第二話 崩壊の青空
私立城釧高等学校。
日本では数少ない、銃器についての専門的な知識や技術を教えている学校だ。先述の通り、普通科の高校とは違い、多くの特殊な設備、施設を有している。補足として、司令部と倉庫の地下には広大な射撃訓練場があり、体育館の地下にも、かなり大掛かりな屋内訓練施設が広がっていた。これらの地下施設の様子は、私達が今いる司令部からも観察することができる。
校舎は山の上に建てられているため、屋上などの少し高い所からなら、山の麓に広がる町を一望できるだろう。高い建物の少ないこの町は、周りを山や畑に囲まれた閉鎖的環境だ。危険な銃器の使用環境としてはかなり適している。県庁所在地にもほど近く、バスや電車などで少し遠出すれば、高層ビル群のある先進都市にだって赴くことができる。だが、発展の進んだ首都からやって来た生徒にはどうも、随分な田舎に見えるらしい。実際田舎だが。
町の西側には学生寮があり、生徒は全員、そこで生活している。入学時に四人一組の班に割り振られ、班ごとに一つの部屋で暮らす。実習の授業などではこの班単位での行動となる場合が多く、班と寮の部屋割りは――留年など、何か特別な事情がない限り――三年間変わることはない。そのため、入学後は班員との良好な関係を築くことが、まず何よりも重要な課題となる。
校長先生曰く、この四人で行う共同生活も学校学習の一環、なのだそうだ。同じ屋根の下で、同じ釜の飯を食って、同じことを勉強する。寮での生活を通じて人との関わり方について学び、そして、将来必要となる炊事や洗濯などの家事技能も身に着けてもらいたい、とのこと。さらに、これはあちらの思惑なのかはわからないが、信頼できる友人と常日頃から接することは、生徒の精神的な安定にも貢献していた。
色々と厳しい規則が定められているこの高校では、精神的に追い詰められる生徒も少なくない。銃という危険な武器を扱うこの場において、心の安定は体調よりも重く見るべきものだった。
ではなぜそもそも、このような学校が存在するのか。
それは、世界各地で猛威を振るう、まったく新しい脅威に対しての防衛力を高めるためだった。
ことの発端は、今から九年半ほど前。ヨーロッパ西部の山間部。とある町で起こった事件が原因だった。町の半分が一瞬にして消え失せ、町の住人はたった一人を残して死亡、あるいは行方不明になったという、今日授業で習ったばかりのあの事件だ。
その町消失事件が起こってから、世界中で奇妙なことが起こり始めた。いや、正確には、現れ始めた、と言ったほうが良いだろう。
ある時は何の変哲もない町の路地に。ある時は国の方針を決める国会議事堂内部に。そしてまたある時は、年に一度のイベントで盛り上がる特設会場の、その真っ只中に。人間の生活圏内に限らず、山奥、海上、空中。開発が進む真空の宇宙空間。世界のあらゆる場所に、そいつらは現れた。
初めて遭遇した人はそれを、白いボールだと思った、と語っている。
頭部と思われる球体部分に、目や鼻らしき箇所は見当たらず、あるのは鋭い歯の並んだ口と、涎に濡れた真っ赤な舌だけ。球体の下部からは人間に似た四本の腕が伸び、先端にある手には指が六本。爪はネコ科動物のように鋭い。そんな異形の化け物が、人を襲い、喰らい、そして増殖し始めたのだ。世界は瞬く間に、そいつらへの対策に追われることとなった。
奴らの正体は、まったくもって不明だ。地球由来の生物なのか、はたまた別世界、外宇宙からの来訪者なのか、それとも、もっと別の何かなのか。最初の発見からかなりの年月が経った今でも仮説は尽きず、結論は出ていない。
世間では、その白い球の化け物のことを『マミラリア』と呼んでいる。インターネットを通じて広まったその呼称は、数年前に正式な呼称とされた。だが、その頃にはマミラリアによる被害は数百件を超え、防衛対策が急がれていた。
