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第四話 生存者

「くそっ! いったい、何がどうなってやがる……」


 荒れた感情を堪え切れなかった男の一人が、力任せに壁を殴る。怒りと落胆、そしてそれ以上の困惑が籠った男の拳に、鉄筋コンクリートの壁はビクともしない。彼は拳の痛みにチッと舌打ちして、そのまま壁に手を付いた。


「本当に、どうなってんだよ……」


 頭を垂れる彼の足元には、同じように顔を伏せている二人の男。その正面には、地面に座り込んでスマホを弄る萌々子と、そんな彼女を注意する気力もない凛音と、先ほどの大声に肩を震わせる詩澄。

 誰も彼も、すっかり気力を失っている。その理由は明白だ。皆、つい数分前に見た衝撃的な光景が、頭から離れないのだ。

 終わりの見えない荒野。ただ平らなだけの土地。勾配もなく、自然もない。人間の姿もない。あるのは茶色の地面と、空気だけ――。普段の町も、頼みの綱だった学校も、すべてが消えていた世界。

 あの信じられない光景を目の当たりにした私達は、ひとまずその場を後にして、再び狭い隙間に身を隠していた。


「おい、お前。……久美、とかいったか。なんでお前は、そんな冷静でいられんだよ」

「や、やめろよ、こんな時に……」

「うるさい! てめぇは黙ってろ!」


 誰もが俯く中、一人だけ普通に立っている私のことが気に食わなかったのだろう。感情的になった男が詰め寄ってくる。


「……お前こそ、黙っていろ」


 そんな男のことを睨み付けて、私は静かに言い放った。

 ……叫びたいのは、こっちも同じだ。


「くそ、くそ。どうして、こんなことになってんだよ……っ!」


 募る不満のはけ口を探して、男はもう一度叫ぶ。しかしその声は、最初と比べるとかなり小さくなっていた。

 そんな中、それまで何もせずボーっとしていた詩澄が、そっと呟く。


「ねぇ……久美、ちゃん」

「……なんだ」


 彼女の潤んだ瞳が、すがるように私を見上げる。その声は、今にも泣き出しそうなくらい弱く、小さく、そして震えていた。


「私達、これから……どうすれば、いいの……?」


 その言葉は、この場にいる者達の心を代弁していた。全員がこちらに注目し、私がその質問に答えるのを待っている。

 ……何をすればいいのか、なんて、そんなこと。


「……決まっている。生き残れ。それが最優先だ」


 私が言い放つと、六人の表情が少し変わった。数人が顔を上げ、私を見る。


「でも、でも。そんなこと、どうすれば……」

「……まずは行動しろ。落ち込んでいる暇なんてない」


 私達の帰れる学校はない。家である寮もない。通信は繋がらず、周囲には狂った町の人が蠢いている。この場にいるのは女子高生四人と、信頼できるかもわからない犯罪者が三人。考えるまでもなく、状況は最悪だ。

 でも、今を生き抜かなければ、私達の人生はここで終わってしまう。それはみんな、嫌なはずだ。

 全員の顔を見回す。まだ混乱や恐怖を抱えてはいるが、その表情は、さっきよりもましになっていた。


「……行くぞ」


 戸惑いつつもそれぞれが頷くのを確かめて、私は銃を抱え直す。

 ……行動開始だ。ここからの数時間で、この先数日間の未来が決まる。


 周囲を警戒しながら入り組んだ路地を抜け、先ほどの道とは反対方向の、凛音達が見回りをしていた区画に出る。そして、普段では考えられないくらい時間をかけて、雑居ビルや民家の群れの中を進んでいく。

 しばらくして、視界の先に、明かりの消えたコンビニエンスストアの看板が見えてきた。

 ……よし、ここは無事だったようだな。


「あれ、ここ、って……コンビニ? どうして?」


 背後から詩澄が尋ねる。


「……生き残るのに必要なほとんどが、ここで揃う」

「そ、そうなんだ……」


 会話を終わらせ、まずは外から偵察。店の中に、人の気配は感じられない。元々コンビニと言えば無人なので特に驚くようなことでもないのだが、こんなことになった今では、不気味にしか感じられなかった。

 恐ろしいくらいの静けさだ。窓ガラスは粉々に砕け、駐車場や店内に散乱している。商品棚のいくつかが倒れており、明かりは付いていない。まるで地震直後のような有様だ。……実際、ここでは地震よりも恐ろしいことが起こっている。


「……突入する。カバー」

「りょ、了解」


 後ろの六人に指示を出し、私は銃を構えながら、店の中に足を踏み入れた。

 開かない自動ドアをくぐり抜けると、靴の下で砕けたガラスがジャリジャリと鳴る。電気が来ていないのだろう。入店音も鳴らない。それを気にせず、右、左と棚の間を素早く確認。死角に奴らがいないことを確かめる。

