第一話 ささやかな日常
静まり返った教室に、チョークの擦れる音が響く。
白い文字、黄色い波線、赤い丸印。黒、と言うには少々無理のある深緑色の黒板が、色とりどりの石灰で彩られていく。そのすべては教科書にある文章とほとんど同じだが、なぜだろう。こうして板書をされると、それだけで何か重要そうなものに見えてしまう。
「みんなはまだ、小学生くらいの頃だったと思うが」
書き終えた文と教科書とをひと通り見比べた後、チョークを置いた先生が、振り返って口を開いた。ああ、今日もまた、つまらない授業が始まる。
「今から十年くらい前のことだ。ヨーロッパ西部で、ある町の半分が周囲の地面ごと、それも突然消失するという怪事件が起こった。当時は結構話題になった事件だから、覚えている人はいるかもしれないな」
そう言って先生は、私達生徒に教科書の写真を見るように促す。そこには、ぽっかりと地面に空いたクレーターと、その周囲にわずかに残った、昔ながらの町並みが映されていた。私は少し目を細めて、その写真から目を逸らす。こんなこと、いちいち学校で習うまでもない。
一時限目は現代社会。怒らせると怖いことで有名な、錦先生の授業だ。こういう教師はどこの学校にもいるだろう。
私は机に頬杖を付いて、黒板の文字を適当に書き写しながら、この面白みも何もない授業に仕方なく耳を傾けていた。
「この事件では多くの死者、行方不明者が出た。どれくらいの数なのか、わかる人はいるか」
先生の問いに数人の生徒が手を挙げ、
「じゃあ、長洲」
当てられた生徒が立ち上がる。
「はい。住人のほとんどが死亡、あるいは行方不明になっています。その数は三百十二人で、生存者は……たったの一人、とあります」
右斜め後ろの方から聞こえる凛とした――しかしどこか悲しそうな――声。彼女の答えは、教科書に書いてある内容の通りだった。
「よろしい。その通りだ」
ペンを動かす手を止め、一度眼鏡を定位置へ戻す。顔を上げると、満足そうに頷いている先生がいた。
「教科書にも書いてある通り、実に馬鹿げた話だが、この事件の原因は定かではない。だが一説によると、町のすぐ近くにあった研究所で何かが起こったのではないか、と言われている。その研究には日本も関わっていて、行方不明者の中には日本人の研究者もいたらしいぞ」
何となく実感の籠った教師の言葉に、へぇー、というような反応がポツポツ上がる。興味があるような、ないような。曖昧な声だ。普通に生活している生徒にとっては、どこか遠くの、知らない場所で起こったおかしな事件、という程度の認識なのだろう。
まあ、当たり前のように平和を享受しているこの国の人間としては、ある意味これが正常な反応だ。
「じゃあ、この単元についてはこれくらいで流すとして、次のページに行くぞ。サクサク進まないとテスト範囲が終わらないからな。君達も、二年生最初のテストで躓きたくはないだろう? さて次は、この事件を境に世界中で起こり始めた異変について――」
不意に話が止まった。数人の生徒が、何事かと先生の視線を追う。つられてこちらも首を回すと、すぐ後ろの席に、生徒にあるまじき寝顔を晒す茶色い頭が一つ。
……なるほど。そういうことか。
「……またか。こら、弛観。寝るな。起きろ」
いくら先生が呼び掛けても、その頭はピクリともしなかった。仕方ない、と呟いた呆れ顔の社会科教師が、教壇を降りて近付いてくる。その手の中に丸まっている教科書は、もはや本ではなく竹刀に見える。
ふと視界に入った隣の席では、教科書と黒板とノートとを、順々に見比べているクラスメイトの姿。
三角食べのようだ、と思った。彼女の小ぶりな頭がその三つを行き来するたびに、左に寄せたサイドテールがカクン、カクンと揺れている。
……こっちはこっちで忙しそうだな。