それは、ここ日本においても例外ではない。警察や自衛隊の規模を拡大し、連日のように現れる化け物達への対処に追われていた。しかし、奴らは何の前触れもなく唐突に現れるため、軍隊の増強だけでは間に合わないのが現実だった。そこで各国は、安全対策を軍だけに任せるのではなく、国民一人一人の意識を高め、自分で自分を、自分の身近な人を守ることができるよう、法律や制度を整えた。その結果の一つが、この学校だった。
戦闘について教え、戦闘のスペシャリストを育成し、将来的には、身に着けた知識と経験を世界防衛のために生かしてもらう。同盟国の軍事会社や、銃器メーカーなどの出資を得て作られた特別指定教育学校の、日本第三校。それがこの、城釧高校だ。
馬鹿みたいな話だ、と思うかもしれない。映画や小説、ゲームの中の出来事だろう、と。だが、これが現実だ。少なくとも私が知る限りの、二十一世紀後半現在の、現実だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「――今日の巡回ルートと担当場所は以上の通りよ。何か質問がある人は挙手しなさい」
実習についての説明をひと通り終え、デジタル指し棒を片付けた女教師の言葉に、手が一本挙がった。勇ましく自身に満ち溢れた顔立ちの、いかにも責任感がありそうな男子生徒の手だ。
「先生。一つ質問があります」
「何? 志水君」
ブロンド髪の専門科教師、マーラ先生が指名したのは、六班の班長、志水亮治だった。当てられた彼は手を下げ、真顔で言った。
「そろそろ先生の年齢を教えてくださいませんか」
単刀直入に、ブリーフィングとはまったく関係ないことを訊ねた志水。その言葉に、場の空気が一瞬にして凍り付いた。ニコニコと笑っていた先生の表情が固まり、顔にピキッとヒビが入ったような気さえする。これはまた、デリカシーのない発言だ。
ひくひく痙攣する頬を、辛うじて笑顔とわかる程度に歪めながら、先生はあくまで平静を保った声で、
「う、そ、そうねぇ……みんなと同じ、十七歳だぞっ」
「あ、そういうのいいんで。実年齢のほうをお願いしまーす」
既に三十は迎えているであろう体の隅々から、精一杯の可愛らしさを集めた渾身の言葉に、志水は冷たい態度で返した。
ああ……また、何ともコメントしづらいことをしてくれたな、こいつ。
唐突に起こった珍事に、堪え切れず噴き出した生徒が何人か。その中には、私の後ろに並んだ三人も含まれていた。緊迫していた場の空気が一瞬で緩む。
……はぁ、世の中は今も、大変なことになっているというのに、
「もう、レディに年齢を聞くなんてNGよ! エヌ、ジー! 今笑った人、絶対許さないから、覚えておきなさい。特にそこで爆笑してる三人! まったく、これだから最近の若い子は……」
こんな感じで、皆生き生きと過ごしていた。
「はぁ、他にちゃんとした質問はないの? ……ないわね。では、以上でブリーフィングを終了します。各自警戒を怠らず、気を引き締めて巡回するように。解散!」
一瞬にして真剣な表情に戻ったマーラ先生の号令と共に、生徒が一斉に動き出した。
今回のような歩哨実習では、クラスを二つに分けて行う。片方は、実際に町を歩き回る歩哨を担当。もう片方は、この司令室に残って、歩哨担当のアシスタント、即ち、オペレータとしてサポートを行うオペレート担当。役割は毎回ローテーションで入れ替わり、私達がオペレータとしてここに残ることもあった。
オペレート担当の生徒がそれぞれの席に座る中、歩哨担当の私達は、今来たばかりの階段を降り、建物を出た。天気は快晴。雲一つない青空が広がっていた。
「ふっ、あははっ。ねぇ、見た? あのマーラ先生の顔。こーんな感じに固まっちゃって」
晴れ渡った青空の下に出るや否や、萌々子が再び笑い出す。私にはわからないな。何がそんなに面白いのか。
「うんうん。面白かったー。いやー、あんなの見たのは久々だね。お、思い出しただけでも、ふふ……笑いが、と、止まらないよ。あはははっ」
詩澄も同意を示して笑う。凛音ですら、思い出し笑いを堪えられていない。
「……どうでもいいが、その辺にしておけ。マイクに拾われてたら終わりだぞ」
「おっと、そうじゃん。はーい。気を付ける」
