第九話 白い影
最初にあの人のことを見たのは、確か、城釧高校の学校見学会の時だった。
自分の中学校とは比べ物にならないくらい広く、真新しい体育館の中。大量に並べられたパイプ椅子に腰を下ろした私の、すぐ目の前の席に、その人は座っていた。姿勢よく資料に目を通しているその姿を見て、どこの中学の人だろうという疑問を抱いたのを、今でも覚えている。
他にも同じような人は沢山いたのに、どうして彼女のことだけ、あんなにも記憶に残っているのか。それは多分、あの人が他の生徒にはない、特徴的な雰囲気を纏っていたからだと思う。言葉では表し辛いけど、こう、ピリピリしたような何か。
あれは……そう。違和感だ。私を含めた普通の中学生とは、どこかが、何かが違うような、そんな感じがした。
その印象は、間違いではなかったと思う。
次に見かけたのは、その学校の入学試験当日だった。ずっと待ち焦がれていたような、でも来て欲しくなかったような、運命の入試の日。
試験会場となった校舎に向かう途中、大都会のように混雑した田舎道の先に、あの時の女子中学生がいるのを見つけた。
ただ、その時は試験のことで頭がいっぱいだったので、何となく、見た覚えのある人がいるなあ、と思っただけだった。でも、やはり周りに馴染んでいない彼女のことが、ほんの少しだけ頭の隅に引っかかっていた。
そしてやってきた、彼女との三度目の遭遇。それは、いつもより長い春休みの最後、待ちに待った入学式の前日だった。
そう、私は、第一志望だったこの城釧高校に、晴れて入学することができたのだ。今でも忘れられない。合格通知がこの手に届いた瞬間、それはもう、飛び跳ねて天井に頭をぶつけたくらい嬉しかった。
これ以上ない喜びを噛み締めながら、大きな荷物を抱えて、宛がわれた寮の部屋に入る。するとそこには、問題の女子生徒その人がいたのだ。
「あ……」
「……?」
私は、驚いて動けなかった。
受付で自分の部屋を確認した時、一人は先に来ていると聞いていた。だけどまさか、この学校に来るたびに気になっていた彼女がいるなんて。五階まで階段を上ってきた疲れか、緊張か、大きな旅行鞄が手を離れ、ドサッと床に落ちた。その一部始終を眼鏡のレンズ越しにじっと見つめられて、その圧力にたじろいてしまう。
ど、どど、どうしよう。何か、何か言わなきゃ……。
「え、えっと……わ、私、その、このお部屋で一緒に生活、することになった、岸崎詩澄、です……ええと、よ、よろしく、ね?」
言葉に詰まりながらも、なんとか最低限の自己紹介をした私に、その人は一言、
「……稲塚、久美だ」
それが、彼女と始めての会話だった。
何の感情も表情も交えず、形式的に言葉を放った彼女――久美ちゃんに対して、ガチガチに緊張しっぱなしの私。それは、何年経っても思い出に残るであろう、最悪とも最良とも言えない出会いだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「――ちゃん。しーちゃん。もう、しーちゃんってば!」
「ん……あ、れ? 萌々子、ちゃん?」
自分の名前を呼ぶ大きな声と激しい揺れに、私は目を開けた。するとそこには、とても驚いた表情をした萌々子ちゃんがいた。どうやら、夜の見張りをしている間に、いつの間にか眠っていたみたいだ。
いけない。みんなの安全を守るために見張りをしていたのに、寝ちゃうなんて……。
役目を果たせなかったことを謝ろうとするが、それよりも早く、萌々子ちゃんはホッと胸を撫でおろして、
「よかった。しーちゃん、いくら揺すっても起きないから、死んじゃったんじゃないかと……」
「あ、ご、ごめん……」
慌てて謝ると、彼女は別にいいよと首を振った。
「しーちゃんがちゃんと生きてるなら、それでいいよ」
「大袈裟だね……。それでえっと、何か用事?」
「あ、うん。くーちゃんが、話し合いをするから来いって」
「わかった」
萌々子ちゃんの言葉に頷いた私は、スリングにぶら下がっていた銃を持って立ち上がった。ずっと堅い床に座っていたせいでお尻が痛い。ぐーんと思いっきり伸びをすると、ポキポキと気持ちのいい音が鳴った。ああ、今日もここでの生活が続く。私達、いったいいつになったら学校に戻れるんだろう……。