トン、トンという靴の音が机と机の合間を通り過ぎ、止まる。
「おい。起きろ、弛観」
すぐ近くで発せられた、腹に響くような低い声。一瞬、背筋に緊張が走る。
……流石は元自衛官。あくまで優しく呼びかけてはいるが、その声には威圧的なものがある。しかし、呼ばれた生徒は未だ夢の中。何度声を掛けられても反応はない。
「おい、俺は最初に言ったはずだがな。俺の授業で寝る奴は許さんと」
徐々に険しくなる先生の表情。その顔に浮き上がってくる青筋。席が近い生徒の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
……まったく。いつまでも懲りない奴だな、こいつは。
「いい加減に、しろっ!」
今日も朝から、現社の教科書が不真面目な居眠り生徒の机を襲った。
◇ ◇ ◇ ◇
「はぁ~、や~っと終わったぁ」
「まだ半分だけどね」
瞬く間に時間は流れ、時計の針は既に正午を過ぎた。午前中の授業を終えて食堂へ移動した私達は、いつものメンバー――弛観萌々子、岸崎詩澄、長洲凛音、そして私、稲塚久美の四人――で同じテーブルを囲み、一緒に食事を取っていた。
昼食時間が始まってから少し時間も経ち、人でごった返す食堂の中。窓際の席で大きく背を伸ばした萌々子が、周囲の喧騒にも負けない声で一人愚痴を零した。
「いいじゃん、半分でも。だって、四時間だよ? 四時間もただ座って先生の話を聞いてるだけだなんて、苦痛だよ、拷問だよ!」
「……お前、話聞かずに寝てただろ」
ショートカットの頭を乱して訴える萌々子の誇張表現に、思わず突っ込む。
「あ、ばれた?」
そう言ってへっと笑った彼女は、言うまでもなく居眠り常習犯である。その無邪気で裏のない笑顔とは裏腹に、怒らなければならない立場の教師陣はもちろんのこと、こちらの頭まで悩ませている、ストレスの根源だ。
まったく。ばれたも何も、授業のほとんどを睡眠学習で済ませていただろうが。白々しい奴め。
「駄目だよ萌々子ちゃん。授業中に寝るなんて。もうすぐ今年最初のテストなんだよ?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。テストなんて、赤点取らなきゃセーフなんだから」
「それすらも危ういって言ってるんだけど」
「それはしーちゃんだって同じでしょ」
「うっ……」
萌々子に言い負かされ、言葉に詰まった詩澄。彼女はいつもだらしのない萌々子とは違って、目の前に置いた豚しゃぶ定食を、米、味噌汁、おかず、と行儀よく三角形に食べている、真面目で勤勉な生徒である。ただし、頭が良いとは言っていない。
「で、でも、私だってまだ大丈夫だし。今のところはまだ、ちゃんと授業にも付いていけてるし」
……そのことをちゃんと自覚しているのが、不幸中の幸いだろうか。
「まだ? ってことは、これから授業に付いていけなくなって……」
「そ、そんなわけないでしょ! もう! 馬鹿にするのもいい加減にして!」
「あ~! しーちゃんが怒ったぁ~! おー怖い怖い。怖いなぁもうまったく」
自分からちょっかいをかけたくせに、大袈裟に怯えて見せる萌々子。
「こらこら、その辺にしておきましょう。これ以上は、いくら詩澄さんでも我慢してくれませんよ」
二人の間に飛び散る火花を見かねたのか、私の隣で行儀良く焼き魚定食を食べていた凛音が、人差し指を唇に当てて注意した。彼女の柔らかい微笑みに諭されれば、流石の二人も矛を収めるしかない。
「食事中はお静かに、です。それから、テストの話は、もうやめにしましょう? ね?」
そう言って彼女はニッコリと笑い、食事を再開した。その顔に一瞬陰りが見えたのは、気のせいなどではないのだろう。