言い出した萌々子から返ってきたのは、危機意識のまったくない言葉だった。まったく、こいつらときたら。周りから聞こえてくる話の内容からして、他の班も同じ話題で盛り上がっているようだが……はぁ。とりあえず、あの先生の大目玉を食らわないことを祈るとしよう。もしこのことが発覚したら、来週の授業が地獄の基礎体力訓練になる。……まあ、私は別に構わないのだが。
実習棟から道なりに校門を出て、まっすぐ町へ向かう。町までは十分もあれば到着できるが、その道のりはずっと坂。いくら通い慣れているとはいえ、この雑木林に囲まれた道を上り下りするのは少し大変だった。
「あ、ところで、さっきの話に戻るんだけど、今度の連休、パフェ食べに行くってことでいい?」
先を行く詩澄が、思い出したように振り返って問いを投げた。
「うん、大丈夫だよー。本当はずっと部屋にいたいんだけど、しーちゃんの頼みだし。一日くらいは別に」
「問題ないです。お金に余裕もありますから、多少の出費も大丈夫ですよ」
「……さっき言った通りだ」
「じゃあさ、その後一緒にお買い物とかどう? 私、ちょっと欲しい物があるんだよねー」
言いながら、詩澄はこちらにチラチラと視線を送ってくる。だが、私はあくまで気付かないふり。彼女が何を言いたいのかなど、とっくに察しがついている。
「いいですね。折角の休日にお茶をするだけ、というのも味気ないですし」
「こっちもおっけーだよ。で、どこ行きたいの?」
「いつものお洋服屋さんにね。そろそろ夏物が入ってるかなーって思って、ね」
そう言って、何かを楽しみにしているように――あるいはお願いするように――両手を合わせる詩澄。
……だから、いちいちこっちを見るな。
「ああ、なるほど。言われてみれば、確かにそんな時期ですね」
納得した顔で頷いた凛音に対して、萌々子はしきりに首を傾げていた。
「え、夏? ちょっと早くない? まだ春だよ? ていうか、寒いよ?」
「ううん、何言ってるの。服屋さんは、このくらいの時期から次の季節の服を仕入れてるんだよ。知らないの? 萌々子ちゃん、それでも女の子?」
女子力の低い萌々子に、詩澄のジト目が刺さる。
「う……酷いよー、そこまで言うなんて。それにしーちゃん、夏物ならいくつか持ってるでしょ? なんでまだ着れる服があるのに、新しいのを買いに行くのさ。もったいない」
「ああ、これだから萌々子ちゃんは……久美ちゃんも、黙ってないで何か言ってやってよ」
「……何をだ? 私は服なんかに興味ないんだが」
「ああ、しまった。班長は萌々子さん側の人間でした。これはこちらが劣勢ですね……」
そんな感じで、気楽にお喋りをしながら歩道を歩いていると、唐突に通信が入った。
『こちら司令室です。七班、応答してください』
「……こちら七班、稲塚。要件を」
ヘッドセットから聞こえてくる女生徒の声。なるほど、今日は彼女が私達の担当か。
『通信状況の確認と、一応こちらの挨拶を兼ねて。一班の藍沢美礼です。今回はよろしくお願いしますね、稲塚さん』
「……わざわざどうも」
「お、今日は真面目な学級委員さんだ。うわー、あたし絶対怒られる」
ぼそっと呟いた萌々子には、怒られるようなことをした覚えがあるのだろうか。別に追及するつもりはないが、トラブルの種にはしてほしくないものだ。
『あなたがおかしなことをしなければ怒りませんよ、弛観さん。それより、他の方々はどうですか? ちゃんと聞こえていますか?』
司令室から送られてくる質問に、詩澄と凛音がマイクに向かって答える。
「大丈夫だよ、美礼ちゃん」
「感度良好です」
『ありがとうございます。では、こちらからの要件は以上です。後はそちらに任せます』
我らがクラスの代表者、藍沢美礼との最初の通信はそこで終了した。彼女がオペレータを務めてくれるのなら、こちらとしてもありがたい。
