#2
まさしく、その瞬間である。
ふと、空気が変わるのを感じた。
張っていた糸が緩んだような、微妙な変化だった。
しかし現実では、時間さえ超越するような、非常に大きな変化が現れていた。
森に吹く風も、地を這う甲虫達も、そして俺を殺さんと文字通り手を下した悪魔でさえも──みな、一様に動きを止めていた。
いや、正確には、止まっているわけではないようだ。
悪魔の腕はゆっくりと俺に近寄っている。流れる雲のように緩やかな挙動。悪魔だけではない。木々の葉も、虫達も、ありとあらゆる物体が、スロー再生でもされているかのように、じわじわと動いていた。
――なにが、どうなっている?
俺が驚嘆していると、今度は聴覚が異常を捉えた。いや、正確には聴覚ではないだろう。誰かの言葉が、脳に電流でも走ったように認知したのだから、おかしいのはおそらく俺の頭だろう。
『さあ、今のうちに早く逃げるんだ!』
聴いた事のない、知らぬ人の声。女性にも男性にも聞こえるテノールが、俺の脳に響いた。
何事かと俺は首を動かそうとした──が、俺の体は何故か岩のように固まっていた。幾らなんでもおかしい。脚や腕はピクリとも動いてくれない。
『何をしているんだ! 逃げろと言っている! 死にたいのか!』
誰かの声が再び警告する。
いや、言われなくとも俺だってこんな状況からさっさとオサラバしたい。だが、身体が全く言う事を聞いてくれないのだ。蛇に睨まれたカエルの状態だ。
徐々に距離を詰めてくる、蛇こと悪魔の手。あんな大きな掌で潰されたら、俺の肉体は梅雨時のアスファルトにへばりつくカエルの死骸のように、原型が分からないほど、ぐっちゃぐっちゃのめっちゃめっちゃになってしまうだろうなあ。
……なんて、未来の自分の無様な姿を、悠長に想像している場合じゃない。
クソがっ!
せっかくのチャンスだと言うのに、身体が動かないなんて! ええい、動けっ、俺の体なんだから、俺の命令を無視してんじゃねぇよ!
俺が焦っていると、
『若さま、どうやら彼は、〝イービル・アイ〟にかかっているようですわ』
別の声がした。中性的な先ほどの声とは違って、こちらは女性的──というより、少女的と言った方が良いか。猫を撫でたような可愛らしい声色だ。
『むっ、〝イービル・アイ〟か……厄介だな』
凛々しい中性的な声が、何やら困ったようなニュアンスで言った。
『ええ、厄介ですわね』
対して少女的な声からは、どうにも緊張感が伝わってこない。他人事という言葉がこれほど似合う声の調子も、そうそう無いのではなかろうか。ってか、イービル・アイとはなんぞ? ブルーベリーの親戚だろうか。目に良さそうな第一印象。
二つの声はお互いに会話が出来るらしく、俺の知らない業界用語を使って意志疎通している。おかげで、おいてけぼりを食らう俺。
『ならば……おい、キミ!』
――あっ、はい。
口では返事が出来ないので、心の中でレスポンスを返す。相手に聞こえたかどうかは知らんが。
若さまと呼ばれた人物(脳に直接語りかけてくる輩が、果たして人であるのか怪しいものだが)は、早口で捲し立てた。
『キミは〝マンティコア〟の固有スキル〝イービル・アイ〟によって〝パラライズ〟という〝バッドステータス〟になっている。僕がそれを解くまでの間、〝タイムリテンション〟の効果が弱まる。マンティコアの動きが少しだけ〝アクティブ〟になるが、すぐに治癒させるから、しばらく待っててくれっ!』
……ええっと。
マンティ? イービル? パラパラ? バットを棄てた? タイムリーなテンション? 灰汁とり?