なるほど。凛音もまったく気にしていないわけではないのだな。……それにしても。
背筋をピンと伸ばし、姿勢良くほうれん草の和え物を口に運ぶ凛音を見ると、改めて思う。
やはり、彼女には大和撫子という言葉が相応しい。背中にかかり始めた長い黒髪が、日本人特有の美しさを更に引き立てている。立てば芍薬、座れば牡丹。それはまさに、彼女のためにあるような言葉だ。
常に笑顔を絶やさないのほほんとした性格は、男子達の間でも人気があり、そのルックスは我が校一と言われるほど。加えて、授業や部活動にも積極的に参加する、詩澄以上に真面目で勤勉な生徒だった。ただし、頭が良いとは、言っていない。
「あ、あーっと、そうだね。ごめんなさい。あっははは……はぁ」
何かを誤魔化すように笑う詩澄もやはり、どこか遠い目をしていた。だが、そんな二人の間に流れる嫌な空気もまったく意に介さないのが、萌々子という少女だ。
「むむむ。もー、この見た目だけ完璧超人め! いいもんねー、代わりに、くーちゃんのカツ一つもらっちゃうもんね!」
言うが早いか、萌々子の箸が閃いた。目にも止まらぬ速さで、私のカツカレーの上を棒が二本通る。取られた、と思った時には既に、今まさに食べようとしていたカツが、彼女の箸の中にあった。
「な、なんという早業……!」
それに驚いたのは、なぜか詩澄だった。
「ふっふーん。どうだ、この見事な箸捌き。流石のくーちゃんでも見切れまい!」
……どこからそんな自信が湧き出てくるのやら。というか、いったい何の代わりなんだ。有言即実行なのは悪いことではないが、私を巻き込むのはやめてもらいたい。
「……いいだろう。代わりにお前の唐揚げ定食を頂く」
勝ち誇ったようなしたり顔を晒す萌々子のトレーを掴み、食器がぶつかるのも構わず、こちらに引き寄せた。
「え……」
もちろん、まだ中身の入った味噌汁を零すなんてことはしない。彼女に残されたのは左手の茶碗と、私から奪ったカツ一切れ。なんとも寂しい食卓になったものだ。
数秒の沈黙の後、それに気付いた萌々子の態度が、途端に一変した。
「あ、ちょ……あ、あのぉ、久美、さん? えっと、その、それは困るって言うか、何て言うか、そのぉ……」
「……他に、何か言うことは?」
「う……す、すみませんでしたっ!」
「よろしい」
大人しく謝った萌々子に免じて、トレーを返してやる。元より人の食事に手を付ける気などなかったし、この量を食べ切れる気もしなかった。それに、こんなに食べたら動けなくなってしまう。……ああ、胃袋に際限がない凛音ならもしかしたら、普通に平らげたかもしれないが。
「……? どうして私のことを見るんですか?」
美人には意外な欠点が付きものだ。
「……別に。ああ、カツの代わりに唐揚げ、一つもらうぞ」
「よ、よろこんで差し上げます! どうぞ!」
「どうも」
先ほどの代償として萌々子から唐揚げを一つ貰うと、続けて凜音が、
「私もお願いしていいですか? 萌々子さん」
「え? あ、ど、どうぞどうぞ~」
「あ、じゃあ私もー」
と言って、詩澄までが便乗して箸を伸ばした。
「ちゃんと私の分は残しといてね!?」
「大丈夫、これあげるから。はい、キャベツ。生姜のタレが付いてて美味しいよ~。きっと」
「ちょっとぉ!」
「ふふっ。元気ですね、萌々子さんは」
まったく賑やかな連中だ。
二膳の箸とスプーンに唐揚げをついばまれた萌々子の皿は、そのほとんどが詩澄の残したキャベツに占領されて、もはや見る影もない。
「はぁ、あたしの唐揚げがしょくもつせんいに……」
変わり果てた主食皿を前に、しょんぼりと肩を落とす萌々子。面白いことに、元々背の低い彼女のことが、今は一段と小さく見えた。
「うぅ~、いいもんいいもん。私はしーちゃんと違って野菜食べられるから」