藍沢を始めとするオペレート担当の仕事は、現場で動いている私達に上からの指示やアドバイスを与えること。そして、上層部――ここでは先生――にこちらの状況を正確に伝え、次の指示を仰ぐこと。要するに、先生との橋渡し的存在だ。受け渡すものは、主に情報。こちらの知り得た情報と、あちらの下した判断を、間違えることなく迅速に伝えなければならない。
その受け渡しを円滑に行うためには、オペレータ自身の会話技能はもちろんのこと、先生とオペレータ間、オペレータと現場間での信頼関係も重要になる。その点で、彼女は普段から真面目で優秀、教師や他生徒とも仲良く接しているため、十分信用に足る人物だった。
そうこうしているうちにも足は進み、気が付けば、辺りは近代的な町並みに変わっていた。周りを見ると、他の班も既に行動を始めている様子だ。……そろそろ、こちらも本格的に動かなければならないだろう。
横断歩道に差し掛かった所で一度止まり、ブリーフィングの内容をもう一度おさらいする。
「……確認だ。私達の担当区域は町の東側、ここからすぐのG地区とH地区。Gは私と詩澄で、Hは凛音と萌々子のペアで回る。何か異論は」
「ないよ、大丈夫」
詩澄が頷く。
「おっけーだよー」
萌々子が頷く。
「問題ありません」
凛音が頷く。これで無事、三人の同意が得られた。
「……よし。じゃあ、何かあったらすぐ司令室に連絡するように。有事の際は安全第一、自分の身を守ることを一番に考えろ。いいな」
言わずにはいられない決まり文句にも、三人は嫌な顔一つせず、真剣な表情でもう一度頷いてくれた。素直でいい奴らだ。こちらも頷き返し、司令部に連絡を入れる。
「……司令室、こちら七班、稲塚。これより二手に分かれ、哨戒行動を開始する。担当は、私と岸崎がG地区を、長洲と弛観がH地区だ。問題ないか」
『こちら司令室。問題ありません。報告ありがとうございます。それでは、町の見回り、お願いしますね』
「……ああ」
学校への報告を終えると、一度眼鏡を直した。……さて、
「……凛音、そっちは任せた」
「了解です、班長。さ、行きましょう、萌々子さん」
「はーい。頼りにしてるよ、副班長さん」
「……こっちも行くぞ、詩澄」
「あ、うん。じゃあ二人とも、また後でね」
二時間後にはまた会えるはずの二人に向かって、詩澄は小さく手を振った。……これからが、歩哨実習の本番だ。
今回のように、実際の町に出て行われる実習では、基本的に二人一組で行動することになっていた。これは、人手を分散させることでより広い範囲を警戒できる、という効率面での理由もあるが、もう一つ。武装した生徒が大人数で固まって、町の住人をむやみに怖がらせることがないように、という配慮でもあった。
銃を持つことが合法になって、既に三年。それだけの歳月が経過しても、日本では未だ自分用の銃器を持つ人が少なかった。それは、この国が今まで平和に過ごしてきたことによる弊害なのか、それとも、銃という殺人兵器に対する恐怖のほうが、異形の化け物に喰い殺される恐怖よりも勝っているのか。どちらにせよ、時代はとっくに変わっている。
人間を殺すために作られた武器のことを怖いと思うのは、ある意味当然だ。正しい反応だと言えるし、決して悪いことではない。だが、それでは自分の身を守ることなどできないのだ。銃を見るのが怖い、などという感情はいい加減に払拭して欲しい。それが、私個人としての意見だった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから、時間にしておよそ四十分。
私達が今いるこの区域は、学生御用達の文具店や飲食店、詩澄の大好きな洋服屋など、多くの店が集まる商店街となっていた。今は平日の昼なので人通りは少なく、老人の姿が多いが、学校の終わった夕方や週末、祝日になると、ここは大勢の高校生で溢れ返る。私も買い物好きの班員に付き合わされてよく来ることもあり、この辺りの地理に関してなら、ほとんど把握していた。
ちなみに、凜音達が巡回している区域はすぐ隣になる。そこは雑居ビルやアパートなどが立ち並ぶ、閑静な住宅街だ。入り組んだ路地などが多いため、すべてを回るにはそれなりに時間がかかる。あの二人には少々面倒な場所を押し付ける形になったが、問題なくやれているだろうか。凛音がいるから大丈夫だとは思うが……いや、それは気にし過ぎだな。二人の仕事を奪うことになる。
