある。手を洗うのは、ウェットティッシュを使うことにする。おしぼりでもいい。そっちも沢山あったはずだ。水はできるだけ残しておきたい」
渋々とだが、六人はそれぞれ頷いた。それを確かめて、こちらも頷く。
「トイレについては以上だ。質問はあるか」
今度は、誰も手を挙げなかった。どうやらみんな、これだけする必要があると納得してくれたようだ。
「……そうか。では、お前らは少し休め。気が滅入っているだろう。私は上で荷物を整理している。何かあれば、呼んでくれ」
私は再び四階に移動した。ここまで来ると、ゾンビ共の声は聞こえない。静かに作業ができそうだ。
余分に持ってきていた商品カゴを利用して、品物を種類別に整理する。まずは食べ物と飲み物から。
コンビニで扱っている食品は本当に多い。弁当、おにぎり、サンドイッチ、パスタ、蕎麦、うどん、ラーメン、総菜、パン、そして、シュークリームやバームクーヘンなどのちょっとしたスイーツ。確認したところ、これだけの種類のものが、消費期限が近いようだ。いくつかは既に期限が切れており、近いもので今日の夜中。長くても二日後までしか持たない。なるべく優先して食べなければならないだろう。だがまあ、七人もいればすぐになくなるはずだ。……大食漢が二人もいるのだし。
消費期限という観点から見るならば、菓子や缶詰はまだ全然問題ない。密閉されているので、パッケージが埃を被っていても食べられる。それに、菓子ばかり食べていると太る、などと言われるように、菓子にはカロリーがある。これだけあれば、菓子だけで一週間は持つだろう。
そこまで整理したところで、遠慮がちに扉が開いた。一度手を止めて顔を向けると、そこにいたのは平岩だった。
「俺も手伝う」
「……そうか」
意外だった。だが、手が増えるのはありがたい。彼には、途中まで進めていた菓子の整理を任せ、私は新しい作業に移った。
「……商品ごとに分けてくれ」
「ああ、わかった」
次に取り掛かったのは飲み物。これは、食品以上に大量にあった。表に並んでいたものだけを持ってきたので、裏方に置かれていたものはそのまま残してある。外のゾンビがいなくなってから、また取りに行くつもりだ。
だが、それもまだ先でいい。ペットボトルはまだ、カゴ六個分もある。それとは別に、運ぶのに苦労した二リットルのペットボトルや紙パックがあるので、こちらもしばらくは大丈夫だ。
普通の水は飲む以外に使うつもりなので、分けておく。レトルト食品を温めるのにも必要だ。問題はどうやって温めるかだが、それは別に考えがあった。
「……他の連中はどうしてる」
お茶とジュースを分けながら、ふと平岩に尋ねる。仲間内で固まっていたほうが安全だとは考えなかったのだろうか。
「ん、あいつらなら下で何か話してる。何話してるかは知らんが、結構盛り上がってるぞ」
「……そうか」
話をする余力があったとは。後で何を話していたのか聞いておこう。
そんなことを考えながら、黙々と作業を続ける。すると、今度は平岩のほうから質問が来た。
「……なあ、おかしくないか」
「……何がだ」
言葉の主語がわからず、私は聞き返した。
おかしなことは、いくらでもある。すべてが狂っていると言ってもいい。今の言葉だけでは、彼が何を話題にしているのかがわからない。
「お前も、気付いてるんだろ。外のことだ。えっと、具体的に言うと、太陽、って言えばいいか」
「……ああ、それか」
なるほど。平岩も気付いたか。強盗のリーダーなんてやっていただけあって、少しは頭が働くようだ。もっとも、頭の良さと常識的な判断力は、それぞれ別の能力だが。
「今は午後七時のはずだろ? 普通だったら日が沈んで、辺りは暗くなってなくちゃおかしい。だが、なんだ。雲に隠れてはいるが、まだ太陽は出ているし、夕焼けすらない。夏でもないのに、これは、絶対におかしいだろ」