「はいはい、私だって食べられないわけじゃないよー。それよりも凛音ちゃん、今度の連休、暇な日ある?」
「え? あー、そうですね。まだ確定ではありませんが……火曜日辺りなら、丸一日空くと思います」
「そっか。じゃあさじゃあさ、その日にみんなで、またパフェ食べに行こうよ」
唐突に変わった話の展開に、泣く泣くキャベツを口に運んでいた萌々子の手が止まった。
「パフェ? ああ、あそこの。好きだねーしーちゃん。これで何回目?」
「まだ四回目だよ。ね、いいでしょー? たまにはゆっくり、お店でのんびりーなんてのも」
「そうですね……悪くないと思います。久美さんはどう思います?」
「……好きにしろ。自分の分は自分で払うと言うのなら、文句ない」
カレーを口に運びながら答える。
「だ、だよねー。やっぱりそうなるよねー」
と、何かを諦めたような詩澄。
「えー、そこは班長の奢りでしょ、普通」
少々常識感覚のずれた萌々子が駄々をこねる。
「……何が普通だ。言っておくが、割り勘も駄目だぞ。きちんと、税込みで、自分の頼んだ分を、自分の財布から出すんだ。それができる奴としか、私は店に行かない」
「えー、酷いよ久美ちゃん。私はただ、みんなと楽しい時間を過ごしたかっただけなのに」
残念そうな顔をする詩澄。彼女を庇うように、萌々子が言った。
「くーちゃんのケチ。何もそこまで言わなくてもいいじゃん」
「ケチで結構。我々の業界では誉め言葉だ」
「あ、まさか久美ちゃん……意外と根に持つタイプ?」
恐る恐る顔を覗き込んできた詩澄の質問には答えず、私はもうひと口カレーを食べた。
私は、忘れていない。一人千五百円近くするパフェとドリンクの代金を、班長だからという理由だけで、全員分奢らされたことを。合わせておよそ六千円。散財とまではいかないが、手痛い出費に違いない。それだけあれば、もう少しましなことに使えたはず。だというのに、こいつらと来たら……。
「これだからくーちゃんは、まったくもう。このケチ! 才女! 一番お金に困ってないくせに!」
「……それで貶してるつもりか」
「まあまあ。班長がこう言っているのですから、諦めましょう、萌々子さん。そんなことより、早く食事を済ませたほうが良いのでは? もう時間がありませんよ。詩澄さんも」
びしっと指を突き立てて喚く萌々子の言葉を受け流すと、凛音が丁度良いタイミングで言葉を挟んだ。
気が付けば昼食時間の終わりまで残り数分。凛音は既に完食していて、私はもうひと口で終わるところだが、詩澄と萌々子の皿にはまだ料理がかなり残っている。
これは少し急いでもらわないと、次の授業に支障が出てしまう。そう思っての忠告だろう。
「うっそ、もうそんな時間? やっば、急がなきゃ」
「詩澄さんは喋り過ぎなんですよ。放課の間も食べている時間はありませんから、急いでください。わかっているとは思いますが」
「え、どうして? 次の時間、何かあったっけ」
「……萌々子、お前な」
思わず口を閉じた私に代わって、凛音が言葉を継ぐ。
「五、六時間目は歩哨実習です。萌々子さんの大好きな」
「おお! そうだそうだ、忘れてた。あーでも、実習とかめんどくさいから、もっとゆっくり食べちゃおうかな~」
……おい。
「今朝と言ってること違うじゃん」
私の気持ちを詩澄が代弁する。
「またそんな子供みたいなことを……私達も迷惑を被ることになるんですから、早くしてくださいね?」
「はーい。努力しまーす」
「……いいから、食え。今すぐ」
少し低めの声で脅かすだけで、二人は揃って口を噤み、せっせと箸を動かし始めた。なんともわかりやすい奴らだ。
それから、昼食の時間が終わったことを告げるチャイムが鳴り、給仕のおばちゃん達にお礼を言いながら食器を返却するまで、二分と掛からなかった。