時折見かける顔見知りに挨拶を交わしながら、周辺に異常がないか色々と見て回っていると、詩澄から本日何度目かの重たい溜息が漏れた。
「はぁ……」
「……どうした、溜息なんか吐いて。お前らしくない」
思わず声を掛けると、彼女はどこか気まずそうに、明後日の方向へと視線を逸らした。
「いや、ねぇ。その、そろそろ、二年生になって最初のテストがあるわけじゃん?」
「……そうだな」
「だから最近、勉強とか、成績とか、そういう学生らしい悩みが、尽きないわけですよ、うん」
「……それで」
「それで、その、本当に言いにくいんだけど……もし、よかったら、私に勉強教えてください! 久美ちゃん!」
……なるほど、いつものことか。
「……わかった。どうせあいつらも同じこと言ってくるだろう。まとめて一緒に教えてやる」
「本当!? よかったぁ。ありがとう、久美ちゃん。私、これで次のテストは乗り越えられるよ!」
詩澄は少々大袈裟に、飛び上がって喜んだ。
それほどまでにテストの点数が重要なら、勉強くらい自分でやれ、と言いたいところだが、それでは彼女が泣きを見る。ちょうど一年前がそうだった。あんな悲惨な顔は、できれば二度と見たくない。いじけた彼女の相手をするのは、中々に骨が折れるのだ。
詩澄は自身の成績の悪さについて、いくら勉強しても内容がまったく頭に入らない、と言っていた。先生の言葉もノートに書いた板書も、少しすると忘れてしまう。それはもう、一時間目に習ったことを、直後の休み時間には忘れているくらい。彼女は勉強というものが大の苦手だった。でもなぜが、私が教えたことは長い間覚えていることができるらしい。特に先生と違うことは言っていないはずなのだが……なんとも不思議なことだ。
これは私の勝手な想像に過ぎないが、仲の良い友人に教えてもらうということが、彼女にとって一番相性の良い勉強方法なのだろう。それがわかってからというもの、彼女が勉強を教えて欲しいと頼んできたら、断らず付き合うことにした。こちらも勉強はしなければならないので、そのついでに仲間の面倒も見てやることくらい手間ですらない。しかし、
「……ちなみに聞くが、目標点数はいくつだ」
「三十五点! それだけ取れれば、赤点は大丈夫でしょ」
……こういう考え方を何とかすれば、もう少し成績が上がると思うんだがな。いつまでも他人をあてにしていると、成長するどころか、退化していくのではないだろうか。
「……低い。もっと上を目指せ」
「そう言われても、ねぇ? どうせ取れないし……」
「……そう考えているうちは、取れないだろうな」
「でしょ? だから、お願いね、久美ちゃん」
そう言って詩澄はニッコリ笑った。悪い気持ちなど微塵も感じられない、綺麗な笑顔だった。
……ああ、駄目だ。言葉の意味が伝わっていない。まったく、こっちが溜息を吐きたい気分だ……。
「……まあ、いい」
今はそれより、授業のほうが優先だ。
歩哨の実習はいつも通り順調に進み、特に何事も起こらないまま、凛音達と別れた交差点近くまで戻ってきていた。
「……司令室、こちら七班稲塚。G地区の見回りをひと通り終えた。今のところ異常はない。引き続き見回りを続ける」
『了解です、稲塚さん。ではお願いしま――』
藍沢の言葉が終わろうとした、その時だった。たった今通り過ぎてきたばかりの道の方から、パァン、という乾いた音が聞こえた。
反射的に振り返り、素早く身を低くする。左手を防弾チョッキのポケットに入れ、マガジンを取り出す。
「えっ、な、何今の?」
『……? どうしました、岸崎さん』
「……銃声だ。近い。ここから百、二百メートルほど東に行ったところだ。そちらで何か異常は」
『い、いえ、こちらでは、特に……気のせいでは?』
そう言っている間にも、一度、二度。間違いない。明らかに銃声だ。周りの人達も何事かと周囲を見回している。私はマガジンをライフルに装着した。