そんなことを考えながら、私は窓の外に目を向けた。
相変わらず暗い町並み。徘徊する不気味な人影。頭上を覆う灰色の分厚い雲。天気は相変わらずの曇りだったが、今日はなんだか、いつもより嫌な感じが強かった。そのせいかどうかはわからないけれど、何か、とても恐ろしいことが起こるんじゃないかという思いが、私の頭を巡って離れない。
「どしたのしーちゃん。行こう? もうみんな待ってる」
「うん……」
促す萌々子ちゃんに続いて、私は部屋に入った。けれど、一度抱いた嫌な予感は、中々拭い去ることができなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……遅いぞ、詩澄」
最後に部屋に入ってきた詩澄に、私は少し厳しく言った。すると彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、
「ごめん、久美ちゃん。その、居眠りしちゃってて……」
「……そうか。まあ、いい。作戦会議だ。今後の方針について話がある」
反省しているようなので、もうこれ以上追及するようなことはしない。昨日あれだけのことがあったのだ。無事に生きてくれているのであれば、それでいい。今の私にとって重要なのは、私自身が生き残ることだけではなく、ここにいる七人全員が生き残ることなのだから。
時刻は午前七時前。大事な話をするからと言って、朝食も後回しにして皆を集めた。机の上に詩澄達が描いた地図を広げて、私はその中心、拠点の印を付けた箇所に視線を落とす。
一つ息を吐いてから目を上げ、どこか不安そうな顔をした仲間達を見回しながら、私はゆっくりと口を開いた。
「ここを拠点として、今日でちょうど一週間。私は、そろそろここから移動するべきだと思う」
「え……い、移動!?」
前置きなしに本題を言うと、予想していた通り、全員から驚きの声が上がった。
「移動って、ど、どういうことだよ」
バンッと両手で机を叩き、春山が言った。だが、その大きな音とは裏腹に、戸惑ったような表情を浮かべている。まあ、いきなりこんなことを言われれば、誰だって困惑するだろう。ここを出るということは、折角の安全地帯を捨てるということなのだから。
「そのままの意味だ。ここを捨てて、別の場所に行く」
想定範囲内の問いに冷静に答える。続いて、泉と平岩が説明を求めてきた。
「ど、どうして急に、移動なんて……」
「おいおい、まだそんな厳しい状況にはなってないだろ。急すぎないか?」
この話に納得できない二人の方に顔を向け、私はこの提案をした理由を話した。
「確かに、食料や水はまだ余裕がある。だが、長くここにいることを考えると、もっと生活しやすい場所を見つける必要がある。余裕があるうちに移動したほうがいいと思う」
コンビニから持ってきた物資は、八人がかりで運んできただけあって大量だ。まだジュースが何本も残っているし、お菓子類にも手を付けていない。だが、今問題にしているのは別のこと。生活拠点として選んだこのビルの限界が近いという話だ。
軽く理由を説明してもまだ不安そうな顔をしている仲間達を安心させるように、私は続けた。
「もちろん、私一人で勝手に決めたりはしない。まずはお前らの意見を聞きたい。だからこうして集まってもらった」
そう言うと、六人はそれぞれ複雑な顔で考え込んだ。椅子に座り込んだり、腕を組んだり、顎に手をやったり。そんな六人の様子を見ながら、私はそれぞれが出す答えをじっと待った。
しばらくして、最初に口を開いたのは泉だった。
「僕は、反対、かな。折角ここまで守りを固めたんだし、捨てるのは、ちょっと……」
泉らしい保守的な意見に、凛音が頷いて同意する。
「そう、ですね。布団とかも揃えましたし、ここまで整えた環境を手放すのは、ちょっともったいないですね」
そう言って凛音は、少し寂しそうな表情になった。皆で作り上げたこの拠点に、何かしらの愛着があるのかもしれない。
まあ、それは非常にいいことだ。仲間との共同作業は、信頼関係構築や団結力を強めてくれる。それに、あのバリケードは本当に役に立ってくれた。あれがなければ、私達は昨日の時点で全滅していただろう。
