オープニング。
誰だって、得意なものはある。
俺の爺ちゃんは料理が得意で、二年前に、めでたく定年を迎えてからは、我が家の夕飯をほぼ毎日作ってくれるようになった。
これがまた実に美味い。爺ちゃんに料理の才能があったなんて俺は知らなかった。今年から高校生になった妹が、「また体重が増える」と愚痴を溢しながらも、爺ちゃんお手製の青椒肉絲を幸せそうに頬張っていた。
家族の胃袋を掌握した爺ちゃん。
しかし、爺ちゃんは皿洗いが苦手だった。
誰だって得意なものがあれば、不得意なものだってある。俺より四十飛んで六年も早く生まれた爺ちゃんとて、例外ではない。
料理担当になった当初は、「皿洗いも任せておけ!」と胸を拳で叩いていた爺ちゃんだったが、その一週間後、何気なく母さんが食器棚をいじっていると、何故だか皿が減っていたそうだ。一枚や二枚じゃない。皿は数十枚単位で食器棚から消失していたのである。
皿が勝手にいなくなるわけがないので、訝しんだ母さんは早速、家族会議を開いた。
「最近お皿が無くなっているんだけど、誰か知らない?」
母さんの言葉に、俺と妹、親父と婆ちゃんが首を横に振った。会議の開催者である母を除く家族五人のうち、四名が同じ動作をしたわけだ。ただ一人、爺ちゃんだけは、たらたらと汗を流しながら卓袱台の木目を見つめていた。一家全員の疑いの目が爺ちゃんに集中する。
「ねえ、お義父さん、お皿、知りません?」
母さんが口に笑みを浮かべて尋ねる。その目は据わっていた。婆ちゃんに、母さんに、そして妹。うちの家族の女は男よりも強い。強いというより勢いがある。最年長の爺ちゃんであろうと、女性陣のパワフルさには昔から頭が上がらなかった。だからだろうか。爺ちゃんはテーブルに両手を付けると、頭を下げた。卓袱台の天板に額を擦り付け、観念したように爺ちゃんは言った。
「犯人はワシじゃ。本当にすまんかった!」
かくして我が家の『お皿失踪事件』は、犯人の自供によって呆気なく幕を下ろした。
後日、割れた皿の破片が、爺ちゃんの部屋の押入れで発見される。母さんと婆ちゃんの二名のガサ入れが行われると、押入れの中から乳白色のビニール袋に詰まった元食器が引っ張り出されたのである。確固たる証拠を突き付けられた犯人は、「燃えないゴミの日に内緒で捨てるつもりだった」と、子供のようにしょんぼりしながら供述した。爺ちゃん、うちの町では、陶器類は燃えないゴミの日しゃなくて専用の捨てる日じゃないとダメなんだよ。
「うちのバカ亭主が悪い事したねぇ」
そう謝る婆ちゃんにも、旦那の事を悪く言えない苦手分野がある。それが料理であった。
昔に遡る。俺が産まれる前の事だから、だいたい二十年くらい前になる。これは俺が子供の頃に母さんから聞いた話だ。両親が結婚し、爺ちゃん婆ちゃんを加えた四人家族が構成された頃。義理の母となった婆ちゃんの料理を食べて、若かりし母さんは目を丸くしたという。
「お味噌汁がドブと同じ味をしている!」
その昔話を聞いて、ドブの味を知っている母に肉親ながら一抹の不安を覚えた幼少期の俺であったが、奇っ怪な表現が示す通り、婆ちゃんの料理は母の口に合わなかったようだ。有り体に言えばクソ不味かったらしい。以降、爺ちゃんが台所に立つまでの間の料理番は、母さんが行うようになったという。
婆ちゃんが本当に料理が下手なのか、にわかには信じられなかったガキの頃の俺は、それが事実かどうか爺ちゃんや親父にも聞いてみる事にした。「ウソだよね、とうさん、じいちゃん」
しかし男衆二人も母と同じように、口を揃えて俺の願望を粉砕してくれた。
「ドブみたいな味がしたな」これは爺ちゃん。
「た、確かにドブに近い、かも」これは親父。
ちょっと婆ちゃんへの風当たりが強すぎじゃありません? あとこの家族、ドブの味を知ってる人間多すぎじゃありません?