 ……敵影、なし。


「……クリア」

「こっちも、クリア」


 仲間と安全を確認し合う。後は会計のカウンターと、トイレと、スタッフオンリーのバックヤードだ。


「……詩澄、萌々子。裏とトイレを見て来い」

「わ、わかった」

「うん……」

「……三人は外を見張っていてくれ。奴らが来るかもしれない」

「あ、ああ」

「……凛音は、私と一緒に」

「わかりました」


 それぞれに指示を出してから、私はレジカウンターに近付いた。

 カウンターの上にあるのは、バーコードリーダとレジの機械ではなく、大きな自動会計機械だ。全国のコンビニエンスストアは、もうとっくの昔に無人化されている。客にいらっしゃいませを言ったり、商品をレジに通したりする人間はいない。しかし、それでもまったく人間が関わらないわけにはいかないらしく、時折コンビニに立ち寄ると、会計機械をメンテナンスしている様子を見かけることがあった。そのための作業スペースが、この機会の裏にあるはずだった。

 邪魔になるライフルから拳銃に持ち替え、作業スペースの出入り口に近付いていく。物音はないが、警戒心を強める。万が一、があってはならない。

 音を立てずに入り口を開け、身を乗り出して覗き込む。するとそこには、一人膝を抱えている、作業服の男がいた。


「……っ、動くな」

「ひっ……!」


 反射的に、銃を向けて警告する。それと同時にセイフティを解除。こいつがもし町の連中と同じだったら、この警告は無駄かもしれないと思ったから。

 だがその予想に反して、男は喉を詰まらせたような音を鳴らし、体をビクッと震わせた。そして、突然現れた私と突き付けられた銃口を見て、固まる。

 そのまま、数秒。


「……班長?」


 背後から聞こえる訝しげな凛音の声。それを無視して、目の前で固まる男に尋ねる。


「……お前」

「なっ……なんだ」

「……正気、なのか」


 少しの時間を置いて、男はハッとした。


「な、も、もちろん、そうだ。まさか、君……?」


 その返答を聞いて確信する。こいつは、正常・・だ。あの住民達のように、ゾンビのようにはなっていない。


「……ああ」


 警戒を解き、銃を下げる。一つ、安心した。私達の他にも、生存者がいたのだ。

 私が手を差し出すと、彼は手を取って立ち上がった。その手は少し震えていたが、私の存在に安心したのか、どこかホッとしたような表情をしていた。


「あ、ありがとう」

「……いい。お互い様だ」


 男を引き連れてカウンターを出る。ちょうどその時、裏を見に行かせていた詩澄達が戻ってくる。


「大丈夫だったよ、久美ちゃん。誰もいなかった」

「ダンボールにお菓子がいっぱいだった。夢みたい」

「ちょっと、こんな時に何を見ているんですか。萌々子さんは」


 子供のようなことを言う萌々子に凛音のツッコミが入り、場が少し和む。そこにまた、外を見に行かせていた強盗の一人が警戒強く顔を出す。


「おい。お前、さっき何か言ってたが、何かあったのか」


 その声に先ほどまでの怯えはなく、むしろ凄むような気迫がある。非現実を目の当たりにしてから時間も経って、少しずつ調子を取り戻しているようだ。


「……生き残りがいた。異常がなければ、他の奴も連れてきてくれ。ひとまず、話し合おう」


 全員揃ったところで、私達は店の奥、外からは棚の陰になって見えない場所に、円になって座り込んだ。建物の中であれば、外よりは安心できる。


「……色々言いたいことがあるだろうが、まずは情報が欲しい。とりあえず、名前を教えてくれ。それと話す気があるのなら、今に至る経緯も」


 最初に自分が名乗り、城釧高校の二年生だという身分を明かす。そして、学校の歩哨訓練中に、この事態に巻き込まれたことも話した。次に詩澄、萌々子、凛音の順番で名前を教えて、覆面の強盗三人組にバトンを渡す。

 これまで三人を仕切っていた男が最初に口を開いた。


「俺は……」

「……覆面。そろそろ取ったらどうだ」

「……ああ、そうだったな」


 私が口を出すと、彼は少しムッとしたが、素直に覆面を取り去った。それを見て、他の二人も顔を晒す。

 現れたのは、角ばった顔つきの男だった。安い床屋で切ったような短い髪に、数日剃っていないことがわかる無精髭。髪型が潰れているのは仕方ないとして、少々だらしのない印象を受ける大人だ。


「ええと、俺は平岩ひらいわ剛典たかのり。……見ての通り、犯罪者だよ」


 自分の行いを告白した平岩の言葉に、機械の裏にいた男が唾を飲み込む。


「は、犯罪って……いったい、何を?」

「強盗だよ。……まあ、普通はそういう反応するよな。会社で失敗して、どうしても金が必要だった。だが……はっ、こいつらにやられてこのザマだ。首を切られて生活に困って、やけになって強盗して、こんな子供に負けて、何かデカイ穴に吸い込まれて……あーあ。散々だな、俺の人生」


 そう言って、彼は被っていた覆面を目の前に投げた。その瞳に浮かぶ感情は、自責か、諦観か。どちらともとれるはっきりしない表情をした平岩は、その顔のまま次の人物に手で促す。