「でもまだ、余裕、あるんだよね? まさか、昨日ちょっと贅沢したせいで……」
怯えたような萌々子の言葉に、私は首を振って、
「それは大丈夫だ。余裕はある。問題は、二階に溜めてあるゴミのことだ」
「え、あ……そっか。臭い、ちょっと気になるもんね」
心当たりがあったのか、詩澄が言った。その言葉が正解だった。
「そうだ。こんな状況のせいで仕方ないかもしれないが、私達が出したゴミの臭いが酷い。何とかするには、もう遅い」
既に二階は、自分達が出したゴミの袋で溢れている。排泄物だってそのままだ。バリケードの前にはゾンビ共の血肉が散乱しているし、衛生環境は最悪だ。これを解決するためには、ゴミをどこか別の場所に移すか、ここを放棄するかの二択しかない。一番手っ取り早いのは、もちろん後者だ。
「まあ、確かにそうだな。そういう理由なら早いほうがいいが……なあ、稲塚。お前、何か焦ってないか?」
一部納得してくれた様子の平岩だが、彼は私の顔を見て、そう言った。私のことを心配するような口調だ。
……焦り、か。確かに、あるだろう。けれど、それだけの理由があるのだ。それを、こいつらにも理解してほしい。
「……昨日、考えたんだ。もしかしたら、このままずっと救援が来ずに、死ぬまでここで生活する可能性を」
その言葉で、仲間達の表情が強張った。この問題から逃げていたのは、皆同じだったのだろう。しかし、もうそんなことを言っている場合ではない。私達は、もう少し現実を見なければならない。
「久美ちゃん、それって……」
「今までは、できるだけ目を逸らしていた。でも、もう無視できない。これからは、色々と長く使う前提で行動しなければならない。物資だって無限じゃない。今ある分だけだと、恐らく、今後十日と持たないだろう。今ある物資が尽きれば、私達は、ゾンビに怯えながら石器時代の生活をする羽目になる。それは、避けたい」
改めて私は、皆の顔を見回した。怯えた目で私を見る詩澄。石器時代という言葉に嫌な顔をする萌々子と凛音。平岩と泉は互いに顔を見合わせ、腕を組んだ春山は目線を下に落として、何かを考えている。
私は地図の空白部分を指さし、強く訴える。
「そのためにまず、場所を確保する。ここは一時しのぎのつもりで構えた拠点だ。長持ちはしない」
私がそう締めくくると、場の空気がしーんと静まり返った。それぞれ複雑な表情で、口を閉じて考えに沈んでいる。何か心に響くものがあったのだろう。
「……まあ、ずっとここにいられない、っていうのは、わかったよ」
泉が言った。彼の中で、答えが出たのかもしれない。それに続けて、萌々子が何かを思い付いたよう様子で、
「でもさでもさ。先に拠点の候補地を探して、見つかってから移動する、っていうのでも、悪くないんじゃない? 確かにゴミのことは何とかしなきゃだけどさ、別に今すぐじゃなくても……」
最後は自信なさげに言葉が消えるが、腕を組んだ平岩が、その意見をフォローする。
「んー、確かにそれなら、すぐに動く必要はないな。俺は、弛観の意見に賛成だ」
しかしそこに、考えに没頭していた春山の言葉が入った。
「いや、待てよ。稲塚、お前もしかして、もう目星があるのか?」
そう言いながら彼は顔を上げ、私の顔を見た。釣られるように、他の仲間達もこちらを見る。
「……よくわかったな」
私がそれを認めると、皆一様に驚き、そして呆れたように力を抜いた。私も、春山の洞察力には少し驚いていた。
「気付いていたのか、春山」
「いいや。お前、なんか、最初から自信たっぷりだったからな。何か確信があるんだと思った。それに、前にもこういうことがあったし」
注目された春山はそう言って謙遜するが、大したものだ。私を目の敵にして観察していただけはある。
感心しつつ、私が目星をつけた建物について説明する。
「昨日、また別の町を見つけただろう。そこに、五階建てくらいの建物が見えた。そこを次の拠点にしたい」
「お前、あの状況でそんなところ気にしてたのか……」
「すぐゾンビに見つかったのに、凄いね」
あの時一緒にいた二人が、呆れたような、感心したような言葉を漏らす。
「他に高い建物がなかったから、目に付いただけ――」