口伝じゃダメだ、これは本人に直接料理を作ってもらい、自分の舌で真実を確かめなくてはならない。婆ちゃん信者であった当時の俺は、婆ちゃんに手作りのお菓子を懇願した。すると婆ちゃんはすっくと立ち上がり、やにわに台所で作業を始めた。期待に目を輝かせる俺。その横で両親と爺ちゃんが不安そうな顔をしていたのを今も覚えている。
出来上がったのは、おはぎだった。
婆ちゃんは俺の頭を撫でて言った。「自信作だよ。さあ、お食べ」
疑いもせず俺は、おはぎにかぶり付いた。
以来、俺はおはぎを食べられなくなってしまった。
「おはぎ」という言葉を聞くだけで、体が震え出す体になってしまった。俺の舌は、餡の入ったお菓子を一切受け付けなくなってしまったのだ。
うちの婆ちゃんは、一言で表すなら、ほぼ完璧人間であった。家計簿を書いているのも婆ちゃんだし、母から献立を聞き、その材料を買いに行くのも婆ちゃんの役目である。チラシの情報は全て脳内にインプットされ、どの店の商品がお買い得かじっくり吟味してから買い物をする。我が家の財布は婆ちゃんによって管理され、電気の付けっぱなしや戸の開けっ放しを目敏く指摘するのも祖母の勤めであった。
厳しくはあったが、俺や妹が「欲しい」と言ったオモチャなどは無駄と言わず買ってくれた。
「いいかい。こういう時のために、節約はしておくべきなんだよ」
友達と喧嘩したときには、親身になって話を聞いてくれた。
「そういう時はね、早いうちに謝ったほうが良いんだ。明日、絶対に謝んなきゃいけないよ」
と優しく抱き締めてくれた。
そんな婆ちゃんが大好きで、「将来は婆ちゃんになる!」なんて可愛らしい事をガキの頃の俺は口にしていた。
言葉足らずである。
正確には、婆ちゃんみたいな立派な人、だ。
時を経た今、訂正しておこう。
因みに、妹もおはぎが嫌いだったりする。血は争えないものだ――妹に対して使う言葉じゃないのは百も承知だが。
とにかく、完璧超人だと思っていた婆ちゃんの裏側を垣間見て、俺は考えを改めることにした。婆ちゃんは完璧超人ではない。ほぼ完璧超人である。まあ、理想的な人物であるのに変わりないんだけど。
完璧な人間なんていないのだ。
誰にでも苦手なものがある。
母さんは買い物が苦手だ。いや、この場合、買い物を任せられないと言った方が正しいだろう。
昔、買い物担当であった婆ちゃんがとある事情で入院した時の事。カレーの材料を買いに行った母さんは、ついでにお持ち帰りの寿司を買ってきた。文章がおかしいと思うだろう? 残念ながら事実である。
マンホールの蓋みたいな大きさのプラスチック容器に、隙間なく詰め込まれた美味しそうな寿司。店名を確認すると、近所にある回らないタイプの寿司屋だった。唖然とする家族の面々。反して、「みんなの分も買ってきたわ」とニコニコ顔の母。母さん、今日はカレーじゃなかったの? みんなの分も――って発言から察するに、どうやら買い物の帰りに一人だけ寿司屋で小腹を満たして来たらしい。みんな母の謎行動が理解できず、頭の上にクエスチョンマークを浮かべている中で、当の本人は鼻歌混じりにエプロンを付けながら、こう言った。
「待っててね。今から、お夕飯を作るから」
かくして、その日の食卓には寿司とカレーが並ぶ事となった。
お米がダブっていますがな、母さんや。
以来、婆ちゃんが買い物に行けない場合は、俺がその代理を勤めるようになった。ムダな出費を押さえるために。母の「ついで」は、世間一般で用いられる「ついで」の領域を逸脱していた。
そんな母を苦手とする親父。
親父は、あの婆ちゃんと爺ちゃんの間に産まれたはずなのに何故だか気が弱く、一家では一番影が薄い。母さんに頭が上がらず、帰りが遅れた時なんかはいつも申し訳なさそうに体を小さくして叱られている。
俺が中学生の時。絶賛反抗期であった俺は、父親の呼称を「父さん」から「親父」へ切り替えようと考えていた。そして、リビングで新聞を呼んでいる父の背中に向かって、
「なあ、親父」と声をかけた。
「ヒッ!」
それが父の反応であった。父さんは平静を取り戻せないまま言葉を続けた。
「ど、どどどどど、どうか、したのか?」
「い、いや……何でもないんだ、ゴメン」
何で俺は謝ったのか。
ただ、慌てふためく実父の姿を見て、この人にだけはこの先一生、迷惑は掛けられないなと思った。どうか早死にだけはしないでくれ。