「ご馳走さまー」
「ご馳走様でした。ふぅ~、今日も美味しかったね」
「……そうだな」
ここの食事は、文字通り安くて美味いことで大人気だった。一食は大体三百円弱、味には文句の付け所もない。おまけに学食なので栄養価についても心配はなく、カロリーやら何やらにだって煩わされることもない。財布にも体にも優しい料理が毎日提供されているため、ここを利用しない生徒はほとんどいなかった。
「では、行きましょうか」
先に廊下に出ていた凛音の言葉に頷き、私達は、実習での集合場所まで移動した。
私達の通うこの高校には、いくつかの建物がある。校門から入って一番手前にあるのが、つい数十分ほど前まで授業を受けていた、四階建ての普通校舎。職員室やクラスの教室など、どこの学校にもあるごくごく普通の建物だ。
そのL字型の校舎に囲まれるように建っているのが、今私達がいる食堂棟。図書室や理科実験室、調理実習室、コンピュータ室と、ある程度の専門設備を有する部屋もここに集まっている。肝心の食堂部分は二階だ。食堂棟の向こうには、テニスコートやちょっとした花壇のある中庭になっており、ここで昼食を取る生徒の姿もちらほらと見える。
校門から見て普通校舎の右隣には、広いグラウンドがある。これからの時間、男子生徒達がサッカーやバレーボールに興じている姿が見受けられるだろう。さらにその奥には、剣道場、柔道場、弓道場などの武道場まで備えた体育館がある。そして、体育館と中庭に挟まれる形で、この学校一番の目玉施設があった。
敷地のほぼ中心にある、一番高くて目立つ建物。通称『司令部』。またの名を実習棟と言い、外観だけ見れば、普通校舎とは大差ないように思うかもしれない。しかし、その実態は他の建物とはまったくの別物。普通の高校には絶対に必要のない施設だった。
屋上に設置された巨大な通信アンテナ。入退室を管理する最新鋭のセキュリティ。窓はあるが、そのすべてがミラーガラスのため、中の様子を窺うことはほぼ不可能。そんないかにも怪しい建物の内部にあるのは、もちろんただの教室などではない。
「あーあ。やっぱりめんどくさいなー、歩哨実習」
食堂棟からの渡り廊下を進み、実習棟の入り口前に着いた途端、萌々子が言った。
「萌々子ちゃん……ここまで来てまだ言うの?」
目的地を前にしての唐突な愚痴に、流石の詩澄も呆れ顔だ。
「だって、歩き回るのめんどくさいんだもん! これなら教室でじっと座ってるほうが断然楽だよ。ねぇ、しーちゃんもそう思うでしょ?」
「いや、ねぇって言われても……ていうか、またさっきと言ってることが違うよ」
「う……そ、それは、時と場合による、ということで……」
コロコロと意見を変える萌々子のことは放っておいて、入口のロックを電子生徒手帳による非接触認証で解除する。ピピッ、という軽い電子音と共に開いた扉を潜り抜けると、どこか人工的な香りのする、温かい空気に出迎えられた。
実習棟に限らず、この学校の建物は基本的に空調管理が行き届いている。そのため、春夏秋冬どんな季節でも、最適な温度、最適な湿度が保たれているのは、もはや当たり前となっていた。
けれど私は、いくら快適に過ごすためといっても、このような機械に制御された空気のにおいが、あまり好きにはなれなかった。
その不快感を表に出すことなく、場違いな建物に入る。すると、
「えっと……何階に集合だったっけ」
と、早々に詩澄が小首を傾げた。
「二階ですよ、詩澄さん。あの大部屋に集合です。でも、その前に装備の準備をしないといけないので、まずは倉庫ですよ」
「あ、そうだった。ありがと、凛音ちゃん。……はぁ、今日はちゃんと一人でできるかなぁ」
「……私はもう、手を貸さないからな」
「わかってるよ。でも、まだちょっと自信がなくて……」