肩をすくめて当時の状況を説明していたその時、フラッと、視界が揺らいだ。全身の感覚が遠くなり、バランスを崩しかけて机に手をつく。それと同時に、頭全体を締め付けるような痛みに襲われ、表情が歪む。
「う……」
くっ……くそ、これ以上は、誤魔化せないか……。
「お、おい、どうしたんだよ、急に」
「ちょ、久美ちゃん!? だ、大丈夫?」
隣にいた詩澄が肩を貸そうとするが、首を振ってそれを制する。もう視界は元に戻り、体の感覚も正常になっていた。だが、まだどこか違和感がある。けれど私は、それを皆に隠して、
「だい、じょうぶだ。少し、腹が減ってな」
何度か頭を振って、眼鏡を直す。タイミングがいいことに、ちょうど私の腹が鳴ってくれた。間の抜けた音に笑いが起こる。私も少し表情を緩めて、その隙に深呼吸をした。
チッ、こいつらの前で弱いところを見せるわけには……。
腹の音を聞かれて少し恥ずかしかったが、これを利用して話題を元に戻した。
「話の結論だ。新しい町に移動する、ということでいいか」
気を取り直して確認すると、全員、納得した顔で頷いた。
そういうことで話がまとまり、私達は、一週間過ごしたこの拠点を出て、新天地へ行くための計画を立てた。その前にまずは、朝食だ。
移動することが決まったので、今日の朝食は、持ち出すのが面倒なものを食べることにした。軽いがかさばる菓子や、溶け始めていたチョコレートなどだ。最近よく食べていたレトルト食品は長持ちするので、しばらくはお預けになるだろう。
「あれ? ……前見た時より、お菓子減ってるんだけど」
四階に上がって今日の朝食を選んでいると、泉がそう言って首を傾げた。
「もしかして、誰か食べたりした?」
「え? あ、あたしじゃないよ!」
一緒にいた萌々子が、誰も彼女のことだとは言っていないのに、一人勝手に弁明し始めた。私がそちらに顔を向けると、彼女はぎくりとして目を逸らし、なぜか下手な口笛を吹く。
「ふ、ふー、すー」
……口笛も下手だが、嘘も下手だな。そんなことをしたら、逆に疑わしいだろうに。
「……次からは、ひと声かけてから食え」
「う……ご、ごめんなさい……」
私が怒っていないとわかると、彼女は素直に謝った。悪いことをしたとわかっているのなら、それでいい。実を言うと、私もいくらか、黙って栄養ドリンクをもらっていたりする。それに、酒やエナジードリンクの缶がいつの間にか減っていることにも、見て見ぬふりをしていた。
……向こうに着いたら、また新しいルールが必要だな。
あまり健康的でない朝食の後は、持ち出す荷物を整理する。
移動中に離れ離れになるのは困るので、移動は全員で、一度に済ませる。二度とここには戻らないという前提だ。
水と保存食をできる限りリュックサックに詰め、一人一つ背負う。それに追加で、ガスコンロや調理器具、充電器、衛生用品、工具などを、分担して誰か一人が持つ。負担の大きい水のペットボトルは、男達に持ってもらうことにした。
「よいしょっと。銃もあるから、結構重いな……」
「でも、あたし達のフル装備よりはましじゃない?」
「だね。あれを最初に付けた時、私、立てなかったもん」
「お前ら、普段どんな訓練してんだよ……」
そんな他愛ない会話を聞きながら荷物を背負い、出発の最終確認をしていると、外の警戒をしていた泉から質問が飛んでくる。
「えっと、脚立はどうする?」
「ここに残しておこう。この辺りで何かあったとき、すぐ逃げ込めるようにするんだ。バリケードもそのままでいい」
「了解。じゃあ、布団もそのままでいいね」
「ああ。また向こうで新しく見つければいい」
次は、寝袋が見つかると嬉しいのだがな。
十分周囲を警戒しつつ、荷物を持って外に出る。地面には、昨日ゾンビが流した黒色の血と肉塊が散乱している。一晩明けてすっかり乾いているが、あまり気持ちの良いものではない。
これから私達は、昨日見つけた新しい町に向かう。そこまでの距離はおよそ一キロ。大荷物を持って動くには、それなりに長い。この移動は、コンビニから荷物を運んだ時よりも大変になるだろう。
「準備はいいな、お前ら」
それぞれの返事を聞いてから、一つ頷き、私は続けて言った。