あと、この一見の裏側で母の呼称も「おふくろ」に変えようとしたのだが、「母親に向かっておふくろとは何ですか!」とブチギレされたので、大学生になった今でも「母さん」と言う呼び方を継続している。親の心子知らずとはよく言ったものだ。俺は母さんの考えを全く理解できない。母さんとおふくろの違いって何だっけ。
分からないと言えば、「母さん二号」である妹の思考もまた、理解が追い付かない。
妹の苦手なもの。たぶんそれは「落ち着き」だ。
今年から花の女子高生になった妹は、「恋愛経験豊富な乙女」を自称している。恋愛経験豊富な女が『乙女』を名乗ってんじゃねえ、と純潔主義者な俺は脳内で唾を吐いていたり、本人に説教を垂れたりしているのだが、こいつは全然、聞く耳を持たなかった。落ち着きがないので、人の話は基本的に聞かない。
実際のところは、「失恋経験豊富なフラレ魔」だ。
マセてんのか、楽天的なのか、学習能力に乏しいのか、あるいはこの三点全てを内包している底抜けのアホなのか。あらゆる男子に告白しては、よくフラレる。その度に、「またフラレたー!」と泣き叫ぶこいつを婆ちゃんが慰めるのは、うちで年中観られる風景の一つだ。春先にフラレる事が多いので、爺ちゃんは「春の風物詩」と喩えていたが、ぶっちゃけ割とどうでもいい。
告白の時点で恋が終了するもんだから、彼氏なんていた試しがない。
恋愛経験豊富な乙女かっこ笑いかっこ閉じ。
そんなやつに、
「兄ちゃんも今年から大学生なんだから、いい加減カノジョつくりなよ」
と上から目線で諭されても、ただただ腹が立つだけだ。
「うるせぇ、フラレ魔」
そう返してやると、間もなく妹は目に涙を湛え始める。
「うええええん、ママぁ! おばあちゃあん! お兄ちゃんがぁ、お兄ちゃんが、いい年して妹をイジめるぅ!」
「いい年して泣くな、気持ち悪い」
「つれないことを言うじゃん、兄ちゃんよお」
先ほどの涙は何処へやら。向日葵のような笑顔に切り替わる。
このように表情がコロコロと変わって、性格が掴みにくいからモテないのだ。彼女いない歴と実年齢がイコールの俺が言えた義理じゃないけど。
誰だって、得意、不得意がある。
けれど、欠けた所と飛び出た所があるからこそ歯車は回るのだ。我が家というマシンは六つの歪な歯車で形成されているが、存外うまく噛み合い、潤滑とまではいかずとも、それなりに良い塩梅で回っているのだ。居心地も悪くない。
……さて。
ここまで家族の短所を、本人の許可なく勝手に暴露してきたのだ。俺だけ苦手なものを述べずにいたのでは、家族に申し訳が立たない。
最後に一家の長男のポンコツ具合を綴って、物語の書き出し部分を終わらせるとしよう。
俺の苦手なもの、それは『機械』だ。
どれくらい苦手かというと、学校のパソコンを一回――いや、正確には二回――壊した事があるくらいには相性が悪い。
その悲劇は俺が高校二年生の頃、コンピュータを使用する地獄の授業の最中に起こった。訂正しておくと、俺にとって地獄なのであって、その授業自体はクラスメイトに何故か人気の科目であった。
苦手だからと言って、サボるわけにはいかない。
義務教育である小中学生の頃は、「昨日、婆ちゃんの手料理を誤飲してしまい、お腹が痛いので保健室に行ってきます」と仮病を使ってパソコンの授業をキャンセルしていた俺だが、高校生になってくると、その技は使えない。授業の参加率がしっかりと進級に響いてくるからだ。必修科目。必修なんて忌々しい単語が付属しているものだから、こんな俺でも授業に必ず参加しなくてはならないのである。
本題に戻ろう。
コンピュータの授業中、マウスという機器を操る事で、画面内の矢印が動き出す連動技術に俺が感嘆としていたら、突然その矢印が俺の命令を無視し始めた。矢印はマウスポインターと言うんだったか。そんな名前だった気がする。
とにもかくにも、横文字のおしゃれな正式名称を持つ矢印くんは画面の隅で停止したまま、頑なに動こうとしなかった。何事かと思い、俺はマウスの左のボタンを人差し指で連打すると、矢印くんは輪っかの形に変貌しただけでその場に留まり続けた。
――やれやれ、これだから機械は信用ならんのだ。
だんだんイライラしてきた俺は、横長の板に大量にくっついた文字付きのボタンを、おっかなびっくり幾つか突っついた。それでも反応が無かったので、今度は映画に出てくるコンピューターの天才よろしく、カタカタとリズミカルにボタンを押してみた。
――なにこれ、めちゃくちゃ楽しいんですけど!