重い溜息を吐く彼女の憂いも、何となくわかる気がする。この実習授業では少なからず危険が伴うため、準備といえど気を抜いてはいけない。私達は、一年前からずっとそう教えられてきた。
その影響なのかは知らないが、細かなところまで気にしてしまう彼女の性格では、色々と気を張るべき部分が多過ぎるのだろう。しかし、だからと言って、できないままにはしておけない。そもそも本来なら、この程度のことは去年の段階でこなせていなければならない課題なのだが……まあ、多少の不安があったほうが、変に慢心するよりも確実性は増すのでよしとしよう。
それに、いくらこの学校が生徒同士の協力を重んじているとはいえ、いつまでも私が手を出していては彼女自身の成長は望めない。そして何より、いちいち班員の世話を焼くのは、いい加減に面倒だった。
「しーちゃんはいつも自信ないよねー。もうちょっと堂々としてもいいと思うんだけど」
面倒な班員第一号が言う。
「……そういうお前は、いつも自信過剰だがな」
「そんなことないよー。あたしはちゃんと、身の程は弁えてるつもりだよー」
……まったく。
私の指摘に、彼女は綺麗な棒読みで答えた。
目的の倉庫はこの実習棟の裏手にあり、入口からまっすぐ進めば、そのままあちらの建物に辿り着く。その扉にもここと同じく厳重なロックが施されているが、入室権限のある私達にとっては、機械に手帳をかざすだけのちょっとしたひと手間に過ぎない。
中にはそれすらも煩わしいと感じる生徒もいるようだが、これもまた必要な処置。仕方ないと割り切ってくれれば、こちらも余分なストレスを溜めなくて済むのだが。
そうして入った倉庫の中には、おおよそ高等教育には相応しくないと思える道具の数々が、所狭しと並べられていた。
ごてごてと沢山のポケットが付いた防弾チョッキ。黒と灰色の迷彩を施されたヘルメット。そして、ガンラックに並べられた、無数のライフル達。自動小銃、あるいは、アサルトライフルと呼ばれている種類の銃である。
そんな、普通の高校にあってはならない物品の数々を前にしても、誰も特別大きな反応を示さない。それは、この学校の生徒として十分な教育がなされている、ということなのだろう。私達にとってはこれが普通で、これが日常の一部なのだ。
ここは、この学校に通う生徒全員の銃器、装備が厳重に保管されている倉庫。二階には狙撃銃や散弾銃など、他の種類の銃もある。だが、今回はそちらに用はない。
棚の間に設けられた通路を進み、自分達の装備が収納されている場所まで移動する。棚のスペースは班ごとで分けられており、それぞれの装備は四つずつ置かれていた。
「さーて、じゃあ、ちゃっちゃとやっちゃいますかー。めんどーだけど」
「ひと言多いですよ。萌々子さんにそんなこと言われると、こっちのやる気まで削がれてしまうではありませんか」
「あはは、ごめんごめんー。りーちゃんは真面目だねー」
「萌々子ちゃんがいい加減なだけだよ。ちゃんと気を引き締めてよね。銃の扱いは危ないんだから」
「わかってるよー」
そうは言いつつも、三人はてきぱきと準備を進めていく。やる気のない不真面目な萌々子もそうだが、やる気はあるが実力の伴わない詩澄と凛音でも、ある程度のことまではできるようになった。それは単に教師の教え方が素晴らしかったのか、元々彼女達に資質があったのか。どちらにしろ、彼女達の成長は素直に喜ぶべきことだろう。それでも、他の生徒と比べるとまだまだなのは否定できない。
こちらもそんな彼女達に遅れないよう、手早くチョッキを羽織り、チャックを閉める。肘と膝に保護を付けて、念のためブーツの紐を結び直し、骨伝導ヘッドセットを左耳に引っかける。ブレザーの内ポケットにしまった電子生徒手帳と有線接続。ヘルメットを被って顎の下でベルトを締めれば、後は銃を手に取るだけだ。