「有事の際は安全第一だ。仲間の心配をするのも大切だが、まずは自分の身を守れ。いいな」
言わずにはいられない決まり文句にも、彼らはちゃんと頷いてくれた。詩澄達三人だけではなく、男達もだ。私のことを信頼してくれているのだろう。そのことを、少し嬉しく思っている自分がいた。
「……よし、出発するぞ」
いつの間にかできていた奇妙なチームの先頭に立って、私は歩き出した。
六人を引き連れ、昨日も通った道を進む。
その途中、どこかにいるかもしれない誰かに助けを求めるため、二、三百メートル間隔で発煙筒を焚いておいた。こうやってなるべく広い範囲で発煙筒を焚けば、遠くにいる誰かにも見つけてもらえるかもしれない。ビルの屋上に描いた『Ⅴ』の文字も、進行方向を示す矢印に変えておいた。こうしておけば、私達があのビルから移動したことを教えられる。上から誰かが見ているかどうかは、怪しいところだが。
しかし、他にも希望はある。私達が目指している新しい町にはもしかしたら、他にも生存者がいるかもしれないのだ。私達は、その可能性に賭けていた。
町の境界部分に辿り着くと、私達は一度足を止めた。
「……ここだな」
不自然に盛り上がったアスファルトの手前に立ち、改めて未知の世界を見回す。その光景は、昨日とまったく変わっていない。
「凄い……本当に、見たことない町がある」
「は、はい。そうですね……」
話に聞いていたよりも実感があるのだろう。詩澄と凜音の驚く声が響いた。
「……行くぞ。いいな」
振り返って、全員に確認する。
ここまでは、ある程度土地勘のある城釧の町だった。だが、ここから先はまったく未知の領域。十分に警戒をして臨まなければならない。
銃を構えながらアスファルトの境界を踏み越え、ゆっくりと道路を進んでいく。この道路はそれなりに古いようで、描かれた矢印が所々剥げている。
しばらくすると、萌々子があれっと声を上げた。
「何あれ、標識が日本語じゃない。ここ、日本じゃないの?」
彼女が指差していたのは、道路の上に掲げられている青色の標識。一瞬、その姿がじんわりと左右に広がり、二重に見えた。
……チッ。
私は頭を振った。頭の奥に、鈍い頭痛が残っている。それを我慢しながら、仲間達の会話に話を合わせる。
「……そう、かもな」
あれは恐らく、この道がどこに続いているのかを示しているのだろう。それは、これまでも見かけていた標識と同じだ。しかしそこに書かれていたのは、萌々子の言葉通り、日本語とはまったく異なる文字だった。
「ほんとだ。何語だろう。見たことないよ」
首を傾げる詩澄。その問いに答えたのは泉だった。
「えっと……あ。アラビア語、じゃないかな。あの、右から読むやつ」
「へぇ、アラビア、ですか」
泉が披露する知識に感心しながら、凛音が周囲を見回した。言われてみれば、そんな雰囲気があるような気もする。
「おいおい、アラビアって、冗談だろ。俺達は日本にいたはずだろ? いったいどうなってんだよ……」
呆れたような春山の言葉。それは、この場にいる皆が思っていることだった。
「それにしても、なんだかここ、暑くないですか?」
手で顔を仰ぎ、そう訴える凛音。同意する声がいくつか上がった。確かにこの町に入ってから、少し暑いような気がする。肌がじっとりと汗ばんでいた。これまであまり暑いと感じたことがなかったので、なんだか新鮮な気持ちだ。だが、汗のせいで気持ちは悪い。
「アラビア文字と関係あるのかな。アラビアって、暑いイメージあるし」
「さあ。俺にはさっぱり」
萌々子の言葉に、春山が肩をすくめて言った。アラビアの印象といえば、砂漠と厳しい太陽光。だが、ここには砂漠なんてない。太陽もずっと雲に隠れて動いていない。この世界は、丸ごと異常事態に巻き込まれてしまったのだろうか。
「稲塚。目的の建物はあれか?」
「……ああ、そうだ」
平岩がこの辺りで一番高い建物を指差し、私に尋ねてきた。その通りだと頷いて見せる。町の境界部分から見えていただけあって、目的の建物はもうすぐそこだった。
そうやって、ゾンビに出くわすこともなく順調に進んでいると、目指す道の先に、地面にしゃがみ込んだ人影があることに気付いた。
「ん……止まれ」