「……ほら」

「あ、うん。わかった」


 頷いたのは、肌の白い細身の男。この三人の中で、一番怯えていた男だ。そして同時に、一番分別のありそうな男にも見える。


「僕は、いずみ庄司しょうじ。最近まで小さな個人病院で働いていたんだけど、その……色々あって、辞めざるを得なくなった。僕も生活するためのお金がなくて、剛典と一緒に……」


 話してみると人懐っこそうな男だったが、その口振りは、心から自分の行いを悔いているようだった。医者だったというのが本当なら、頭は良いのだろう。だが……後悔するくらいなら、あんなことをしなければよかったのに。心の中でそう思ったが口には出さず、次の人物の言葉を待つ。


「……次は、俺か。春山はるやまりゅう。俺は、こいつらみたいに真っ当な道を進んだ奴らとは違って、道を踏み外した人間だ」


 この場で一番大柄な彼の自己紹介は、それだけだった。込み入った事情があるのだろうか。あまり自分のことを詳しく話したくないらしい。それならこちらも踏み込む気はない。


「……そうか。では次、頼む」


 最後は、私が先ほど見つけた男。彼は、ふぅ、とひと息吐いた後、話し始めた。


高橋たかはし一樹いつき。ただの作業員だよ。コンビニ機械の修理とか整備とか、そういう仕事をしてる。今日はあれの、定期メンテナンスの日だったんだ」


 そう言って、会計機械を指差す高橋。なるほど。彼は数少ない、コンビニで客にいらっしゃいませを言う人間だったのだな。

 昼も過ぎて、人の少ない時間帯に合わせて仕事をしていた時、あの現象に巻き込まれてしまったそうだ。その時のことを、彼は詳しく話してくれた。


「直前までまったく気付かなかったんだ。お客さんが窓の外を見て、何事か騒いでいた。そのすぐ後に天井がなくなって、そのまま店舗ごと飲み込まれた。その後目が覚めると……お客さんの様子が、おかしくなっていた。声をかけても反応しなくて、その後、急に暴れ出したんだ。ゾンビって言えば、わかるかな。棚もガラスもその時に壊された。僕は怖くて、機械の裏に逃げ込んだ。しばらくしたら静かになったけど、外に出られなくて……君が見つけてくれるまで、ずっと、震えてたんだ」


 そして、高橋は軽く俯いた。その震えは、まだ治っていないようだ。気を抜くとまた膝を三角に立てそうになる彼を、臆病だと罵る気はない。あれだけの非常事態に見舞われて、怖がるなと言うほうが無理なのだから。


「……そうか」


 全員の名前がわかったところで、自己紹介を切り上げる。

 そこで高橋が遠慮がちに手を挙げた。


「えっと……稲塚、さん、だっけ。一つ気になることがあるんだけど、聞いてもいいかな」

「……なんだ」

「君達は、どうしてここに来たの? 安全な場所に避難しようとは考えなかったの? その、君達の通う高校が、一番……」


 ――安全なはずではないのか。

 彼がそう言いたいのは、誰もがわかっていた。だが、私達がまっすぐ学校へ行かなかった理由を話すと、彼は目を見開いて驚愕し、そして項垂れた。


「あ、はは……嘘、でしょ。そんな、町が消えてるなんて……」


 乾いた笑いを漏らしながら、高橋は私達の顔を見回す。だが、これが現実だ。私達の誰も、彼の望む反応をすることはできなかった。


「……私達が学校に行かなかった理由は、そんなところだ。それより、今後のことを話そう」


 高橋はまだ納得できないようだが、無理にでも話を本筋に戻す。ここに来てから、もうかなり時間が経っている。外では奴らが徘徊していることを考えると、そろそろ行動に移らなければならない。


「……私達がここに来たのは、生き残るために必要な物を得るためだ」

「あ、それさっきも言ってたね。それってもしかして、ここにある食べ物とか、水のこと?」


 私の言葉に頷きながら、詩澄が店の中を見回す。当たり前のことだが、コンビニには弁当やおにぎりなどの大量の食べ物と、ペットボトルや紙パックなどの大量の飲料がある。店には悪いが、すべて持っていかせてもらう。


「そうだ。食料と水、それとその他の生活用品」


 話しながら、こちらに注目した七人に指折り数えて見せる。三つ目の指を折ったところで、萌々子が感心したように呟いた。


「あ、そっか。コンビニには電池とかバッテリーとか、色々置いてあるもんね」

「……そういうことだ。後は、奴らから身を守ることのできる安全な場所が必要だが……流石に、ここをそのまま拠点としては使えない」


 生存に必要な物資が揃っていることはいいのだが、壁の一面はガラスで、しかも割れている。バックヤードに籠るにしても、合計八人では狭すぎる。後、一階しかないという条件も最悪だ。最低でも二階以上のフロアがないと、もしものときに対処できない。