「……もう一度聞こえた。気のせいではない」
「じ、じゃあ、早く行かなくちゃ。何かあったのかもしれないし……」
「ああ。そっちも情報収集を頼む」
『わ、わかりました。……あっ、たった今、通報がありました。G地区、商店街中腹の宝石店に、強盗が押し入ったと!』
「了解。すぐ向かう」
突然起こった非常事態に動揺を隠せない藍沢だが、彼女はよくやってくれた。その宝石店なら走ればすぐだ。町の住人に避難を呼びかけながら、急いで銃声のした方へ向かう。
……それにしても、こんな真っ昼間に宝石強盗とは。この時代にも頭の悪い大人はいるのだな。
『あっと、監視カメラでも確認しました。強盗は三人組、覆面の男。それぞれが銃を持って、何度か発砲しています。それから……周囲にいた人は全員逃げて無事、のようです』
「了解した」
次々と入ってくる新しい情報を聞きながらコッキングレバーを引き、アサルトライフルに初弾を装填。
「え、く、久美ちゃん。まさか撃つつもりじゃ、ないよね?」
「……状況による」
「でも、相手はマミラリアじゃなくて、人なんだよ? いくら強盗相手でも、銃を使うのは……」
「相手が使っているんだ。こっちだって命を失う可能性がある。……怖いのなら、お前は何もしなくていい」
「そ、それは……」
ハンドガンにもマガジンを入れ、スライダーを引いた。
目的の場所が見えてきた所で、またしても通信が入った。聞こえてきたのは、切羽詰まったような藍沢の声。
「なんだ」
『ご、強盗が、店員を人質に取っています!』
「……何?」
宝石店まで数十メートルの位置。まだ少し遠いが、よく見ると、こちらからでもその様子が確認できた。
……チッ、また面倒な。
『ど、どうしましょう。このままじゃ、店員さんが……』
『ちょっと、変わりなさい』
唐突に先生の声が聞こえたかと思うと、ヘッドセットから流れる音声に、通信チャンネルが切り替わるかすかな雑音が混じった。
『非常事態につき、ここからは私が直接指揮をとります。稲塚さん、状況を詳しく教えて』
声だけでも伝わってくる緊張感。いつもより頼もしいマーラ先生の言葉に、背後の詩澄が息を飲む。
「……はい。強盗は三人。男。身長は百七十から百八十センチ前後。絵に描いたような黒ずくめに目出し帽。武装はショットガン二丁、ハンドガン一丁。他にも何か隠し持っているかもしれません」
ここから見える限り、強盗達の武装は近距離に特化している。こういう相手には狙撃が有効なのだが、生憎こちらは中距離戦用の装備。それに、あちらには人質がいる。迂闊に手を出すことはできない。やるなら、一撃で三人を撃ち抜くくらいのことはしなければならないだろう。
宝石店の外は、ガラスの破片で埋め尽くされているようだった。ショーウィンドウのガラスが、ショットガンで撃たれたのか完全に破壊され、細かい欠片がそこら中に散らばっている。最初の銃声はこれに違いない。また随分と派手にやってくれたようだ。
それらの情報をすべて伝えると、先生は、
『人質の様子は?』
「抵抗しているようだが、ハンドガンを持った強盗に押さえられている。他の二人は車に荷物を積み込んでいる」
店の前に止まっている、古めかしい白色のセダン。十中八九、強盗達はあれに乗って逃げるつもりだ。店に突っ込む形で道路を塞いでいるので、動かせなくなった車が何台か路上に放置されている。その影に隠れていけば、近付くことは容易だろう。
『車……』
強盗達は今も、店の物と思われる宝石や現金をトランクに詰め込んでいる。それも大量に。欲張りな奴らだ。だからこそ強盗なんかに手を出すのだろうが。
しばらくの間沈黙が続いた。私の伝えた情報と司令部に集まって来る情報とを整理しているのだろう。作戦立案には自信があると言っていたマーラ先生からの返答を、私と詩澄は静かに待った。
『……わかったわ。では、あなた達はその強盗達を足止めしてちょうだい』
……その指示を待っていた。
詩澄にハンドサインで身を低くするように指示する。彼女は、ライフルに弾丸を込めながら従った。