まず、愛用の副武装、拳銃の状態を確かめる。スカートの下、太ももに巻いたホルスターから拳銃を抜き、弾倉が入っていないこと、薬室内に弾丸が入っていないことを確認。再び元の場所に戻す。肝心の弾薬は、ウエストポーチの中にある。念のために中を覗くと、弾薬のきっちり詰まった拡張マガジンが五つ、きちんとそこに入っていた。
そのいくつかを防弾チョッキのポケットに移していると、隣の詩澄が感嘆の声を漏らした。
「うわぁ、やっぱり沢山持ってるんだね、久美ちゃんは。昨日より多くない?」
「……必要になるかもしれないからな」
「そんなに持ってて、重たいでしょ、絶対」
「……別に、これくらいで重いと感じたことはない。それより、自分の装備を優先しろ」
「あ、うん。えっと、次はヘルメットを被って……あ、いや、その前にこっちを……」
……なんだかんだ言いながら、彼女だけでもそれなりにできているようだ。
そして残るは、ガンラックで取り出される時を静かに待っている主武装とその弾薬のみ。ここに掛けられているロックが中々の曲者で、こいつを解除するには、建物の扉と同じ電子手帳による認証と、自身の体の一部を使った生体認証による本人確認が必要となる。
実習棟の入り口、倉庫の入り口に連なる、三つ目のセキュリティ。ここだけ異質なほど厳重だが、そうしなければならないと法律で定められてしまった以上は、従うしかない。それほどまでに、銃の管理は徹底されていなければならないのだ。
ただ、これらの鍵は全部電子的なものなので、もし停電などで建物の電源が落ちると、すべての認証ができなくなってしまう。そうなると、扉は力ずくでも辛うじて開くのだが、銃は再び電力が供給されるまで取り出すことができない。それがこのシステムの弱点でもあり、第三者に悪用されないための意地悪な仕組みでもあった。
……システム上で最大の弱点は、生徒自身が銃を持ち出して悪用することなのだが、そんなことをした暁には、大手を振って退学することができるだろう。下手をしたら、そこから先の人生を刑務所の中で過ごす可能性だってある。
そんな不祥事を未然に防ぐため、この学校には、他の学校にはあり得ない様々な決まりが多数存在する。例えば、銃器に関することで専門の先生の指示に従わないと、それだけで厳しく罰せられることになっているし、実際に銃を持つことができるのは、銃の扱い方、整備方法、その他専門的な正しい知識のすべてを教室で教え込まれてからだ。
ここまで厳しく定められているからなのか、今のところは、銃器の不正使用で退学になった生徒は誰もいない。ただ、保護者の間ではいくらなんでも厳しすぎるとの意見もあり、今後調整される可能性はあった。だけどまあ、そんな学校でも小さな馬鹿をやらかす生徒がいるのだから、いい加減世も末だ。
などと無駄なことを考えているうちに、そろそろ彼女達の準備も終わっただろうか。いつの間にか同じように準備を進めるクラスメイトの姿も増えてきた中、一度眼鏡を直して、三人に声を掛ける。
「……準備はできたか」
「あ、ごめん、まだ……」
詩澄は、ここに置いていたハンドガンを手に取ったところだった。
「も、もうちょっと、もうちょっとだよ。心配しないで」
萌々子は、ヘッドセットのコードを繋ぐだけ。
「ええと、何か忘れているような気が、するんですけど……」
凛音は不安そうに、しきりに首を傾げている。
「あ、肘のプロテクター忘れてるよ。はい、これ」
「あっ、ありがとうございます、萌々子さん。これで……よし。問題ありません、よね?」
「……ああ。大丈夫だ」
準備は大方終わったようなので、一旦グローブを外し、生徒手帳を所定の位置にあてがう。続いて指先の指紋。それから、ピピッ、という甲高い音に続いて、