いつの間にか、彼の手は止まっていた。平岩は私の方をまっすぐ見つめながら、自分の考えを力説する。そしてそれに対する意見を、私に求めている。
「稲塚。お前は、このことをどう思うんだ」
「……さあな。確かに何かが狂っているが、おかしいのは時計のほうかもしれない」
「え?」
「時計が狂っていて、私達の体内時計も狂っている。けれどそれに気付かない。あり得ない話じゃないだろう。あの穴に吸い込まれた時、確実に何かが狂った。……そもそも、吸い込まれたという表現が正しいのかすらわからない。ここは本当に、私達が元いた町なのか。それもわからない」
意識を失う前に見た、あの空に開いた巨大な穴。それが幻だったという可能性もある。この場にいる全員が意識を失ってしまったため、すべてが曖昧になってしまった。何もかもが不確定なのだ。
「だが、お前だって見ただろ。お前らの学校はなかった。町が切り取られていた。俺達はこの町ごと、別のどこかに飛ばされたんじゃ……」
自信なさげな発言だが、平岩の表情は真剣そのものだった。
……町ごとどこかに飛ばされた、か。その可能性も、あるかもしれない。否定はしない。だが、肯定もできない。
「では、それはいったいどこだ。ここは一昔前に流行っていた、異世界だとでもいうのか」
「それは……」
目を細めて尋ねると、彼は一瞬たじろいた。しかし、平岩は窓の外に視線を移し、ゆっくりと頷いて言った。
「……俺は、そうかもしれないと、思っている。俺には、ここが地球かどうかすら、怪しいんだ」
「……そうか」
真面目な顔でそう語る平岩のことを、アニメの見過ぎだ、と笑うことはできない。それくらい非現実的なことに、私達は遭遇しているのだから。
その後も少し続けていたが、疲れてきたので適当なところで作業を切り上げる。下に戻ると、扉の向こうは、何やら騒がしかった。
「うっそ、そんな理由で強盗!? 馬鹿でしょ」
「しょ、しょうがねえだろ! 金がないと、生活もできねえんだし……」
「だからって犯罪は駄目だって。ねえ、りーちゃん?」
「そうですよ。犯罪は駄目です」
「それはその、耳が痛いお言葉で……」
「この意気地なし! くーちゃんを人殺し呼ばわりしたくせに!」
それは、扉の外まで大きな声が聞こえてくるほどの大声だっただった。主に萌々子の。
……妙に盛り上がっているな、あいつら。しかも、その話題が何とも言えない。すっかり元の調子を取り戻している。さっきまでのシリアスな雰囲気を返して欲しい。……まあ、その心が傷付いていることは、誰が見ても明らかだが。
溜息を吐きたい気分で扉を開けると、真っ先に気付いたのは詩澄だった。
「あ、久美ちゃん」
「……楽しそうだな」
「そう、だね。面白いよね……あはは」
視線を萌々子達に向けて、彼女は笑った。固い笑顔。彼女には、萌々子の必死の努力が伝わっていないようだ。
……無理もないが、これは危険だ。何とかしなくてはならない。
「おい、お前ら。馬鹿話はやめて一度集まれ。ルールを決めるぞ」
「あん、ルールだと?」
私からの提案というだけで気に入らないのだろう。春山が睨み付けてくる。
「さっきトイレの使い方を教えただろう。その続きだ。今は異常事態だ。普段通りとは違うことが多い。だから、そういったルールが必要だろう。……ああ、風紀とでもいえばわかるか」
私の言葉に、萌々子が過敏に反応した。
「うわ、くーちゃんから風紀なんて言葉聞くとは思わなかった」
「黙れ、萌々子。いいか、これは生き残るために必要なことだ。私に従えとは言わない。そっちから必要なルールを提案してくれ。一人一つ以上だ」
「えぇー、くーちゃんが風紀委員長になったぁ」
「うるさいぞ。お前も何か意見を出せ」
それから何度か話し合いを続けた結果、これだけのルールが決まった。
