プロローグ 夢魘
耳の奥に木霊する悲鳴。鳴り響く破砕音。無残にも崩れていく伝統的な町並み。そして、分厚い雲に覆われていた空にぽっかりと開いた、巨大な穴。
そのとてつもなく大きな穴から、沢山の何かがボトボトと落ちてくる。白い、小さな何かが。それは人の頭くらいの大きさで、でも、目も鼻もなくて。ただのっぺりとしたボールに、人間の腕が四本生えた、みたいな感じ。
その気持ちの悪いボールは、もぞもぞと不気味に蠢きながら地面に落ちると、模様のようにも見える三日月形の筋をパックリ開いて、ベタベタした長い舌を出す。
まるで、笑っているかのようだ、と思った。顔も表情もないのに、口だけが笑っているみたいに、綺麗な半月を描いている。涎を垂らし、舌なめずりをして、六本も指のある手で大地を踏み締めながら、それは奇妙な鳴き声を上げた。
再び、悲鳴が響いた。狂気を孕んだ甲高い声。あまりの恐怖に耐えられず、誰かが叫んだ。
「怪物だ!」
怪物。化け物。誰もが抱いたその言葉に、人々は我先にと逃げ惑う。だが、逃げ道はない。穴は、私達の真上に開いているのだから。
突然、怪物が動き出した。目にも止まらぬ速さで、近くにいた男性の肩に喰らいつく。悲鳴を上げて倒れる男の人。噛み付かれたところから真っ赤な血が迸り、鉄が錆びたような臭いが鼻孔を満たして、そして――。
町は、あっという間に地獄と化した。
耳の奥に木霊する悲鳴が頭から離れない。鳴り響く破砕音に、家が、町が、無残に崩れていく映像が脳裏にチラつく。爆発する車。町を焼く炎。そして、大空にぽっかりと開いた巨大な穴から落ちてくる、無数の化け物。
「う、うぅ……どう、して……」
……あれは、何。何なの。なんで、どうして、人を、殺して、食べて……
たった一人、狭い路地に蹲って、私は自問する。どうして、こんなことに、と。
その答えはすぐに出る。わからない。何もわからない。理由がわからなくても、ただ、怖い。これまでにないくらい、何もかもが恐ろしかった。
そうこうしているうちにも、誰かの悲鳴が空気を震わし、一人、また一人とあの怪物に食べられていく。それで、そのうち、私も……そんなのは、嫌。死にたくなんてないのに、どうして、どうしてこんなことに……。
視界が霞む。涙が止めどなく溢れる。声を出さないように我慢したのに、それでも嗚咽が堪えられない。死への恐怖が胸を侵していく。非日常的な状況に、どこからか狂気の気配が心を蝕んでいく。
すぐ近くで、何か物音が聞こえた。ペタ、ペタ、という不気味な足音。顔を上げると、目の前に、あの異形の怪物の姿があった。
「ヒッ……!」
そんな、嘘、見つかった……!
状況を理解した途端、全身がガタガタと震え出す。心臓の鼓動が、一段と激しくなる。逃げ出したいのに、足が動かない。血に染まった口元がニヤリと歪み、その隙間から牙が覗く。
――みいつけた。
そんな幻聴が聞こえた気がした。
「い、や……」
人一人通るのがやっとの路地で、目の前には異形の怪物。体は動かず、助けは来ない。取り残された私にできるのは、より一層体を縮こまらせて、目をギュッとつぶることだけ。
あ、ああ、嫌。いやだ。死にたくない、死にたくないよ。怖い、助けて。助けて。お願い、誰か、お母さん、お父さん……!
固く閉じた瞼の向こうに、段々と吐き気を催す悪臭が近付いてきて、そして……。
◇ ◇ ◇ ◇
「――っ!!」
飛び起きれば、そこは現実で、いつもと何ら変わりのない、自分のベッドの上なのだ。
「はぁっ、はぁっ……ぁ、ああ……」
……いつも、こうだ。
夢を見る時は決まって、自分の悲鳴で目が覚める。額から零れ落ちる汗。はち切れそうなほど暴れる心臓。胸の奥にジクリと走る痛み。体は激しい虚脱感に苛まれ、全身の震えが止まらない。狂ったような激しい呼吸に、口から何かが出てしまいそうな不快感を覚える。
「ぐっ……」
吐き気を堪え、胸を押さえる。喉の奥に、まだ悲鳴がこびりついているようだった。
あれは……そう。思い出したくない悲劇。嫌でも思い出してしまう惨劇。取り返したい、けれど、決して変えることのできない、忌むべき、憎むべき、恨むべき記憶。消し去りたかった、過去だった。それなのに、どうして――。
「……クソッ」
あの町を襲った災厄から、十年。私は今も、あの日のことを夢に見る。