『現在、隣の区域の長洲さん達にも応援を要請しています。警察が来るまでの十分間、逃げられないように持ち堪えて。でも、可能であれば取り押さえてくれても構わないわ』
先生からの指示を聞きつつ、目測で進行ルートを探る。
『発砲を許可します。ただし、相手を殺害してはいけません。いくら強盗とは言え、相手は人間です。もし殺せば、あなたは刑務所行きよ。いいですね? こちらからの指示は以上です。後は任せたわよ、稲塚さん』
「了解」
先生の言葉に短く答えると、司令室との通信が切れた。後はこちらの仕事だ。
「それで、どうするの、久美ちゃん」
振り返ると、先ほどの迷いは吹っ切れたのか、詩澄は決意に満ちた瞳でこちらを見返してきた。
「……覚悟は決まったか」
「うん……私、やる。そのためにこの学校に来たんだから」
先ほどよりも表情に余裕が見える。今の彼女なら、人間相手でも問題なく戦えるはずだろう。
こういう時に一番力になるのは、経験豊富な先生の指揮でも、百発百中の化け物じみた実力でもない。信頼できる仲間だ。
「……隙を突いて奇襲をかける。絶対に見つかるな。いいな」
詩澄が頷いたのを確認して、路上に放置された車の影に隠れながら移動した。
……宝石店まで、後十メートル。強盗達の警戒が甘いのか、物音と視線にさえ気を付けていれば順調に近付くことができた。ここまで来れば、自然と相手の会話も聞こえてくる。
「おい、早く詰め込め! 警察が来ちまうだろうが!」
「で、でもこれ、ちょっと、重たくて……」
「いいから早くしろ! 捕まりたいのか!」
相当な焦りようだ。もう後がないことは重々承知している、ということか。
残りはもう五メートルほど。間にあるのは車が一台だけ。ショットガンを肩に下げた一人が、急いで大きな袋を車に詰め込んでいる。袋の口から零れた高級そうな宝石は、間違いなくこの店の商品だ。どうやら、今の袋が最後らしい。
……不味いな。このままだと、普通に逃げられそうだ。
「……詩澄。お前はここで待機だ」
背後の詩澄に小声で指示を出す。
「え?」
「合図をしたら、あいつらの注意を引き付けてくれ。銃を向けて、動くなと言うだけでいい。後は私がなんとかする」
「で、でも……わかった、やる」
「一瞬そっちを向かせるだけでいい。その後は隠れてくれて構わない。頼んだぞ」
「……うん」
ライフルとスリングとを切り離し、被筒を右手で握る。近接戦でライフルは邪魔だ。念のためとホルスターからハンドガンを抜くと、車のサイドミラーに映らないよう、匍匐で強盗達の死角――車の下を潜り抜ける。
次の車の陰で体を起こして様子を窺うが、それでもあちらは私達の存在にまったく気付いていなかった。
「や、放して! 痛いじゃない!」
すぐそこで、銃を突き付けられた女性が激しく抵抗している。
「大人しくしろ! 撃つぞ!」
暴れる人質を押さえ込もうと、強盗はその手に持ったハンドガンを押し付ける。
「そ、そんなもので私を脅そうったって、こ、この!」
「ってえな! こいつ!」
「う、撃てないくせに! 人質なんだから、私を殺せないくせに!」
「なんだと、この……」
他の強盗は焦りで周りが見えていないようだ。
ハンドガンの安全装置を解除。向こうの行動を見計らって、
「……今だ」
無線で合図を送った。
「動かないで! 大人しくしなさい!」
詩澄は完璧に指示を守ってくれた。こちらの思惑通り、強盗三人の殺気立った視線が彼女に集まる。それでも、彼女はまったく気圧されることなく、堂々と銃口を強盗に向け続けていた。
……よくやった、詩澄。
「な、そっちこそ、動くんじゃ……」
彼女に銃口を向けられる前に車から飛び出し、袋をトランクに詰め込んでいた男を、ライフルの銃底で殴り付けた。
「い、ぐっ……!」
固いストックは、驚いて動けない覆面男の顔面にそのまま当たった。右手に伝わる鈍い感覚。散らばる商品。顔を押さえて倒れる男に視線を向けることなく、次の標的に焦点を合わせる。