基本、建物の外には出ないこと。建物の中でも、トイレ以外は二人以上で行動すること。物資を使うときはみんなで相談すること。常に誰かが外の見張りをすること。女子に乱暴しないこと。仲間を殺さないこと。スマホを無駄に使わないこと。最後に、銃を片時も離さないこと。
念のため、これらのルールを紙に書いて机の上に置いておく。思ったよりまともな案が集まった。
話し合いの間、春山には終始睨まれていたが、異を唱えることはなかった。
「次は風呂だ。さっきも言った通りここに風呂はないが、体は綺麗にしたいだろう」
その提案には、皆一も二もなく同意した。シャワーは無理でも、体を綺麗にするだけでストレスは多少軽減できる。
先ほど決めた通り、二人、あるいは三人一緒になって体を洗うことにする。場所は四階の小会議室。まずは私と詩澄が一緒になって部屋に入り、服を脱いで水を含ませたタオルで全身を拭った。
風呂もシャワーもないため、今できるのはこれだけだ。ただ、これだけできれば十分だと思っていたが、何もかもが想像通りにはいかないようで、この方法では頭を洗うことができなかった。想定外だった。数日に一度のペースでいいので、贅沢に水を使って頭を洗いたい。でもそれをしては、水を節約している意味がない。水の残りは、寿命と同じだ。
ついでに言うと、着替えもなかった。コンビニの商品を整理した結果、下着と靴下はあったが、一人一着分しかないことが判明した。だから、今日は体を綺麗にしても、服装は下着も含めてそのままだ。
「うぅ、体を洗っても、同じのを履かないといけないなんて……。やだ、臭いとか残っちゃうかも」
予想していた通り、下着を身に着ける詩澄の口から愚痴がこぼれる。私も、同じような感覚を味わっていた。
確かにこれは、あまり気持ちのいいものではない。自分が言い出したこととは言え、どうしても、嫌だという気持ちが先行してしまう。でも、これくらい。
「……すぐに慣れる」
「えぇ……」
束の間手を離していた銃を持ち上げ、私は呟いた。
……私は、生き残るためなら、何だってする。最悪の場合、服なんてなくても生きることはできるのだ。
私達の番が終わり、次は凛音と萌々子。最後に男三人が体を綺麗にする。五人は部屋から出てくると、皆同じように渋い顔をしていた。
「……なんか、気持ちわりい」
「みんな同じだよ。諦めよう」
自分の服を見下ろして嫌な顔をする春山を、一緒に出てきた泉が諭した。
そして最後に、睡眠について話し合った。
さっきも平岩と話し合ったが、相変わらず外は明るいままだ。だが、時刻は既に午後十時を回っている。
太陽が沈まないという現象には、もうとっくに誰もが気付いていた。欠伸を漏らす者も出てきている。だが、外が暗くなければ中々眠ることはできない。
一応、暗くなるまで待つという手もある。けれど、それは危険だと泉が言った。
「どういう意味だよ、庄司」
平岩が説明を求める。泉は、カーテンで仕切られた窓を指さして説明した。
「太陽の位置だよ。さっきから気にして見てるけど、ずっと変わってないんだ」
……なるほど、位置関係か。いい発想だ。
「それって……もうずっと、このまま夜にはならない、ってことか?」
「嘘でしょ。何かの間違いだよ、そんなの」
と、春山と詩澄。非難された泉はそれも理解できると頷いて、言葉を続ける。
「確かに、間違ってるかもしれない。でも、絶対にないとはいえないよ。このまま一日中太陽が沈まなくて、もしかしたら、もうずっとこのままなのかもしれない」
泉の言葉に、平岩が何かを思いついたように口を開いた。
「『白夜』ってやつか? 一日中太陽が沈まないらしいが」
「びゃく……? なにそれ」
初めて聞いたような表情で、詩澄が尋ねる。……一応、理科の教科書に載っている単語なのだが。
首を傾げる詩澄のために、私から軽く説明する。
「一日中太陽が沈まない現象だ。南極、北極付近で起こる。ここ日本で起こるわけないと思うが……今は、何もかもがおかしいからな。確実なことは言えない」