ふーむ。
すいません。ちょっと何言ってるか分かんない。
とにかく。
横文字の踊る台詞を、高校の五段階評価で最下位の一を取りしマイ・イングリッシュ・スキルにて翻訳すれば、『キミの痺れを治している間、悪魔の動きが若干速くなるから、気をつけてね』と言ったところだろうか。
いやいやいや! 気をつけてね、てっ。
身体が動かんのだから、例えどんなに気を付けたところで、行動に移せないでしょ!
俺の解釈のとおり、先までハエが止まりそうなほどゆっくり動いていた腕が、その五倍近いスピードで俺に迫ってきた。
確かに一倍率に比べればスローモーであるのに代わりはないのだが、身体の自由を封じられているコチラの方が依然として不利なわけで――
死への恐怖が、ただただ引き伸ばされているのと同じなわけで。
いっそのこと一思いにぐちゃっとやってもらった方が、気が楽かもしれないわけで。
とにもかくにも、はっ、早くなんとかしてくれ、声のひとっ! 悪魔の腕に押し潰されるより先に、恐怖で精神の方が潰れてしまいそうだ!
しかし人の思いというのは、声に出さなきゃ他人に伝わらないものである。
『もう少し待ってくれ。〝キュア・パラライズ〟は詠唱に時間がかかるんだ。ましてや遠隔術式は操作が難しい……』
またもや理解不能な言葉を語る。だが、何となくヤバいのは分かった。俺の願望が叶うのはまだ先らしい。
悪魔の掌が、すぐそこまで差し迫る。距離と速さで単純に計算すれば、十秒後には俺の顔に爪がめり込む。
再び走馬灯が過る。
父と母、爺ちゃんと婆ちゃん、妹とタケナカ──おい、タケナカ。なに人の妹と肩を並べてんだよ。お前のような輩に妹は渡さんぞ。てか、流石にこうも短時間のあいだに家族と友人の面々が俺の脳内に出演されては、正直やかましいったらありゃしない。
死まで、残り五秒。俺の脳内では、スマホのゲーム『悠久のシャングリラ』の冒頭に登場した宿屋の娘と、金の亡者のように課金を請求してきた神官姿のオッサンが営業スマイルで手を振っている。
ああ、走馬灯もネタ切れか。
こんなしょうもないキャラクターを思い出させるなんて。
神のご加護があらん事を──なんて面白い事を抜かしていた二人だが、無念かな、神の加護なんて何処にもありゃしませんわっ。
『よしっ。〝パラライズ〟を回復させた! 急いで避けるんだ!』
あったわ。
神のご加護、早速ありましたわ。
天の声の仰るとおり、まるで縛っていた糸でも切れたかのように、自由に身体が動くようになっていた。
この喜びを万歳で現したいところだが、生憎そんな暇はない。
俺は言われるままに、後ろへ飛んだ。
若干、俺の体の動きも鈍くなっているのは、この不可思議な現象の副作用だろうか。それでも悪魔から充分、離れる事は出来た。悪魔の方へ振り替えれば、彼の腕が間もなく路面にぶつかろうとしていた。あの場所に残っていたら、ゆっくりと自分の身体が八つ裂きにされていくのを感じながら死ぬところだった。
――と。
ここで、時間は正常に戻った。電池が切れかけてゆっくりと動いていた時計が、突如として正常な動きを始めたかのように。
発生する爆音。そして衝撃。
悪魔の掌が道路にめり込み、その弾みで石の板が破片となって巻き上がる。
さながら、手榴弾の爆発だ。
実際の手榴弾がどんなものか、日本産まれ日本育ちの俺には分からない。けれど、火薬の炸裂によって撒き散らされた破片が人体に致命傷を負わせるというカラクリは、漫画や小説を媒介に知っていた。
今回もそうだ。
悪魔の掌よりも恐ろしいのは、それによって吹き飛ばされた石の欠片の方である。
この事に気付いたのは、俺の額に、堅い何かが突き刺さったのと殆ど同時だった。
瞬間、俺の意識は飛んだ。