#5
そんな近年稀に見る失恋の後、先ほどお腹いっぱいになるまで観せられたラヴィンヒルトの俯瞰イラストと、その右端にナウローディングと文字が描かれるだけの画面を、これまた数分間見せつけられた。
一向に始まらないゲーム。
オープニングは終わった。「課金するとスゴいよ!」という製作者側の余興も済んだ。あとは本編だけというのに、それがまた、始まる気配が全くない。今回のロード画面には、読み込み状況を表すパーセンテージがないのだ。
イライラした俺は、スマホのタッチパネルを適当に叩き始めた。
ラヴィンヒルトの中央にある、公園と思わしき広場を人指し指で連打したり、ナウローディングの文字を中指でずっと触り続けた。おら、反応しろや、おら。
……そう言えば、こんな事を前にもした覚えがある。
そう、あれは高校生の時。
パソコンを使う授業の最中に、事もあろうにパソコンを壊した時だった。その当時は、「キーなんちゃら」というボタンが沢山付いた板をカタカタと弄っていたんだっけ。すると突然、画面が暗くなって、パソコンが永遠の眠りに付いたのだ。
苦い記憶を反芻していると。
いま俺が触れているスマホの画面も、突如として暗くなった。
「うわっ!」
バグったのかと思って、俺はスマホから手を放した。
カーペットにポトリと落ちたスマホの画面には、荒々しいドット調のフォントで、「ハイ」と「イイエ」の二つの項目だけが表示されていた。
ハイ。イイエ。
怪しさ満点の二択が、画面に並ぶ。
「……な、なんだよ、これ」
何事が起こったのか混乱していた俺は、妹を呼びに行こうと自室のドアのノブに手をかけた。餅は餅屋に。こういう時は専門家に尋ねるべきだ。
しかし、ドアを半分開けたところで、俺は踏みとどまった。
婆ちゃんと母さんと、そして妹が俺のために用意した──多分、妹は嫌がらせ目的で協力したであろう──スマホを、あろうことか半日でお釈迦にしたら……三人はどんな顔をするだろうか。白い目を向けてくるのは想像できる。
(あ~あ、やっぱ兄ちゃんには、スマホはムリだったか~。まっ、知ってたけどねぇ)
妹に呆れられるのは、兄としてまことに遺憾である。
(もう、お兄ちゃんったら。また壊したの? どうしてお兄ちゃんは、そうやってすぐに物を壊すの? ぷんぷん)
なにも、壊したくて壊しているわけじゃないんだってば、母さん。あとその年で「ぷんぷん」って言うのも止めてくれー!
(やれやれ。スマホのローンは、お前の小遣いから支払うことにしよう)
ひーっ、婆ちゃん、それだけはご勘弁をー!
しばらく俺は廊下からの風にあたりながら逡巡し、ついには扉を室内側からパタンと閉めた。
出来る限り……そう、自分の力でどうにかなる段階まで、精一杯がんばろうと思う。俺のプライドと、なけなしの小遣いのためにも。
妖しいオーラ(LEDライト)を放つスマホに、そろりそろりと近付く。危険物を触れるようにスマホを震える手で持ち上げ、面と向かい合った。ごくりと唾を飲み込む。ど、どうすれば良いのだ、これから。
そ、そうだ。
こういう時はイエスマンになればいいのだ。昔、タケナカから借りたゲームをやっていたときの事だ。進行に詰まってしまい、俺は持ち主に尋ねてみたのだ。
「ここをクリアするには、どうしたらいいんだよ?」と。
するとアイツはこう言った。
「このゲームの選択肢で困ったら、とりあえず『はい』を選んでおけばいい」
「そんな簡単に人を信用していいのかよ?」
「お前はそうやってすぐ人を疑うからいかん。ってかコレ、ゲームだし」
大学生になってリア充に昇華した、あのタケナカがそう言っていたのだ。その助言どおり、「はい」を選んだお陰で俺はゲームの難局を乗り越えられた。ちなみに、次のステージで進行不能バグにまんまと引っ掛かってしまい、ゲームはクリア出来ず仕舞いで持ち主に返したのだが、まあ、それはそれだ。
俺は揺らぐ人差し指で、「ハイ」を触った。
頼むぞ、タケナカ!