「そうなんだ……」
知らないことを知り、へえーと声を漏らす詩澄。本当に理解したのかは怪しいが、まあ大丈夫だろう。他の連流も、多少なりとも納得したような顔だ。そんな空気の中で、気分を高揚させたままの萌々子が言う。
「出た。くーちゃんのIQ高そうな発言」
……そっちこそ、頭の悪そうな発言だな。
「馬鹿がばれるぞ、萌々子。とにかく今のところは、太陽が沈まない方向で考えたほうがよさそうだ」
すべては憶測だ。これ以上議論を続けても、どうせ何もわからない。皆が白夜のことをなんとなく理解したところで、この話題を終わらようとする。
「納得はしましたけど……でも、信じられません」
いまひとつ腑に落ちない顔で、凛音が口を開いた。
「……明日になっても太陽が動いていなければ、そういうことになる」
そういう理由で、明るさを当てにするのは駄目だ。しかし、このままずっと目を覚ましたままというのもできない。何よりみんな、精神的にも体力的にも疲弊している。一度眠って気分をリセットするべきだ。
「とにかく、今は寝るぞ。お前らも疲れてるだろ」
「まあ、うん」
「で、でも、もし寝ている間にバリケードが破られたら……」
震える声で、泉が言った。急ごしらえのバリケードが不安だったのか、彼は何度も下を見に行っていた。気持ちはわかるが、少々やりすぎだ。
こういった不安は緊張を呼び、緊張が不眠を引き起こす。私はそのことをよくわかっている。彼は、無理にでも寝かせないといけない。
「……なら、誰かが寝ずに見張るしかない。一日目は私がやろう」
「じゃあ俺も起きる」
意外なことに、そう言い出したのは、私を目の敵にしていた春山だった。
「おい、隆。お前、何を考えて……」
驚いた平岩が、春山の正気を疑う。
「こいつが変なことしないように、俺が見張っている。そのほうが、俺は安心できる」
要するに自分のためという訳だ。だが、悪い話じゃない。見張りが一人だけでは、他の奴も少々不安が残るだろう。
「……いいだろう」
「えー、オールならあたしもよくやってるのに……」
萌々子が言った。単に私と一緒に起きていたいだけ、というような軽い口調だった。
「なら、明日はお前がやれ。とりかえず今日は寝ろ」
「わかったー。あ、そう言えば、エナドリって持ってきてたっけ? あれがないとオールは無理」
「上にある。……今は飲むなよ」
「はいはい、わかってるって」
その後の話し合いの結果、寝る時は四階を使うことにした。着替えに使った小会議室を高校生三人が、品物で溢れたオフィスを男二人が使う。見張りの私と春山は三階で待機し、時々二階と四階の様子を見に行く。そうして安全を確かめ、寝ている連中が安心して眠りに集中できるようにする。もし万が一のことがあった場合は、銃でもなんでも使って起こすつもりだ。
「いいかお前ら。一度横になったら、トイレ以外で体を起こすな。これは絶対だ。いいから寝ろ。早く寝ろ。眠れなくても眠れ」
「ちょっとくーちゃん、無理言い過ぎだって」
「お前は特に寝ろ、萌々子。一度目を閉じたらもう目を開けるな。スマホを触るな」
「わ、わかった、わかったから。もう、くーちゃんは心配性なんだから」
「いいから、もう寝ようよ、萌々子ちゃん。私が抱き枕になってあげるから」
「……はーい」
ひと悶着しつつ、五人が部屋に籠るのを見届ける。
そうして私と春山は、夜とも何とも言えない明るい時間を二人で過ごすことになった。
緊張続きだったが、肉体の疲労には勝てないようで、上の連中が動いている気配はすぐに消える。上の六人が起きてくるまでの時間は暇だ。色々なことを考えた。その中でも、役に立ちそうなことはメモに残しておく。おかげで明日の行動方針は大体決まった。後は、仲間の同意を得るだけだ。
けれど私は、一つだけ。いつまでこの生活を続けなければならないのかという最大の疑問だけは、できるだけ考えないようにしていた。