~嫌悪 の 払拭~
「はいはーい、今日はしゃぶしゃぶでーす」
遂にこの時がやってきた。
鍋を覆う程に積み上げられた肉タッパー、それを開放する時が。
もちろん栄養バランスも考慮し野菜も忘れない。
白菜、ネギに春菊、しめじにえのきと彩々に。
加えて昆布出汁の淡い香りも鼻腔を擽る。
特に空腹に苛まれる最中の勇達にとっては。
おまけにポン酢の突く様な香ばしい香りが食欲をも限り無くそそらせて。
トドメの白米がズドンと置かれれば、もう誰しもが唾を飲み込まずにはいられない。
もう皆、我慢の限界だった。
勇も、ちゃなも、剣聖も。
ついでに勇の父親も。
豚肉、牛肉、鶏肉。
並べられた肉達が欲するままに視線を誘う。
まるでその手に取って見ているかの様に。
しかし不幸にも、その鋭くなった感覚が勇に思い起こさせる事となる。
昼間目の当たりにした光景を、フラッシュバックとして。
人が沢山死んだ。
それも無惨な姿となって。
真っ黒な血を流して、動かぬ肉塊となって。
その末に、統也もが動かなくなって。
そして、自分もまた引き裂いた。
魔者という存在の皮を、肉を、骨を。
その感触と共に、その命をも奪った事をも思い出してしまったのだ。
「ぁごぶッ!?」
その感覚はたちまち嫌悪感と成り替わる。
耐え難い嘔吐感をも引き連れて。
でもここで撒き散らす訳にはいかない。
そんな理性がトイレへとひた走らせる。
ドタドタドタッ!!
必死に口を抑え。
荒々しく足音を掻き鳴らして。
するとたちまち「バタァン」と木打音が家中へ響く事に。
突然の事に両親もちゃなもただ唖然とするばかりだ。
食べようと伸ばしていた手が思わず留まる程に。
その一方で、剣聖は豹変の理由に気が付いたらしい。
ただ心配する事は無く、菜箸を掲げてはマイペースを貫くという。
おまけに「イッシッシ」と嘲笑う始末である。
「あ~緊張の糸が今ごろ切れやがったな。 ま、すぐに戻ってくらぁ。 それよかメシだメシ!」
遂にはこれみよがしに菜箸を打ち鳴らして食事を請う。
この自由奔放さもまた剣聖の持ち味なのだろう。
気付けば皆がそんな雰囲気に流されていて。
その言葉を信じて食事を始めたのだった。
一方、勇はと言えば―――
催した吐き気に抗う事も叶わず。
トイレへと辿り着いて間も無く、吐しゃ物を便器へとぶちまけていた。
「ゲホッ!! ゲホッ!!」
昼から何も食べてなかったともあり異物感は無いのだが。
しかし突如湧き出た胃液が喉を焼いた。
不快感を伴う苦みと共に。
ただただ理由もわからないまま。
でも実の所、こういった現象はそれほど珍しく無い。
人は他者の死を目の当たりにした時、吐き気を催す事があるからだ。
個人差こそあるが、時にそれは数日にも続く事も。
場合によっては食事も喉を通らず、最悪のケースでは生死に関わる事もあるのだという。
本来なら見た途端に誘発されるのだが。
恐らく勇はずっと緊張状態を保っていたから、脳が余計な情報を受け入れなかったのだろう。
けれどその情報を処理しないまま「肉」という新たな情報源を強く得てしまった。
食事という安堵の元と、人死にの結果という苦痛の元を。
それが今更の嘔吐を誘発した原因となった様だ。
だが思ったよりも心に負担にはならなかったのだろうか。
たった一度吐いただけだった。
たったそれだけで妙に落ち着いていて。
吐き気の要因は呼吸の最中に実感出来ていた。
きっと人の死が言い得ない嫌悪感を呼んでいたのだと。
それが吐き気を誘発したのだと。
それでもこの落ち着きだけはどうにも説明出来ない。
自身がそれほど強い心を持っていたとは思っていなくて。
―――なんだろ、まるであんな出来事が当たり前になったみたいだ―――
これが勇の個性なのだとしたらまだ説明は付くのだが。
何か心に引っ掛かって、自分自身でそう納得出来ないでいる。
それだけ他意的とも思える違和感を感じていたから。
その中でふと、ある事を思い出して。
思うままに深呼吸を三回、額を拳でトントンと軽く叩く。
統也の真似だ。
何となく、あの精神統一法を実践してみようと思ったらしい。
するとどうだろう。
途端、モヤモヤしていた気持ちもが「スゥー」と晴れていく。
ぼやけていた視界と共に。
「統也もこんな感じで落ち着けたのかな」
だからこそこう思わずにはいられない。
統也の常々とした冷静さが実感出来る程だったから。
心の強さの源がこの仕草に起因しているのかもしれないのだと。
ただこれが統也自身の感じていた事となのかと問えば、実は違う。
この精神統一法とは言わば反復動作で。
慣習と定義決めを必要とする個人的手法に過ぎないのだから。
他者が真似しただけでは普通の深呼吸にしかならないだろう。
でも、気が晴れたのは事実だ。
これが行為のお陰なのか、不思議な落ち着きのお陰なのかはわからないが。
故に肉の事を思い返しても何の感慨も沸かない。
昼間の惨劇を思い出しても落ち着いたままで居られる。
その代わり、膨れ上がっていた食欲も綺麗さっぱり消えているけども。
それはまるで吐瀉物と共に気持ちの一切合切をも吐き捨ててしまったかの様で。
「ハァ、なんなんだよコレ……」
感情とそぐわない現象の数々に、もはや戸惑いを隠せない。
それだけ、全てが勇にとって未体験の事だったから。
そんな新たなモヤモヤを抱えつつ、ようやくトイレを後にしては洗面所へ。
口に残った不快感と心の迷いを拭う為に。
―――という訳でさっぱりした後に戻ったのだけれども。
結局、夕食にありつく事は出来なかったという。
長く離れている間に剣聖が勇の分も丸っと平らげてしまったからだ。
とはいえ食欲も失せた今なので、「仕方ない」と諦めも付けた様だが。
ただ一つ後悔があるとすれば、ちゃなの食事姿を拝めなかった事か。
なんでも親曰く、これ以上無い至福そうな顔を浮かべていたのだそうな。
どうやらしゃぶしゃぶを食べた事が無かったのだとか。
出身不明の剣聖ならいざ知らず、日本人であるはずちゃながまさか未体験とは。
些細だけれど、彼女の謎もますます深まるばかりである。
でも、謎がどうあれ優しくはあるのだろう。
親から貰ったパックジュースを空腹であろう勇へと差し出していたから。
もちろん純粋に恣意的な好意として。
しかし勇がそれを素直に受け取る事はとても出来なかった。
既に彼女が口を付けた後だから、なんだか畏れ多くて。
無垢な少女の好意は、少年の青い心をくすぐらずにはいられない。




