#1
匂い。草木の香り。
最初に感覚を取り戻したのは、まさしく嗅覚だった。
次に聴覚。ホウホウと鳥の鳴く声に、虫達の合唱。風に煽られる植物のざわめきが喧しいったらありゃしない。
俺が唸り声を上げながら目覚めると、視界に満点の星空が映った。
深い青の海の中で、一つ一つが宝石のように光り輝いている。
なかなかお目にかかれない壮大な景色に俺は思考を放棄し、瞬きすら忘れて見入ってしまった。
そして、流れ星が一つ夜空を通りすぎたところで、俺はようやく先ほどの異様な経験を思い出した。溶けていく部屋。動かない手足。焼ける体――すぐさま俺は立ち上がり、口許を押さえて吐き気に堪えた。
さっきの光景はなんだ?
幻覚か? なぜ、あんなものを見た?
息を整えた後、体をペタペタと触ってみる。寝間着用のスウェットシャツの、ごわごわした肌触り。触れられるって事は、腕があるに他ならない。それに、立っているという事は両足も機能しているという事だ。裸足ゆえ、湿り気のある地面の感触が直に伝わってくる。
目も正常だし、耳と鼻もきちんと仕事している。
……ああ、生きている。
へなへなと俺はその場に座り込んだ。かさついた地面が脛に触れ、冷たさを感じる。大きく息を吸い込んで吐き出すと、生きている実感が湧いてきた。
先ほどの臨死体験が嘘であることを、俺は心から安堵した。
そりゃ、そうだ。危ないクスリでもやらないと見られないような現象が、何もしていない俺に起こるわけがない。
俺は地面から乾いた土を一握り掴むと、パッと宙に放り投げた。
――ああ、生きてるって素晴らしい!
投げた土くれがぱらぱらと俺に降ってくる。
そりゃあ、真上に何かをぶん投げれば、当然それは自分に戻ってくるわけで、ニュートンが万有引力を発見するより以前から人々が概念的に知っている事だった。
しかし、土を被ることによって、俺は万有引力の法則どころの騒ぎじゃない衝撃的な事実を今さら気付く事となった。
土。森。空。
今の今まで俺がグータラして、そしてスマホの異常と共に崩れ去った、自分の部屋ではなくなっているのだ。
俺の部屋に敷かれていたのはカーペットであって、腐葉土ではない。俺の部屋には当たり前だか天井があるため、見上げたところで星空は絶対に見えやしない。森の中にいるのも謎だ。確かに俺は出窓でアモエナを育てていたし、小学生時代に集めたドングリを未だ机の引き出しに入れっぱなしにしていた気がするが、それらが異常な成長を遂げて、この森が形成されたとは到底思えない。
大自然に独り佇む俺は、長い時間をかけて考え抜いた疑問を口にした。
「ど、どこだ、ここ?」
俺の声は暗闇に吸い込まれる。
周囲を見回して、俺は立ちどころに不安になった。冷や汗がこめかみを伝う。
ここが鬱蒼とした森林地帯なのは、誰だってすぐに理解できるだろう。問題はどこの森林地帯なのか、という事だ。
また家族の女衆に試練を与えられたのか?
機械や世間の流れに慣れろと言っておきながら、今度は自然環境に身を置けと?
それとも、口減らしをしないといけないくらい、うちは経済的にキツかったのだろうか。いや、それだったら俺にスマホなんて高価な代物をプレゼントしたりはしないはずだ。家族に棄てられたという線はない事にしよう。もし本当に棄てられたのだったら、マジで辛いし。
家族の陰謀説でないとしたら、外部からの犯行か?
すわ誘拐? まさか物騒な事件に巻き込まれたのではと推察してみたが、一介のサラリーマンの家庭で産まれたB級大学の一学生を拉致して、有益な見返りがあるとは微塵も思えない。もし俺が誘拐犯だったら、超セレブな家庭で育ったお坊ちゃんやお嬢様を拐うし、こんな森の中に置き去りにせず倉庫なり何なりで丁重に隠れていただく。紳士ならばそれくらいの事はする。更に言えば紳士なら、そもそも誘拐はしない。
残る原因は一つ。
スマホの画面に突然あらわれた、謎のメッセージだ。
他世界接続システムとか言う、聞いた事のない奇妙なワード。
それから察するに、ここはひょっとして……
――異世界?
いやいやいやっ!