 そこまで口に出さなくても、頭の良さそうな泉は、納得した様子で頷いていた。


「確かにここは、全然安全じゃないね。この有様じゃ、いつまた襲われるかわからない」


 泉の言葉を受けて、平岩が尋ねてくる。


「なる、ほど。それで、その安全な場所ってのは、どこがいいんだ? まさかもう目星があるとか……」

「……ああ。場所に関しては、さっき通り過ぎた雑居ビルが適切だと思う。三階以上の高さがあり、周囲には他に高い建築物がない。辺りを警戒するにはうってつけの場所だ」

「お、おう。そうか……」


 道中行っていた私の分析結果に、彼は少し引いていた。


「凄いです、班長。そんな所まで見ていたなんて。私、全然そんなこと考えていなくて……」


 そんな平岩とは対照的に、凛音が申し訳なさそうに言った。だが、そんなことで仲間を非難するつもりはない。自分が過剰なまでに警戒していることは、ちゃんと自覚している。

 それぞれの反応を確かめた私は、少し間を置いてから、ビルの安全を確保するための計画を伝えた。


「……まず、全員で建物の中を探索する。安全な場所を確保するまでは、分散行動はできる限り避けるべきだ。建物に生存者がいれば救助。奴らがいれば始末する。完全な安全を確保した後、ここの物資を向こうに移す」


 今後の計画をつらつらと述べ立てる私に、それまでじっと静かにしていた春山が、目を細めて呟いた。


「……なんか、やけに慣れてるな、お前」


 不審そうな言葉に、周りの目が集まる。私はそんな彼のことをまっすぐ見つめて、


「……前にも、こういう状況に遭ったことがある」


 それを聞いて、七人は目を見開いた。同じ班の三人ですら声を上げ、驚きを隠せていない。

 ……ああ、それが当然の反応だ。その話は、これまで一度もしたことがなかったのだから。だが、今はこれ以上話をする気にはなれない。気にせず話を続ける。


「……安全確保までの道のりはそんな感じだ。ベタな台詞かもしれないが、全員で協力する必要がある。協力、してくれるか」


 こいつらがいてもいなくてもどちらでもいいが、人数は多いほうがいい。力仕事や怪我の応急処置などで役に立ちそうな、強盗組の顔を見回す。


「んまあ、こんな状況じゃあ、断れんだろ。何だかんだ言って、犯罪を見逃してもらってるし」

「こっちも助けられたわけだし、僕達も、命は大事だし……」

「チッ……仕方ねぇ」


 渋々、といった感じではあったが、三人組の同意を得ることができた。続けて班の仲間が頷くのを確認。残る一人に目を向ける。


「ぼ、僕は、どうすればいい? 君達みたいに、銃も持ってないし……」


 注目を浴びた高橋は、そう言って両手を広げて見せた。


「……ライセンスは」

「け、拳銃だけ。大学で、親に取らされたものだけど」

「そうか」


 それを聞いて、私は少し驚いた。日本で銃のライセンスが取得可能になって、早三年。その期間のうちにこの資格を取得していることは、私達のような特別免除生徒や、特別国家公務員などを除くと、とても珍しいことだった。

 本人は拳銃だけと卑下していたが、この状況では十分過ぎる。彼の運の良さを称賛しつつ、私は自分のハンドガンとそのマガジンを差し出した。


「……これを使え」

「え、でも、これは君の……」

「いい。最悪ナイフ一本さえあれば、生き残ることはできる」


 それはさすがに少し誇張した言葉だったが、おかげで彼は素直に受け取ってくれた。

 緊張した面持ちで、私の拳銃をポケットにしまう高橋。そのぎこちなくも基本を押さえた動作から、彼が銃の扱いを心得ていることがわかる。ライセンスを取得した時の感覚さえ取り戻せば、十分頼りになりそうだ。


「……よし。ではビルに突入する。だがその前に、少し休憩しよう」


 本来なら今すぐ突入するべきだが、皆は少し疲れているようだった。時間は限られているが、休息も大事だ。コンビニの時計は午後三時を示し、ちょうど小腹の空く時間でもある。

 という訳で、私達は交代で周囲を警戒しつつ、糖分や炭水化物を補給した。

 そう言うと事務的な作業に聞こえるが、単純におやつを食べているだけだ。コンビニにあった飲み物やスイーツなどを拝借して、十分ほど緊張を抜く。だが、ジュースやチョコレート菓子を頬張る皆の表情は、どこか落ち込んだままだった。その気持ちはわかる。化け物がうろつくこの町の中で、おちおち休んでもいられないのだろう。

 唯一萌々子だけは、お菓子が選び放題だ!などとはしゃいでいたが、それが空元気なのはどう見ても明らかだった。ストレスを感じているのは、皆同じだ。


「……そろそろいいか。じゃあ、行くぞ」


 休憩を終え、立ち上がる。これから全員で、落ち着いて気の抜ける場所を確保しに行くのだ。

 銃をいつでも撃てる状態にし、八人という大所帯で道路を渡る。もちろん、その間も警戒は怠らない。幸いなことに、車のいない道路に敵影はなく、私達は無事に道路を渡りきることができた。やはり、不思議なくらい静かだ。もしかしたら、奴らはまだ、私達を追ってあの路地を右往左往しているのかもしれない。