お前を信じているからな!
途端に、画面に映っていた二つの項目が消えた。黒い画面が続く。しばらくすると、スマホからカリカリと何かを引っ掻くような異音が発生した。おい、タケナカ。話が違うぞ!
何事かと思っていると、
「あっつ!」
スマホが急激に熱を持ち始めた。思わず落としたスマホの画面に、いつの間にか文章が表示されていた。
『他世界接続システム_ガ_検知サレマシタ』
他世界接続システム? なんだ、それは?
カリカリと音を鳴らし続けるスマホ。何かの焦げる臭いが、鼻についた。見るとスマホの下のカーペットから煙が立ち上っている。
「まずい!」
俺はスマホを持ち上げた。煙を燻らせるカーペットを片手で消火しようとするが、反対の手に持ったスマホの方が危険だった。「ひゃあっ」と、だらしない悲鳴を上げて、俺は熱を帯びたスマホをお手玉ように左右の手で持ち変えながら、学習机の横へと移動した。樫の木で出来た天板にスマホを着地させる。ここならすぐには焦げないだろう。
両手を振って冷ましながら、俺はスマホの画面を覗き見る。先ほどの文章が表示されているだけで、変化はない。
「な、なんなんだよ、コレは」
独り呟いた、その時だった。
強烈な耳鳴りが起こるのと同時に、頭のなかに激痛が走った。
声さえ出せないほどの痛み。火箸で脳みそを掻き回されるような激痛。俺は学習机に寄りかかって頭を抱える。
ふと視界に入ったスマホに、異変が現れた。そんなものに意識を向けるほどの状況ではないにも関わらず、俺はスマホの画面を注視した。表示されていた件の文章が、どんどん滲んでいく。コーヒーにミルクを入れてスプーンで混ぜ合わせたように、白色の文字列は渦を巻いて画面の中心に引きずり込まれていく。
今度は俺の見ている景色が歪む。まるで熱を加えた飴細工だ。机が温めたチョコレートのように溶けていく。
頭痛が激しくなる。バランス感覚がなくなって、俺はカーペットに倒れこんだ。体を悶えさせているのか、地面が揺れているのか。体を横にしていも、平衡が分からない。
天井がドロリと蕩けて、床に垂れる。
息が出来ない。きっと上唇と下唇が癒着しているせいだ。鼻も潰れてしまっているらしい。自分の体もまた、ドロドロに溶けているのが感覚的に分かる。
俺の顔めがけて天井から照明が垂れてくる。生温い肌触りと共に、俺の目は、顔ごと潰された。やがて体全体が何かと融合し、一寸も動かす事が出来なくなった。
暗い、完全な暗闇。カリカリとスマホが発していた音だけが聴こえる。
一分だろうか、それとも一時間? 時間の感覚すら虚ろになったときだった。
目の前で、白い光が弾けた。
その光は、黒一色の世界に小さな白い粒を撒き散らしていった。沢山の粒子が、さながら流星群のように四方八方に飛ばされていく。
一つの白い粒がこちらへと飛来してくる。
小さな粒は徐々に大きくなり、自分に近付いているのが分かる。黒い世界が一転、白に塗り潰される。熱波が俺を襲う。肌が焼けていく気がしたが、今の自分に体という物が存在しているのだろうか。手で顔を覆おうとしようにも、腕がない。眩しさに目を瞑ろうとしても、瞼がない。
やがて痛みも熱さも、全てが消えた。
俺の意識が維持できたのは、ここまでだった。
長らくお待たせ致しました。
ここから、異世界編に入ります。