ゲームや漫画じゃあるまいし、スマホ一つで異世界に移動できるわけがない。現在の科学技術だって宇宙へ行くのがやっとなのに、ましてや異世界転移、そんなの夢のまた夢だ。
そうだ。スマホに描かれたものは、ある種の催眠術だったのではないだろうか。その画像を眺めるだけで三半規管が刺激され、強烈な目眩や幻覚を引き起こして、最後に失神してしまうのだ。そして気絶した俺を誰かが、どこぞの森に放置したと。
こっちの方が異世界云々よりも科学的だ。両論ともオカルトめいてはいるが。
「だれかー、いませんかー」
だんだんと独りでいるのが寂しくなってきたので、俺は返事を期待して呟いた。
しかし、返事はなかった。
まあ、こんな山奥らしき場所で返事をする者がいたら、そいつこそ俺を誘拐した犯人の可能性が高いわけで。
誰かの声が聞きたい、けど犯人が、「やあ、おはよう」と、凶器を片手にやってきたらもっと怖い。
だから今の俺の気分は、悲しさ半分、安堵が半分と言ったところだった。血濡れの鉈を持ったホッケーマスクの大男が現れるかも知れないと内心でヒヤヒヤしていたが、その警戒心は徒労に終わった。誰も訪れないのを察するに、どうやら俺は完全に独りらしい。
☆
悩んでいても始まらないので、とりあえず森を散策してみる事にした。
遭難した時はあまり動き回らない方が良いらしいが、俺としては、目覚めた位置から少しでも離れたい気分だった。誘拐犯がいたとしたら、そいつが戻ってくる可能性だってあるし、こんな森のど真ん中でじっとしているより、人家の明かりを探しに行った方が賢明だと思った。
幸いにも、木の間から射し込む満月の明かりで足元の安全をばっちり確保できる。今宵の月明かりは眩しくて非常に助かる……。
……あれ、今日って満月だったっけ?
俺は、本日何度目になるか分からない疑問を頭の中に湧かせた。が、月齢を意識した生活など全くして来なかったので答え合わせが出来ない。まあ、頭上に浮かんでいるのが満月ってことは、つまりそう言う事なんだろう。いや、この際そういう事にしておこう。
――それよりも、だ。
かれこれ体感的に十分ほど歩いたが、一向に森林が途切れる気配はない。
靴を履いていない状態での自然地帯の歩行は思っていた以上に厳しく、小石を踏みつけただけで足の裏に痛みが走る。アフリカや南アメリカの先住民族は余裕そうに素足で大地を闊歩するが、あれは日々そういう生活をしているからこそ出来る芸当なのだと改めて実感した。足裏の皮膚が、さながら靴のソールのように固くなっているのだ。俺のように外はスニーカー、家ではスリッパと、足を過保護にしている人間にとって、この環境はまさしく苦行だった。
地面をしっかり確認しながら、抜き足、差し足、忍び足と、泥棒みたいな足取りでゆっくり進んでいく。足が汚れるのは嫌だと最初こそ思っていたが、そんな潔癖もすぐにどうでもよくなった。気にして歩いては遅々として進まないからだ。
下に注意を向けていると、木の枝に額をぶつける。すると頭上で枝が撓り、野鳥が音を立てて飛び立った。俺は悲鳴を上げる。バクバクと高鳴る心臓を押さえ、どうして俺がこんな目に、と頭を抱える。どんなに警戒したって、野生動物の気配を、人里暮らしの俺が感じ取れるわけもない……緊張感から心拍数は上がり、その胸の鼓動のせいで、獣たちに俺の存在をアピールしているのでないかとさえ思えてくる。
辺りを見回しても、目に映るのは樹木や雑草ばかり。分け入っても分け入っても、ウンタラカンタラ。
解る事と言えば、俺が今いる場所は森林の中の獣道という事である。両サイドを背の低い茂みで挟まれた、幅一メートルにも満たない僅かな砂利道だ。『自然は落ち着く』と社会に疲れた者は嘯くが、なるほど、どうやらあれは嘘らしい。人の気が全くない自然ほど、落ち着かない場所はない。
さ迷えど、さ迷えど、風景は代わり映えしない。
ぐるぐると同じ所を回っているような感覚に陥る。どれだけ広いのだ、この森は。
都会でもなければ田舎でもない、ありふれた一地方都市に居を構える我が家の近所に、こんな鬱蒼と木々の生えたエリアはない。引き出しの中のドングリだって、母方の婆ちゃん(うちではミヨ子さまと呼んでいる。なぜ様付けなのかは知らん)の家の裏山で採取したものだ。初めてドングリを見つけた時は、アニメや図鑑で見た通りの形をしていて、言葉では言い表せないほど感動したものである。今ではゴミと同義だが。