 ……だが、まだ気は抜けない。ここからが、本番だ。

 気を引き締めて、下からビルの様子を窺う。見上げた四階建てのシルエットは、人の気配がないからなのか、酷く不気味だった。


「……行くぞ」

「あ、ああ……」


 緊張した空気の中、ビル内部に侵入する。侵入と言っても、入るのは普通に玄関からだ。

 入り口には暗証番号式のセキュリティがかかっていたが、電源が入っていなかったので、扉は手動で開いた。電気が来ていないということは、蛍当然光灯も付いていない。窓から入ってくる日の光があるとはいえ、中は暗かった。ここで、コンビニから持ってきていた懐中電灯を取り出す。揺れる光が照らす中を、タイルを叩く靴の音が反響する。

 このビルは、一階が駐車場、二階が選挙事務所、三階と四階がそれぞれ小さな会社のオフィスという構造だった。エレベータはなく、中にある階段を使って上り下りする。外には非常階段もあり、これは脱出するときにはとても有利になる。

 駐車場に車は停まっていなかったので、私達は階段を登り、二階に上がった。そして全員が階段を登りきったところで、一旦足を止める。


「……止まれ」

「え? う、うん」


 近くに敵の気配がないことを確かめてから、振り返る。


「……ここで一度、四組に分かれようと思う」

「え、分かれるって……どうして?」

「別行動は危険なのでは……」


 驚いた様子で凛音が言う。彼女の疑問はもっともだ。確かに私は、分かれて行動するのは危険だという理由で、全員をここまで連れてきた。だがそれは、コンビニに留まる組と、ビルに突入する組で分かれるのはよくない、という意味だ。既にビル内に入っている今、固まって行動するというのは得策ではない。


「八人では少し人数が多い。狭い建物内では、こうしているほうがかえって危険だ」


 そういう訳で、私は勝手に八人を四つのグループに編成した。そして、それぞれのグループを各階に振り分けた。

 一階を凛音と春山。二階は詩澄と高橋。三階は萌々子と平岩。四階と屋上を私と泉。この四グループだ。一階の二人には出入り口を見張ってもらい、奴らが来ないか警戒する。他の三グループはビル内の哨戒、探索をする。


「異論はあるか。……ないな。何か異常があったり、どうしたらいいかわからなくなったら、無線で連絡しろ。ビル内であれば多分、近接通信ローカルモードで繋がるはずだ」

「わ、わかった」

「うん」

「了解です。任せてください」


 詩澄、萌々子、凛音の三人が頷き、電子生徒手帳に手を伸ばす。私も無線の設定を切り替え、通信をチェック。班の仲間を別々にしたのはこのためだ。

 そこで、固く銃を握り締めた高橋が、怯えたように尋ねてきた。


「あの、稲塚、さん。あの、もし中にゾンビがいたら、僕達はどうすれば……」

「……そうだな。奴らがいれば、その場から離れて他のグループに合流しろ。生存者がいれば、安心させてやれ。後は臨機応変に。いいか。見るべきは、敵がいるかいないか、生存者がいるかいないか、この二つだ。それ以外はどうでもいい。まず自分の命を優先しろ。……任せたぞ」


 他のグループがそれぞれの持ち場に向かい、私は泉を引き連れて四階に上がった。階段は四階までで終わっていたが、普通では手の届かない高い位置に、さらに上へと続く梯子があった。

 外の看板によると、この階にあるのは知らない会社のオフィスのはずだ。だが、中から人の気配は感じられない。警戒しつつオフィスへつながるドアに手をかけた時、泉が恐る恐る声を上げた。


「ね、ねえ、稲塚さん」

「……なんだ」


 一度ドアノブから手を離し、振り返る。


「あ、あの化け物になった町の人って……本当に、殺せる、のかな」


 ……なるほど。確かにそれは、気になる問題だ。


「……完全に殺せなくても、手足をもげば動けなくなる」


 あの時、奴らは首や頭に致命傷を与えても動き続けた。しかし見たところ、与えた傷が再生するようなことはなかった。ならば、脚、腕、頭と、胴体に繋がるすべてを奪ってしまえばいい。それで奴らは身動きができなくなるはずだ。今のところ、考えられる有効手段はそれくらいしかない。

 その考えを彼に話すと、泉は気分が悪くなったように表情を歪めた。


「う……中々に、エグいこと、するんだね。……稲塚さんは、怖くないの? その、女の子なのに」

「……別に」


 ……そういうものには、慣れている。

 あまり時間がないので短く答え、この話を切り上げる。


「……行くぞ。構えろ」

「わ、わかった」

「扉に銃を向けておけ。扉を開けて、私が銃を構えるまでな。……私には向けるなよ」

「う、うん」


 屋内行動の基本を教えながら、私はノブを捻り、勢いよくドアを開いた。そして素早く銃を構え、内部の様子を探る。中にはまだ入らない。

 一秒、二秒。息を潜めて気配を探る。音はしない。動く者の姿もない。中はもぬけの殻……である可能性が高い。


「……行くぞ」

「うん……」


 泉と背中合わせになって、部屋の中に入る。入り口の先は、すぐオフィスに繋がっていた。

 電気は付いていないが、使われている壁紙の色合いが明るく、窓から入ってくる光だけでも十分明るかった。中央には大きめのテーブルがあり、その上には個人用のパソコンが何台か。当然電源は付いていない。飲みかけのペットボトルが置かれていたり椅子に上着が掛かっていたりと、人がいた形跡はあるが、肝心の人間の姿はどこにもなかった。