手を上げて、後ろの仲間に止まるよう指示。急な静止に驚く声がする。
「おい、何だ」
「奴らか?」
「あれ、人……?」
「に、人間、だよね?」
「もしかして、生存者、とか?」
「で、でも、ゾンビかもしれませんよ……?」
それぞれの憶測を口にして、警戒しながら人影に注目する六人。人影はこちらに気付いていない様子で、一見すると、不審な様子はないように思える。だが、それだけではまだ、あいつがゾンビでないとは言い切れない。
周囲をサッと見回して退路を確認。警戒しつつ声をかける。
「おい、お前。そこで何をしている」
私の言葉がちゃんと聞こえたようで、人影は動きを止めてゆっくりと立ち上がった。そのまま、ゆっくりとした動作でこちらを振り向く。そのシルエットは特徴からして、男性のようだった。だが……。
ん……なんだ、こいつ。
私は、その男の姿に違和感を覚えた。まだ距離があるので詳しいことはよくわからないが、何かがおかしい。目を凝らすとまた視界が二重になりかけたので、頭を振って眼鏡のズレを直し、深呼吸をして目の調子を整える。
そいつは真っ白な服を着ていた。だが、それにしてはどこかおかしい。スキンヘッドの頭の先から、指先、足の先に至るまで、すべてが白いのだ。しかも、なんというか、体の形がはっきりわかる。全身タイツのような服を着ているのかもしれないが、やけに生々しいような気がする。また目の調子がおかしくなったのだろうか。
相手がそれ以上反応を示さないので、しびれを切らした平岩が、もう一度呼びかけようとする。
「えっと……あんた、俺の言ってることが――」
「おい、待て」
嫌な予感がして、平岩の言葉を止めさせる。だが、手遅れだった。
ふっと、そいつの姿が揺らいだ。かと思うと、真横を高速の風が通り抜けていった。白色の何かが視界の端をかすめ、咄嗟に身を引く。だが、私が体を動かした時には既に、奴は私達の真後ろにいた。
「――っ!」
「な、何が……」
銃に初弾を装填しながら振り返る。背後に回った白色のそいつも同じく振り向き、黒と赤の混じった色の瞳が、私のことをじっと見る。その口は耳元まで開き、鋭く尖った歯の間からシューシューという音が漏れている。口元は涎と赤茶色の何かで汚れており、よく見ると、そいつの手には指が六本生えていた。あの化け物と同じ特徴。それを見て、私は確信する。
……間違いない。あいつは、人間ではない。化け物だ。
「きゃっ、何っ!?」
「ど、どうしたんだよ!?」
「コンタクト。あれは敵だ。撃て!」
反応の遅い仲間達に叫び、銃口を上げ、セイフティを解除。誤って仲間を撃たないよう、隊列の横に躍り出る。しかし引き金を引く前に、また奴の敵が消える。
また後ろに回る気か……!
先ほどの動きがもう一度来ると予期して、私は体を捻った。
「ガッ……」
その瞬間、腹部に熱を感じた。突然腕から力が抜け、銃を取り落とす。見ると、弾丸を防いでくれるはずの防弾チョッキごと、左の脇腹がなくなっていた。
「あ、ぐ……」
真っ赤な血が地面にボトボトと落ち、その中には、少し大きめの肉も混じっている。少し後ろで、ベチャッ、と水の塊が地面に落ちる音。
振り返ると、そこには、血溜まりの中に沈む制服の切れ端があって、その少し先に、手を紅に染めた奴の姿が……。
「は、ぁっ……!」
急激な血圧変化に意識が揺らいで、地面に膝を付く。それを奴は、どこか面白そうに嗤っていた。
「久美ちゃん!!」
「ガハッ! ぐ、来るな……!」
腹の奥から何かがこみ上げてきて、吐き出すと、それは血の塊だった。
出遅れた仲間達が慌てて駆け寄ろうとするが、私はそれを制した。痛みを堪えながら奴を睨みつけ、太もものホルスターに、いや、ナイフの柄に手を伸ばす。奴のスピードには追い付けない。だが、近付いてきた時を狙えば……。
「シュ、シュ、シャー!」
三度、敵の姿が消える。
「っ、ぁ……!」
視界の右側がふっと暗くなる。少し遅れて、右目に鋭い熱と、衝撃。眼鏡のレンズが片方砕け、地面に落ちる。
「い、あ――!!」
頭の中で蠢く敵の指の感触。背筋が震える。頬を伝う熱い血。奴の左手が、私の右の眼孔を抉っていた。
「ぁあああああ!!」
く、そ……!