「ドングリって、ちっちゃいんだねぇ」
「そーだねぇ」
幼い頃の俺は、同じくドングリを初めて見た妹とそんな会話をしていた。
そんなドングリくんが、今、俺の足元に転がっている。
ラグビーボールサイズの、ドングリが。
ドングリというは、カシやナラなどが実らせる『果実』である。ミヨ子さまが言うには、正確には種子ではないらしい。長さはだいたい一センチから二センチ、幅は種類にもよるが、一から一・五センチくらいだ。細長い形をしている物もあれば、パチンコ玉みたいにまん丸なものもある。
俺は足元のドングリを恐る恐る拾い上げた。中身が詰まっているらしく、思ったよりも重量がある。人の赤ん坊くらいはありそうな木の実を月明かりに照らして観察する。見てくれはまさにドングリ。帽子だって被っているし、表面の質感も俺の知っている通りだ。
その時、硬皮の一部分に穴が開いている事を発見した。虫食いのような窪みを、月光を頼りに興味本意で覗き込む。
そして、目が合った。
窪みの奥に、瞳があった。
人よりも小さいが、確かに白目と黒目を備えた目玉が生きているように揺れながら、奥行き一センチ程の穴の奥に潜んでいた。
ぱちぱちとその瞳が何度かの瞬きをした後、俺は巨大ドングリから手を離した。
「うわっ!」
きもちわるっ!
柔らかな地面へ埋もれるようにして落ちた巨大ドングリは、坂道でもないのに転がっていき、俺から二メートル程離れた所で停止した。
驚きで心拍数が一段階上昇した俺に、更なる追い討ちをかけんが如く、巨大ドングリはひとりでにその場で揺れ始めた。ぺりぺりという忌避感を抱かせる音を立てながら、ゆっくりと形を変えていく。
表面に亀裂が入り、そこから虫を想起させる無数の足がわらわらと伸びてくる。
頭と思わしき部位に開いた二つの窪みから、先ほど観た目玉がニョロリと飛び出してきた。木の実に寄生した芋虫が這い出てくるように、触手に似た眼が俺を捉える。
それを例えるならば、ドングリの質感の甲殻を持った、巨大なダンゴムシだ。
ドングリだったダンゴムシと見つめ合う。
絶句する俺を、向こうは無害と感じたのか、巨大なダンゴムシは器用にもその場で右に旋回すると、図体からは想像できない素早さで最寄りの茂みに這っていった。がさがさと葉や枝を掻き分ける音が次第に遠くなり、やがて鈴虫たちのコーラスに溶けて消えた。
思考停止する俺。謎の生命体が去っていた方向を呆然と見つめていると、今度は背後で音がした。
弾かれたように振り返る。
視線の先には、周りの木々より少しだけ大きな広葉樹があった。その根本には、先ほどの巨大なドングリが幾つも無造作に転がっていた。まるでヤシの木の下に転がるヤシの実みたいだ、などと現実逃避めいた思考をしていると、巨大なドングリたちは一斉に変形した。
足を蠢かせながら、這い虫の姿勢になるドングリ、もといダンゴムシ。パッと見ただけでも十匹はいる。それぞれの頭部から伸びた目が、月光の下、俺をじっと見つめる。
気色悪い光景に、血の気が引く。
「……キリリ、キリリ」
「……ギジジ、ギジジ」
木と木を擦り付けるような、耳障りな音を発生させる。どうやらこの音は、巨大ダンゴムシ達の威嚇らしい。
一匹の巨大ダンゴムシが俺に向かって突進してきた。それに続いて、残りの仲間も鶴翼の陣を形成しながら這ってくる。
「ギシャーッ! ギシャー!」
その音は最早、昆虫が奏でるようなものではない。猫や犬などの哮りに近かった。
ああ……ヤバい。
「……う」
考えがようやく纏まる。これは、まずい展開だ。命に関わる、非常に危険な展開だ。
俺は足に力を入れると、脇目も振らずに逃げ出した。
「うわあぁぁぁっ!」
情けない叫び声を上げながら、小道を一心不乱に走る。
途中で何度も木の根に足を取られて転びそうになる。尖った石を踏みつけ、足が縺れる。でも、背後からカサカサと追っ手が鳴らす音を聞けば、誰だってその場に留まるという選択はしないはずだ。地べたに膝を突いてもすぐに立ち上がる。木の枝に頭を打ち付けようとも、俺は走るのだけは止めなかった。
逃げながら俺は考える。
あんな生き物が、日本にいただろうか?