「……敵影なし。クリア」

「よし。だ、大丈夫……なんだよね?」

「……いや、まだだ」


 出入り口の他に、調べていない扉が二つある。確認すると、一つはトイレに繋がっていた。もう一つは、机と椅子しかない小さな部屋。恐らく、来客の時や会議に使われる場所なのだろう。小さなオフィスにもこういう部屋があるのだなと、一つ知らなかったことを知る。

 それから、机の下などの小さな隙間も確認して、安全を確認する。


「クリア。……よし、警戒を解いてもいいぞ」

「うん。ふぅ……」


 私の言葉に、泉は銃を下ろして深く息を吐いた。私も少しだけ警戒を緩める。


「他の階は、大丈夫なのかな……」

「……連絡はない。恐らく大丈夫だ」


 窓の外を見て、他のグループの心配をする泉。気持ちはわかるが、今は信用するしかない。私も、仲間のことが心配だった。


「……そろそろ次に行くぞ。屋上だ」


 オフィスを出て、屋上へ繋がる梯子を見上げる。私も泉も背丈が足りず、何か足場になる物がなければ届かない。椅子を持ってこようかとも思ったが、それだけでは足りなさそうだ。

 ……仕方ないな。

 振り返って、後ろにいる泉を見る。


「……おい。肩車してくれ」

「え? ……え?」


 私の頼むと、彼は驚いて、そして戸惑った。言葉の意味がわからなかったのだろうか。


「……どうした」

「い、いや、その……」


 しどろもどろになりながら、恥ずかしそうに視線を逸らす泉。その視線がチラチラとスカートに向かっているのに気付いて、私は察した。

 ……ああ、なるほど。そういうことか。

 今、自分が制服姿で、スカートを履いていることを思い出す。男としては、娘でもない女子高生を肩車するとなると、流石に思うところがあるのだろうか。


「……気持ちはわかるが、頼む」


 私だって、こんなことでもなければこんな男に肩車を頼んだりしない。だが、今はそんなことを言っている場合ではないのだ。理解してほしい。

 しかし、私がそこまで言う必要もなく、泉は私を肩車して、梯子に登らせてくれた。


「……すまないな。私が戻るまで、下を警戒していてくれ」

「う、うん……」


 登り切る前に一度下を見ると、彼は必死にこちらを見ないようにしていた。そこまでしなくてもいいのに。

 音を立てないように天井の蓋を開き、顔を覗かせる。ここには普段から人が入らないからなのか、あまり綺麗ではなかった。当然というか、人間も含めて生き物はいない。流石に鳥の一羽くらいいるかと思ったのだが、その気配すらまったくなかった。

 そういえば、今日はあまり鳩や燕を見かけていない。まさかとは思うが、鳥達はこうなることを予期していたのだろうか。動物には不思議な行動が多いと言うが……。

 念のため上がって詳しく調べるが、目に付くものは特に何もない。少し遠くまで周囲を見渡せるくらいだ。あえてここまで登る必要はなかったように思える。

 あまり時間をかけるわけにもいかないので、ぐるりと一周見回してから、下に戻った。


「……異常はなかった。ありがとう」

「あ、ああ」


 私が梯子から飛び降りた時、泉はまだ、少し恥ずかしそうにしていた。医者のくせに初心な男だ。……いや、今はもう、医者ではないのだったな。


 仲間達と連絡を取ると、他の階も既に探索を終えていた。私達は一階で合流してから、コンビニから物資を移す算段を話した。


「まずは、生きる上で必要な物から優先して移動させる。水と食料だ。だが、弁当なんかの冷やしてある食べ物は、出来るだけ後に残しておく。保存の効く缶詰なんかを優先しろ」


 時間が限られているので丁寧とは言えないが、七人にコンクリートジャングルを生き抜く基本を教える。


「拠点はこのビルの三階に構える。だが、物資は四階に置こうと思う。重い物を運ぶとなると少しキツイが、これも安全のためだ。二番目に、重い物と生活必需品を運ぶ。荷物運びと警戒を交互に行いながら、確実に運んでくれ」


 私がそれぞれの目を見て頼むと、仲間達はしっかり頷いてくれた。

 それから一時間ほどかけて、私達はコンビニの商品を少しずつビルに移した。二リットルのペットボトルや乾電池式の充電器、缶詰に始まり、おにぎり、弁当、紙パックのジュースと、徐々に保存の効かない食料品や冷凍食品へと移っていく。商品を運ぶのには、大量にあった買い物カゴを使わせてもらった。これもいくつか頂いて、運んだ先で備品の整理に使わせてもらう。

 これらの商品を持ち出す時、私達は会計機械を通さず、お金も払っていない。当然、これは窃盗にあたる犯罪行為だ。しかし、これも生き抜くために必要な、仕方のないこと。このふざけた状況が終わったら、しっかり謝罪しなければならない。その責任は、きちんと取るつもりでいる。