などと浮かれながら、しばらくピアノを弾くが如くいじくり回して、ようやく俺は気付いたのであった。俺の不可解な行動に、隣の席に座っていた女子が引いていた。それはもう、この世でそうそうお目にかかれないくらいの引きっぷりだった。普段から大人しく、自分から発言するような性格ではなかったその女の子は、俺とどう接すればいいのか分からないらしく、見知らぬ環境に置き去りにされたウサギのように、小刻みに震えていた。
見てはいけないものをつい見てしまい、理解が追い付かず怯えている女子と、俺は目が合った。
彼女はサッと自分が操っているパソコンのモニターに視線を反らした。垂れ目に収まる黒い瞳は落ち着きなく揺れていて、彼女が顔を向けている画面では、マウスポインターが不規則に震えていた。
そこで、俺はようやく正気に戻った。
咳払いしつつ深く反省した。
ああ、何て幼稚な事をしていたのだろうか。
しかも、こんな純粋でいたいけな女子を怖がらせるとは。紳士を志す者としては、まさに恥ずべき所業だ。
二度と今回のような酔狂な真似はしないと、俺は心に固く誓った……でも、もう一回だけボタンを押したい衝動に刈られた。もう一回、これで最後だからっ。
俺は板にくっついた数あるボタンの中から、何も記されていない鍵盤に狙いを定めた。このボタンはきっと製造のミスだろう。だって他のボタンには文字がウザったらしいほど印刷されているのに、これだけ無地なのだ。分解すれば、配線だって施されていないだろう。こんな欠陥品を学校の教材に使うなんて、学校側も資金に余裕がないんだな。
なんてアホみたいな事を考えながら、俺はうきうきと空白のボタンを押した。
突然、画面が真っ暗になった。
いや、よく見ると白色の文字で英語の文章が羅列している。なにこれ、隠しコマンド? とりあえずもう一回、空欄のボタンを押してみる事にした。
俺が軽快にボタンを叩いた途端、蝋燭の灯火へ息を吹き掛けるように、パソコンは機械特有の稼働音をスッと停止させた。
ここへ来てようやく危機感が生じてきた俺は、電源のボタンを押してみた。
が、反応なし。
電源のスイッチを何度も何度も押したが、うんともすんとも言わなかった。隣の女子が、おろおろしている。当事者である俺もおろおろし始める。
俺は悟った。コンピュータは、俗に言う、永遠の眠りについたのであろう。
――機械にも寿命があることを知り、俺は世界の諸行無常さに内心で辟易しながら、先生のお叱りを黙って聞くことになったのである。
以来、パソコンの授業の際は、気弱な女子に代わって教師が俺の隣席に常駐するようになった。良からぬ事をしでかさないように目を光らせるのだ。パソコンの授業がある度に、クラスメイトの忍び笑いが聞こえる気がして、幾度となく居たたまれない気持ちになった。
まあ、そんな状況下でも尚、二台目のパソコンをお釈迦にしてしまったのは、流石に申しわけなく思っている。『コンピュータの破壊者』として学校中の七不思議もとい笑いダネにされたのは、誰にも知られたくない恥ずべき伝説の一つだ。
……以上が、俺が高校生時代の頃に築いた、最たる黒歴史である。
この出来事から学んだこと。それは、安易に機械へ近付いてはいけないということだ。特にパソコンなどのスーパーマシンへは、半径二メートル以上近付かないように常日頃から注意するようになった。
「大学生にもなってパソコンを使いこなせないのはヤバいよ、兄ちゃん」
妹にそう警告されたが、これは致し方なき事なのだ。
確かに同感だ。同感だけど、自分の事ながらどうしようもない。どうやら俺は産まれてくる時代を間違えてしまったらしい。
俺にとって機械は、いわゆるパンドラの箱だった。
きっとパソコンの授業の失敗は、触れちゃいけないという神様からの警告だったのだ。お前が機械を弄るなんて百年はやい!
――しかし、俺はそれを無視した。
事件から数年後。大学生になった俺は、ちょっとばかり文明の力に肖ろうとして身の程も弁えず、とある事情から、とある機械に手を伸ばしてしまったのである。
だから、二度目の事件は起きた。起こるべくして、起こったのである。
さて、これからここに綴るのは俺自身の、いわば戒めみたいなものだ。
誰に見せるわけではないが、書いておいて損はないだろう。場合によっては遺書になるかも知れない。
俺の軌跡をここに綴ろうと思う――同じ過ちを繰り返さないために。
まずは経緯から書いていこう。
俺がどういう因果で、パンドラの箱を開けなくてはならなくなり、どういう運びで、この『迷宮都市ラヴィンヒルト』という異世界の街へやって来て、そして何故に、『ネクロマンサー』なる職業に身をやつしてしまったのかを、ここに記そう。
お読み頂きありがとうございます。
力不足ゆえ、亀のような遅い更新になりますが、よろしくお願いします。