「声紋認証」
認証しました、と合成音声の返答。いつ聞いても気味が悪い。
これで、私達の班のロックは三十秒間だけ解除される。時間制限はあるものの、四人で素早く取り出してしまえば関係ない。同時に予備弾倉を一人三つずつ――私は六つ――チョッキと左足のマガジンポーチ、空きのできたウエストポーチに分けて入れる。ライフルの状態も手早く確認し、必要なアタッチメントを付けたり外したり。そして一点支持の負い紐を体に通すことで、武装は完了だ。
「ふぅ、終わったね。今日はちゃんと一人でできたー」
「……そうだな。ヘルメットが多少ズレているのを除けば、だが」
「え、嘘っ!」
「あ、本当だ。ズレてるよ、しーちゃん」
「そうですね。あ、顎の紐を固定し忘れているじゃないですか。それじゃあ危ないですよ」
「ほ、ほんとだ……うぅ~、今日こそはちゃんとできたと思ったのにぃ」
そうぼやきながら、がっくりと項垂れる詩澄。……やはり、彼女はまだまだのようだ。
全員の装備が整ったところで、忘れがちな通信機の確認をする。ヘッドセットの通信ボタンを押して、マイクに向かってひと言、
「テスト」
「チェック」
「チェックです」
「ちぇーっく」
……若干一名やる気の感じられない奴がいたが、まあいいだろう。
いつも通り、特に大きなトラブルもなく準備を終えた私達は、他に誰もいなくなった倉庫を後にした。
先ほどよりも十数キロ重たくなった体で二階に上がる。今回の実習はただ町を見て回るだけの簡単な作業だけなので、支給された装備のすべてを抱えているわけではなかった。だが、それでもかなりの重量がある。
「いつも思うけど、ここの建物だけ大学みたいだよねー」
それでも、これまで散々鍛えられてきたおかげか、詩澄が息を切らすこともなく、いつも通りの表情でそんなことを言った。
「うんうん、あたしもそう思う。この施設だけ、ね。綺麗だし。今じゃもう見慣れちゃったけど」
「まあ、いつも利用していれば、仕方ありません。でも、この学校に始めて来た時は、衝撃的でしたね」
「……そうだな」
などと呑気な会話をしながら辿り着いた二階には、階段と、SF映画を彷彿とさせる自動ドアただ一つしかない。その扉の向こうが、今回の目的地だ。
ここも例によって部外者お断りのセキュリティが掛かっているので、解除して先に進み、中で待ちくたびれていた教師にひと言告げる。
「……七班、全員揃いました」
「ん、最後は稲塚さんの班? 相変わらずギリギリね」
「……時間には間に合ったので、問題はないでしょう」
「まあ、それはそうなんだけど……はぁ、とにかく、早くこっちに来てちょうだい」
なぜか困り顔の先生に従い、同じ制服、同じ装備を身に着けた生徒達の列に入る。いくら高校生と言えど、銃で武装した生徒が集団で待機している様子は中々の圧巻だ。何も知らない人が見れば、本物の軍隊のように見えるかもしれない。
「よし、これで揃ったわね。ではこれより、事前説明を始めます」
力の籠った言葉とほぼ同時に、キーンコーンカーンコーンと、お馴染のリズムが聞こえた。それは、授業が始まる忌々しい合図であり、授業が終わる待ちわびた合図。生徒にとっていくつもの意味を持った、この場にそぐわないチャイムが、広い司令室に鳴り響く。
3Dホログラムで表示された立体的な地図。町中に設置された大量の監視カメラから、リアルタイムで送られてくる映像。それらを映し出す大きな複合モニター。これらはすべて、現場で実際に使われている設備である。
そう。この最新機材、この管理体制、この厳重なセキュリティで守られた巨大施設こそ、ここが『司令部』と呼ばれる所以。
訓練用とはいえ、本格的な設備の整った、我が校の誇る戦闘指揮所、CICだった。