「ふぅ……疲れたぁ」

「……そうだな。ひとまず、これで最後にしよう。残りはまた足りなくなってからでいい」

「了解。さ、もう少し頑張ろうぜ」


 最後の買い物カゴを前にして、詩澄が疲労を訴える。その言葉を聞いて、平岩がフォローを入れた。全員で協力していたおかげか、彼ら強盗三人組とも、いつの間にか仲良くなっていた。


「わかってるよ。さっさと運んじゃおう」


 銃を下げ、両手にカゴを持つ詩澄。その中身は、消費期限の近い弁当とデザート類だ。それからもう二つ、冷凍のピザやラーメンが入ったカゴを、萌々子が持つ。


「う、重い……は、早く行こ。腕が取れちゃう」

「そんな大袈裟な……まあいい。お前らも行くぞ。何してる」


 ショットガンを持った平岩は萌々子の愚痴を適当に流し、空っぽになった店の中で暇を持て余している春山と高橋に声をかけた。それを聞いた春山が軽く手を上げ、頷いて見せる。


「ああ。……どうした、高橋。腰でも痛めたか?」


 彼の視線の先には、腰に手を当てて体を捻る高橋の姿。


「いや、その……どうだろう。そう、かも。なんか、違和感があって……」


 商品を棚から出す時、中腰でいることが多かったせいだろうか。辛そうな顔をする高橋に、私は尋ねた。


「……無理はするな。酷いようなら、先にビルで休むか」

「大丈夫。そこまで支障にはならないよ。我慢できる」


 そう言って高橋は、私が貸した銃を構えて見せた。彼がそう言うのなら、恐らく大丈夫なのだろう。だが、心配だ。この後ビルに戻ったら、一度泉に診てもらったほうがいいだろう。元医者とはいえ、今はその知識が役に立つはず。それに、この状況で体の異常を放っておくのは良くない。

 そうして最後の荷物を運び出そうとしていると、外を警戒していた凜音と泉が、慌てて店内に入ってきた。


「は、班長!」

「ヤバイ、あいつらだ! あいつらが来た!」


 その言葉に、空気が緊迫する。

 あいつらとは、まさか。あのおかしくなった町の住人のことか。


「なんだと!? お、おい稲塚。ど……どうするんだ」


 二人の報告を聞いた平岩が、こちらに怯えた顔を向けてくる。他の連中も、私に指示を仰いでいた。まるで、そうするのが当然だとでもいうように。そして私も、その視線を当然のこととして受け止める。

 ここまで来て見つかるとは……もう少しで大抵のものは運び終わるというのに。今まで何の気配もなかったことを不審に思ってはいたが、まさかこのタイミングで現れるなんて。最悪だ。

 しかし、そんな感想は頭の片隅に置いて、手早く指示を出す。


「棚の裏に隠れろ。外から身を隠せ」


 まずは作戦を練らねばならない。その時間くらいはあるはずだ。

 命の危機が迫っているからか、七人の行動は素早かった。


「泉、奴らの数は。距離はどのくらいある」

「も、もうすぐそこだよ。気付いたらその辺の裏道とかからうじゃうじゃ来てて……」

「チッ……」


 棚から顔を出すまでもなく、奴らの発する呻き声が聞こえてきた。割れたガラスを踏むジャリジャリという音が、数人分。その数はどんどん増えている。

 隠れたとはいえ、既に泉と凛音の姿は見られているはずだ。静かにやり過ごすことはできない。


「……バレずに行くのは無理か。強行突破する」


 私の言葉に、誰かが唾を飲み込んだ。仲間達の間で緊張が伝播している。


「詩澄、萌々子。もうその荷物は置いていけ」

「う、うん」

「わかった」


 既に最低限必要な生命線は確保している。無理をする必要はない。二人は静かに荷物を置いて、ライフルを構えた。


「隊列を組め。凛音と泉、平岩が前。詩澄と春山は右を、萌々子と高橋が左を。私が殿だ」


 初弾装填。安全装置解除。仲間達もそれに倣う。


「撃つ時は足を狙え。奴らは死なない。ショットガンの制圧力で道を開けろ。作った道を素早く通るんだ。……行くぞ」


 覚悟を決めるように号令し、私達は動き出した。

 七人は私が指示した通りに陣形を組み、一歩踏み出す。これからビルに辿り着くまで、安全など存在しない。

 だが、足を出した直後、店を出ようとしていた泉の足が止まった。よく見ると、その体が震えている。怖いのだ。奴らの、理由のない殺意が。


「ぐ、うぅ……」

「恐怖に飲まれるな。怖ければ撃て!」


 動きの固まった弱気な医者を励ます。一度でも撃ってしまえば、後はどうにでもなる。それが、戦いというものだ。

 私の言葉に押されて、泉が引き金を引く。それを合図に、ゾンビ達の動きが活性化。こちらに襲い掛かってくる。それを迎え撃つ前方の三人。援護に回る側方の四人。殺される恐怖と殺す恐怖に押されて、それぞれが引き金を引く。そこからは、もう成り行きだった。誰も怪我など、まして死にたくなどないのだ。