幻覚を見て気絶した俺を、誰かが海外に運んだのだろうか。
どこの国へ? なんのために?
混乱に混乱を重ね、かといって立ち止まるわけにはいかない。
ひたすら走っていると、やがて開けた空間に出た。足の感触が、土から石の冷たさに変わる。今まで駆けてきた小道とは違って、石畳の敷かれた大きな道路だった。ようやく、文明的なものを拝む事が出来た。しかし管理が悪いのか、石畳は所々が剥がれたり浮き上がったりしており、間々から雑草が顔を出している。
緩やかな斜面を描く一本道。その道路を俺は下っていく事にした。平地に行けば、人がいる集落に辿り着くかも知れないからだ。
しかし、その計画はすぐに頓挫した。
石畳の上にどっしりと構える三匹のドングリ型ダンゴムシが、俺の進路を妨害した。
今まで見てきたダンゴムシよりも遥かに大きい。俺の腰まである高さと、長さに至っては俺の背くらいありそうな巨大甲虫が、さながらバリケードのように道路を塞いでいた。
「あ……あっ……」
俺は踵を返し、今度は坂道を上ろうとする。
しかし、振り返った先にも、二匹の巨大ダンゴムシと小さなダンゴムシが複数いた。小さいとは言ったが、それも一般的なダンゴムシと比べれば遥かに大きく、しかもそれらが石畳が埋まるほど密集すれば迫力は最早、純粋な恐怖へと変貌する。よく観れば、道路左右の茂みの足元にも、彼らの幾つもの瞳が月明かりを反射して、そこらかしこで輝いていた。
四方八方から、彼らの声が湧く。
「キリリ、キリリ!」
「ギジジ、ギジジ!」
「ギロロ、ギロロ!」
「カリカリカリッ!」
黒板を爪で引っ掻いたような不快な声を発しながら、じわじわと俺ににじり寄ってくる。俺は前後左右から迫り来る虫達に圧倒され、その場に尻餅を付いた。彼らと視線の高さが同じになって、より一層、甲虫達への恐れが増す。
コイツらの口元には、一目で危険と分かる牙が生えていた。ロブスターの鋏のような牙は、人の指なら難なく切断するだろう。そんな凶器づらの生物が、群れを成して、距離を詰めてくる。
あと二メートル。
あと一メートル!
足が咬まれそうになった、その時。
ピタリと虫達の進行が停止した。
ざわめきが無くなる。森の小動物の鳴き声すら消えていた。
静寂。森の呼吸が止まったんじゃないかと思えるくらいの、えもいわれぬ沈黙。
そんな粛然たる時間を打ち壊すように、獣の咆哮が何処かで上がった。遠い場所から木霊を伴って聞こえる、犬の遠吠えじみた嘶き。
甲虫達が再び騒ぎ出す。しかし、それは動揺に近かった。各々が右往左往し、先程まで兵隊のように統制のとれていた群れは、今やパニック状態に陥っていた。
なにが、どうなってるんだと、俺が狼狽えていた時。
サッと、月明かりが消えた。
見上げると、月光を背景に影が一つ、空に浮かんでいた。シルエットは徐々に大きくなり、ついには月の光を覆ってしまう。
何かが空から降ってくる。
俺がそう思ったのと同時に、影は道路に舞い降りた。
俺からだいぶ離れた位置、『バリケードのよう』と形容した、あの巨大なダンゴムシの頭上に、「何か」が着陸した。
爆発のような音と衝撃。
砕かれ、宙を舞う石畳。潰された巨大ダンゴムシの甲殻と体液が、空中に散らばる。
地面に尻を着けていた俺の体は、隕石のように落下してきた「何か」が発生させた突風によって、いとも簡単に吹き飛ばされた。襲いかかってきたダンゴムシと、俺は仲良く路面を転がる。
「今度は、なんなんだよ……」
強烈な耳鳴りに苛まれながら、俺は立ち上がった。そして、飛来した「何か」の正体を知る事となる。
五、六メートルあろうかと言う身長。人のように二本の脚で立ってはいるが、どちらかと言うとフォルムは猿に近い。細身の体は真っ黒な体毛で覆われ、背中には蝙蝠を彷彿とさせる大きな翼を広げていた。骨盤から伸びる尻尾の先端は、蠍のように尖っている。
何よりも印象的だったのは、こめかみから生えた山羊のような角だ。ぐるりと、とぐろを巻き、先端は鋭く天へ向かっている。