左手に構えたハンドガンで、人質に突き付けている銃を狙い撃つ。チャイムよりも聞き慣れた銃声が辺りに響き、飛び出した弾頭は計算通り、強盗の銃を弾き飛ばした。
「なん……いってぇ!」
「きゃっ!」
あまりの痛みに叫び声を上げる覆面強盗。その腕から人質が離れ、放り出された店員にひと言、
「逃げろ」
「は、はい!」
女性が一目散に駆け出して行くと、倒し切れなかった残りの一人がはっと我に返り、腰が引けたまま銃を構える。
「こ、この、そこまでにし――ひぃいい!!」
と、銃を構え続けていた詩澄が、私にショットガンを向けた強盗に発砲。
「そっちこそ、もうそこまでにして、銃を捨てなさい!」
「ひっ……!」
顔を掠めた弾丸に戦意を持っていかれたのか、男は詩澄の言葉に素直に従い、力なく銃を地面に捨てた。
……撃たれるのが怖いのなら、そもそも強盗なんかしなければいいものを。まったく。こんな臆病者の集まりなら、これくらいで……。
「クソが! この、ガキのくせに!」
そう思った矢先。人質を失って頭に血が上った男が、私に殴りかかって来た。
「久美ちゃん!」
私が近くにいるからか、詩澄も引き金に掛けた指を引けない。だが……それでいい。
邪魔なハンドガンから手を放し、迫りくる拳を難なく避け、掴み、そのままバランスを崩させて地面に倒す。
「ぐぁ!」
……まったく。
「……気を遣ったつもりだったのだが、そんな配慮もいらなかったか」
「な、何を……」
構え直したライフルの銃口を、足元に転がった男に向ける。こいつは警察に引き渡す前に、一度痛い目を見させなければならないようだ。
「……撃たれる痛みを知らない奴が、人に銃を向けるな」
「こ、のぉ――」
そして私は、ライフルの銃口を覆面の眉間に振り下ろした――つもりだった。
「……何?」
「な……?」
しかし、どれだけ時間が経っても、その感覚が伝わってこない。私は、間違いなく銃を振り下ろしたはずだ。それなのに……いや、それどころか、銃を握る感覚すら、ない。どういうことだ。
構えたままであるはずの銃を見るが、私の手は、何も掴んでいなかった。
……なぜ。どうして。何が起こった。さっきまで確実にあったはずの物が、なくなっている?
そんな私の困惑を嘲笑うかのように、視界の端を、何か黒い靄のようなものが昇っていくのが見えた。
……なんだ、これは。
幻のようにも見える靄に従って、視線を上に向けると、そこには――。
「なっ……」
さっきまで青空が広がっていたはずの頭上は、巨大な暗闇に覆われていた。
「お、おい、なんだあれ!?」
「あ……穴、か?」
「何、あれ……」
……あれは、まさか。
穴の中に広がる深淵に、さっき見た靄が吸い込まれていく。靄の量はどんどん増え、目で追っているうちに、目が悪くなってきそうだった。
「きゃああああ!!」
突然の悲鳴に振り返ると、詩澄が震える自分の手を見つめていた。視線の先の両手には、何かとても、あってはならない違和感が。
「何、なんで。手、手が、私の、手……嫌ぁ!!」
……何が、起こっているんだ。
彼女の手が、指先からみるみるうちに靄に変わり、空に開いた穴に吸い込まれていく。いや、彼女だけではない。電灯が、建物が、私達の体が。すべてが靄に変わり、頭上の暗闇に向かって、緩い円を描きながら吸い込まれていた。
「な、なんだよこれ……いったい何がどうなってんだよ!」
「た、助けてくれぇ!」
「うわ! うわ! やめろ、やめて、助けて……!」
静まり返った町に、強盗達の悲鳴が木霊する。不意に風の勢いが増し、吹き付けた突風にヘルメットが持っていかれる。
「やめて! 嫌ぁああ!!」
壊れていく私達の町に、詩澄の悲鳴が尾を引く。車が靄になる。靄の吸い込まれる勢いがますます激しくなり、既に真っ黒だった穴の闇が、さらに深くなったような気がする。
……なぜ、こんな。
落ちていた薬莢が、指先が、眼鏡が消え、視界がぼやける。そして、次の瞬間には暗闇が訪れ、最後には何も感じなくなって……。
……こんな光景は、もう二度と、見たくなかったのに――。
私の意識は、そこで途絶えた。