 できる限り足を狙い、撃つ。太ももでは意味がない。膝の関節を破壊しなければ、奴らの動きは止められない。

 血の匂いが強くなる。理性が失われていく感覚。いつかも感じた、非現実感。全員が私の指示に従って、生き延びるためだけに行動していた。そう、これは私の指示。私の責任で、彼らは銃を撃っている。


「萌々子ちゃんお願い、カバーして!」

「了解!」

「た、弾が切れた。援護してくれ!」

「任せろ!」

「くそ、こいつ、この……っ」

「焦るな。この距離なら撃てば当たる」


 無関係だった八人の間に命を懸けた信頼関係が構築され、呼吸が徐々に合っていく。着実に、ビルまでじりじりと迫る。

 戦闘初心者だが、ショットガンの火力に任せて敵を圧倒する泉と平岩。それを援護する春山と凛音。マガジンを交換し、戦闘を続行する詩澄と萌々子。高橋が痛む腰を押さえながらも敵の下半身を狙って撃ち、転ばせている。考えなくても、撃てば当たる。それほどまでに、ゾンビが密集していた。

 足が使えなくなった人間は、途端に行動力が落ちる。それは、痛みの感じないゾンビになっても変わらない。奴らの動きは単純だ。距離を取り、動きを封じれば脅威にならない。そして、地べたを這うそういう奴らに、まだ歩ける奴が足を引っかける。

 このまま誰も怪我をすることなく、ビルに辿り着くことができる。全員の心に、そんな希望が見えていた。

 しかし、拠点のビル目前、というところで、それは起こった。


「いっ! ぐ……あ、あぁああ!!」


 遅れ気味だった高橋の足が、完全に止まる。振り向くと、彼は腰を押さえたまま、その場に蹲っていた。


「どうした高橋! おい!」


 仲間達をビル内に入れた平岩が怒鳴る。怪我をしたわけではなさそうだ。だが、何かがおかしい。高橋の体に違和感がある。それは、あの穴に吸い込まれ、目が覚めた直後にも感じた不安感と同じだった。


「高橋さんどうしたの! は、早く来てよ!」

「一樹! 頑張って!」


 平岩が周囲に群がるゾンビを撃ち、先に辿り着いた仲間達が、ビルの入り口からそれを援護する。その間に私は、未だ動けない高橋に駆け寄った。


「立てるか、高橋。行くぞ」


 問答無用で肩を貸し、運ぼうとする。だが、


「稲塚、さん……!」


 喉の奥から言葉を絞り出し、高橋は私を見上げた。その顔を見て、私は思わず、身を引いていた。

 彼の目は左側が白目を剥き、歪んだ口の端から、ダラダラと涎を垂らしていた。顔の左半分の筋肉が、まるで感電したかのように引きつっている。どう考えても正常ではない。


「お前……高橋」


 咄嗟に判断ができなかった。こんな状態の彼を、いったいどう扱ったらいいのか。そんな私の心境を察してか、彼の口が動く。


「稲塚、さん。僕、もう、駄目みたいだよ……」


 弱々しい声だった。自分の死期を悟ったような言葉に、ハッとする。

 ……まさか。


「ご、めん。わかるんだ。体が、言うこと、きかない。もうすぐにでも、君を、襲ってしまうかもしれない……」


 嫌な予感、信じたくない考えが頭を埋め尽くす。それを助長するかのように、高橋の腰が不自然に蠢く。まるで、そこに別の生物が入り込んだみたいに。人間の輪郭を歪めるように。

 ……その可能性を、まったく考えていなかったわけではない。ゾンビという言葉を使うからには、そういうことが起こるかもしれない、という考えは常にあった。でも、まさか。奴らの攻撃を受けたわけでもない高橋が……。

 苦痛に顔を歪ませ、膝を付く高橋。彼は未だ動けない私に、私が貸した拳銃を差し出して、言った。


「稲塚さん、お願いだ。僕を……僕を、殺してくれ……」

「……お前」


 平岩が、何してんだと怒鳴っている。背後で萌々子が、私と高橋のことを叫んでいる。でも、私は高橋を助けられない。助けてはならない。

 彼の体はおそらく、もう彼のものではない。彼は、私達の脅威になる。そう本能で感じている。そしておそらく、高橋自身もわかっているのだろう。自分はもう、助からないのだと。


「頼むよ……僕が、まだ人間のうちに……。ゾンビなんかになりたくない。僕は、人間として、死にたいんだ。……早くっ!」


 涙と血を流して、そう訴える高橋。もう猶予はなかった。

 表情を殺した私は、無言のままハンドガンを受け取り、高橋の眉間に照準を合わせる。フロントサイト越しに目が合う。高橋は、かすかに微笑んでいた。

 ――そして、


「な、何してる! 稲塚っ!」

「久美ちゃん、ダメ!!」


 銃声が一つ。無数の呻きと詩澄の叫びに紛れて、消えた。

 脳天に開いた穴から血を流し、後ろ向きに倒れる高橋樹の肉体。それを見届けた私はハンドガンをホルスターにしまい、ライフルを構えて、今まで援護していた仲間達に撤退を指示する。

 仲間の待つビルに逃げ込む直前、振り返った私は、命を失った高橋の体が、不気味な動きで立ち上がろうとするのを見た。


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