そいつは、まさに、悪魔の様相をしていた。
悪魔は手近にいた巨大甲虫を引っ掴む。捕らわれた方も負けじと木の実の形状になる。虫たちにとっては、それが防御の体勢なのだろう。
しかし、相手が悪かった。
悪魔は丸まった甲虫を、まるで弄ぶように石畳へと叩き付けた。何度も何度も。木質の鎧は卵の殻のように呆気なく砕け、どろどろの薄灰色の体液が漏れ出す。やがて木の実型のダンゴムシが虫特有の痙攣を始めた所で、悪魔はつまらなそうに森の茂みへと投げ捨てた。
親の仇と、小さな甲虫達が悪魔の足元に集結する。数で押そうとする群れを、悪魔は長い尻尾で薙ぎ払った。箒で埃を払うように、敢えなく吹き飛ばされる甲虫達。
殺伐とした光景だった。
強き者が、弱き者を、戯れ同然に殺す。
残虐なシーンを、俺は黙って見ていた。見せつけられていた。悲鳴すら封じ込められて。
つい一、二分前まで俺を追い込んでいた奇っ怪な生物が、突如として現れた生物に容易く蹂躙される。
逆転する補食関係──弱肉強食という言葉が生温く感じるほどの、どうしようもないほど理不尽で圧倒的な暴力。
なおも悪魔の狂乱は止まらない。大きかろうと小さかろうと、蠢くものを問答無用で蹴散らしている。翼で突風を引き起こし、鋭利な爪で周囲の木々ごと獲物を引き裂く。
まさしく、悪魔のなせる業だ。人の理解では到底及ばない、修羅の所業だった。
ふと、悪魔が俺の方を向いた。
薄暗闇に輝く、二つの紅い眼。ノコギリのような牙が口元から覗く。ロロロロ……と、特徴的な呼吸をする。
「……あっ」
ようやく口から捻り出せたのは、言葉にもならない声だった。
逃げようともしなかった。
いや、逃げる事が出来なかった。
痺れたように体が動かない。
石にでもなったかのように、全身から熱が引いていく。
そして、一歩、また一歩と悪魔は俺に歩み寄ってくる。爪が剥き出しの足を地面へ置く度、石のタイルがガラスのように割れる。俺の足元から振動が伝わってくる。
ガチャリ、ガチャリ。
災害めいた生命体が徐々に近付いてくる間に、俺は一つの結論を出した。
目の前にいる悪魔は、決して俺を助けるために渦中に飛び込んだのではない。面白そうな玩具が集まっていたから、遊び感覚で、甲虫の群れの真ん中に降り立ったのだ。
彼にとって、自分以外の生物は、己の破壊衝動をぶつけるための道具に過ぎないのだろう。
群れを成す巨大甲虫も。
そして、ソイツらに囲まれていた、ちっぽけな俺も。
「……あっ……あっ……」
もはや言葉すら出てこない。体の自由はおろか、命乞いをする勇気さえも、こいつに奪われてしまったようだ。
悪魔は右腕を振り上げた。
俺の体に、悪魔の手の影が射す。月明かりが遮断される。
その時、ふと、家族の顔を思い出した。
爺ちゃんと婆ちゃん、父さんと母さん、そして妹。みんな笑っている。ああ、これが俗に言う、走馬灯ってやつか。
思えば、騒がしい家族だった。とにかく喋ってないと気がすまないのが過半数いて、しかもみんな何処か抜けていて、その穴を塞ぐように家族がそれぞれ手を取り合って……。
みんなは、俺が部屋から消えた事に、気がついているのだろうか?
長男が何の伝言もなく失踪したら、そりゃあ、みんな心配するだろうなぁ。やれ拉致だ誘拐だと、近所の都合なんざ知ったこっちゃないと真夜中に大騒ぎして、警察にも連絡して、母さんの事だから救急車も呼んだり何かして、きっといろんな人に迷惑をかけるんだろうなぁ。
タケナカも俺が突然大学に来なくなったら、後味の悪い思いをするだろう。ああ見えて仲間思いのやつだから、心配が過ぎて倒れるかもしれん。
俺の人生に関わってきた、多くの人たちの顔が蘇ってくる。彼らの表情がみな笑顔なのは、俺が愛されていた証拠なのだろう。
……迷惑はかけたくない。
俺は、たぶん死にたくないんだろうな。
でも――ああ、しかし、これは、どだい無理な話である。
夢想も虚しく、悪魔の腕は降り下ろされた。