逃げられる前に、奴の腕にナイフを突き刺す。そのまま、力の限り腕を掴む。これで奴は逃げられない。異形の化け物にも痛覚はあるのか、手を滅茶苦茶に動かして抵抗した。
暴れる右の爪が私の左腕を切り裂き、右目の内部を爪が引っ掻き回す。だが、私は手を放さなかった。
まだ見える左目の端に、銃を構える仲間達の姿があったから。
「シィ! シッ!」
……こいつは、ここで殺さなきゃいけない。
奴の白い腕を押さえつけたまま、私は言った。
「う、て……」
「え……?」
「撃て、殺せ!!」
形振り構わず、喉の奥から声を絞り出す。
「う、うああああ!!」
響き渡る銃声と誰かの叫び。彼女らが撃った弾丸は化け物を撃ち抜き、その赤い血が私の顔をさらに赤く染める。
蜂の巣にされた化け物は、重力に従って後ろ向きに倒れた。同時に、私の右目に刺さっていた手が抜け、その息ができないほどの痛みに一瞬意識が飛ぶ。
「――ちゃん! 久美ちゃん!」
「班長!」
――気が付くと、私は仰向けに横たわっていた。目の前には、ぼやけた二つの顔がある。眼鏡がないせいで、誰の顔なのかわからない。けれど聞こえてくる声から、詩澄と凛音だとわかった。そのすぐ後、二人の顔が消え、誰かが私の目の辺りに触れる。
「う、あ……」
「退いて! ひとまず応急処置を、患部を止血しないと」
彼らの声が遠くに聞こえる。おかしいな。耳をやられた記憶はないのだが……。いや、それよりも、敵の確認を……奴を殺したのかどうか、確認、しないと……。
右目と左脇が白い布で覆われ、強い力で押さえつけられる。左腕も誰かに押さえられていた。患部を直接圧迫するつもりなのだろう。だが、血は止まっていない。指先が徐々に冷たくなっていく。
「やだ、死なないでよ、くーちゃん!」
「稲塚、そんな……」
「おい庄司、俺は何をすればいい。何か手伝えることはないのかっ」
「黙って! 今考えてるから……」
まだ見えている左の視界も、どこか暗くなってきた。手足の感覚も薄い。死が、近いのだろうか。ふと浮かんだその考えを、意識は必死に否定した。
……嫌だ。意識を手放したくない。こんなところで、死にたくない。私は、生きるために頑張ってきたのに。あの災厄の起こった日から、ずっと必死に生きてきたのに、こんなところで、死ぬなんて……。
「えっと、直接圧迫して、次は……とにかく、そのまま患部を押さえてて!」
この自信なさげな発言は、泉だろうか。それでいい、大丈夫だと励ましてやりたいが、声が出ない。体の自由も利かない。
こんな訳のわからない場所で死を迎えるなんて、屈辱だ。私は、ここで死ぬために生きてきたわけじゃないのに。
不意に、灰色の空に黒い何かが覆いかぶさった。いや、それは脳の異常だったのかもしれない。もしくは、幻覚か。
ついに周りの声が聞こえなくなった。代わりに、頭の中では凄まじい轟音が鳴り響いている。それはどこか、ヘリのローター音に似ているような気がした。けれどそれはきっと、あの日私を助けに来たヘリコプターのことを思い出したせいで聞こえてくる、幻聴なのかもしれない。
……ああ。寒い。あの時と、一緒。嫌だ。死にたくない。誰か、助け――。
◇ ◇ ◇ ◇
「久美ちゃん! 久美ちゃん!」
銃弾を撃ち尽くした私は、白い化け物が倒れるのを確かめもせず、地面に倒れた久美ちゃんの所に真っ先に駆け寄った。
仰向けになっていた久美ちゃんには、左の脇腹がなかった。顔は血だらけで、特に右目の部分がぐちゃぐちゃになっていた。もしこれが他人の顔だったら、堪らず吐いていたかもしれない。でも、これは久美ちゃんなんだ。私達を守ってくれた、大切な親友。目を逸らしちゃいけない。
「班長!」
少し遅れて、凛音ちゃんもやってきた。凛音ちゃんは、変わり果てた久美ちゃんを見て思わず息を呑んだ。
「退いて!」
私達を手で退けて、泉さんが目の辺りを触った。その時、久美ちゃんの口からかすかな声が漏れた。大丈夫、久美ちゃんはまだ生きている。でも、このままじゃ死んじゃう。それは、嫌だ。
「これは、酷い……ひとまず応急処置を、患部を止血しないと」
止血? そうだ。血を止めないと。
リュックからタオルを取り出して、右目の部分を押さえた。これで合っているのか自信がない。でも、とにかくこうすれば血は止まるはずだ。応急処置の方法は学校で勉強した。ちゃんと覚えている。だって、久美ちゃんが教えてくれたから。
隣では、凛音ちゃんが真っ赤になった脇腹を恐る恐る押さえ、泉さんが左腕をぎゅっと押さえていた。
「弛観さん、ここ押さえてて。長洲さん、もっと強く!」
「う、うん……やだ、死なないでよ、くーちゃん!」
そう叫ぶ萌々子ちゃんは、泣いていた。でも、泣いていたのは彼女だけじゃなかった。凛音ちゃんも私も、一緒になって頬を濡らしていた。
「稲塚、そんな……」
「おい庄司、俺は何をすればいい。何か手伝えることはないのかっ」
「黙って! 今考えてるから……」
男の人三人が揉めている。それを見ながら私は久美ちゃんの顔を押さえ、自分の手の甲に涙を落した。意識があるのかないのかわからない久美ちゃんの口から、苦しそうな呻き声が聞こえる。
私は、いつも久美ちゃんに助けられてきた。小さなことも大きなことも、久美ちゃんに力になってもらってきた。だから私は、いつかこの恩を返さなくちゃいけないと思っていた。なのに、この肝心な時に、久美ちゃんがピンチな時に、無力だなんて……。
「えっと、直接圧迫して、次は……ああもう、とにかく、そのまま患部を押さえてて!」
「嫌だよ……死なないで、久美ちゃん!!」
力なく瞳を閉じた久美ちゃんに向かって叫んだ時、視界の端に何かが降ってきた。一瞬何が起こったのかわからず、落ちてきた何かをただ見つめる。
……ロープ?
少し遅れて、それが何なのか理解する。その時、垂れ下がったロープの先に、もっと大きな何かが降りてきた。それは人の形をしていた。さっきのことを思い出してドキッとする。でも、それは先ほど倒したような恐ろしい化け物ではなかった。
その人は大きなバックパックを背負い、アサルトライフルを持っていた。同じような格好の人が次々と降りてきて、私達の周囲に群がると、大怪我をした久美ちゃんから私達を引き剥がした。戸惑っていた私達には、抵抗する暇もない。
「ちょ、ちょっと!」
「なんだよ! 放せ!」
「おい! そいつに触るな!」
おかしい。口は動いているのに、みんなの言葉がよく聞こえない。その時初めて、周囲がとてつもない轟音で満たされていることに気付いた。どこかで聞いたことがある音。そうだ。ヘリコプターが飛んでいるときの音に似ている。
……ヘリコプター?
はっとして空を仰ぐと、そこには、頭上を通り過ぎていく一台のヘリコプター。凄まじい突風と轟音の中、そこから垂らされたロープを伝って、大きな四角い何か――担架が降りてくる。
ヘリから降りてきた人達は、久美ちゃんの服を脱がし、血だらけの傷口に何かを張り付けている。緊急用の応急処置パッドだ。この人達は、久美ちゃんを助けようとしているのだ。
「Hey! Listen to my voice. Can you hear?」
ヘリから降りてきた一人が、久美ちゃんに向かってそう叫んでいるのが辛うじて聞き取れた。それが英語だということに気付くのに、一分くらいかかった。
薄青色した彼らの迷彩服の肩には、赤と白の縞模様と青地に白の点が沢山付いた四角いワッペンが付いている。それが、あの有名なアメリカの国旗だと気付いたのは、少し離れた位置でホバリングするヘリコプターに、担架に乗せられた久美ちゃんが運び込まれた後のことだった。




