~彼女 の 名前は~
渋谷での出来事の話も済み、ようやく夕食の時が訪れた。
勇の両親の動きもあって準備は万端だ。
少女の方ももう入浴を終えて勇の隣に座っている。
それと意外な事に、少女は結構な美少女だった。
あの前髪の先には見惚れてしまう程の綺麗な顔があったのだ。
小顔に細い顎、パチリとした瞳に透き通った白い肌と、とても女の子らしい様相が。
ヘアピンで避けて初めてわかった事実である。
ただそんな子が何故あれほど前髪を伸ばしていたのかはわからない。
きっと何かしらの理由があるのだろうが。
まだ会ったばかりだから訊くのも野暮というもので。
その事はそっと胸に仕舞っておこうと思う勇なのだった。
そんな訳で昆布が躍り続ける。
晩餐に控え、鍋の中で意気揚々と。
「……喰っていいか?」
「ダメですって」
きっと剣聖はこう思っているのだろう。
「この家はこんな物しか出ない貧しい家なんだな」と。
目尻の下がった哀しみの目がそれを物語っている。
でもこの昆布を食べてはいけない。
好きな人も居るだろうが、これは食べる為の物ではないのだから。
「おっ、肉あるじゃねぇかぁ!!」
そんなイメージを払拭せんと、母親が沢山の解凍生肉を食卓へ。
盛るのも面倒と言わんばかりに、保存タッパーのまま登場だ。
これにはあの剣聖も喜びを隠せない。
加えて意外な人物までもが反応を見せる事に。
「お肉……!」
少女もが食い付いた。
その目を血走らせる程に。
きっと余程お腹を空かせているのだろう。
「これは遠慮しないで食べてね。 あ、そう言えば―――」
するとこんな時、勇がようやくとある事実に気が付く。
ずっとずっと忘れて訊いてなかった、とても大事な事を。
「ねぇ君、そういえば名前訊いてなかったよね」
「あ……」
そう、少女の名前をまだ訊いていない。
出会った時から今まで訊く余裕も無かったから。
生き残る事に必死で、名前なんてずっとおざなりで。
でもこうやって落ち着けたからこそ、ようやく思い出せた。
「おまっ、名前も訊いてなかったのか!?」
「呼び込んだ子の名前も知らないなんて、幾ら何でも手が早過ぎよ!!」
ただ、思い出すタイミングが少し遅かったらしい。
とんでもないと怒る両親を前に、勇も少女もどこか申し訳なさそう。
ちょっとおかしな方向でエキサイトしている訳だけども。
一方の剣聖はと言えば、ニヤニヤと眺めるだけで。
勇が助け舟をと視線を向けても、逆に笑窪が吊り上がるばかりだ。
きっと相変わらずの他人事として愉快と見ているに違いない。
とはいえ、改めてみると意外に恥ずかしい。
シャイな勇としては覚悟が必要な程に。
例え今日一日一緒に居たとはいえ、互いに何も知らない者同士だから。
「ご、ごめん、名前教えてください」
「た、田中っていいます」
しかも二人して恥ずかしそうに赤面しながら俯いているもので。
その所為か、こうして言葉を交わす姿はまるで愛の告白のよう。
少女に至っては指を絡めているので尚更だ。
「下の名前は~?」
そんな空気も読まず、キッチンから母親の声が。
下の名前の方がやはり気になるらしい。
しかし少女から声は返らなかった。
唇は何かを喋りたそうに僅かと動いてはいるけれど。
伝えるのが恥ずかしいのか、それとも口に出したくない理由があるのか。
するとそんな時、少女が何を思ったのかトテトテと洗面所へ。
すぐさま戻って来るや否や、勇に何かを差し出す。
生徒手帳だ。
手荷物は無くとも、これだけは懐に置いていたらしい。
どうやら中も見ていい様で、続け様に頷きも見せている。
なので遠慮なく、と開いて見れば早速彼女の名前が。
『田中 茶奈』。
これが彼女の名前だった。
「田中……サナさん?」
とはいえフリガナはふられておらず、読み方はわからない。
勇が思い付いた名を上げるが、対して彼女は顔を横に振るばかりで。
でもそれ以外にどう読んだらいいか。
語呂的に別の読み方でもあるのだろうか。
勇が思わず「うーん」と喉を唸らせる。
状況はまるで名前当てクイズだ。
しかしそんな時、少女が小さな唇を「キュッ」と噛み締めて。
僅かな勇気を振り絞り、震えた声を小さく上げる。
「ちゃな、って言います……」
とても小さな声だった。
それが彼女の精一杯だったのだろう。
でも勇には不思議としっかり聞こえていた様で。
「ちゃなさん、か。 なるほど、そう読むんだ」
その女の子らしい可愛い響きに「ほぇ~」と喉を唸らせる。
恥ずかしがっているのが不思議と思うくらいだ。
ただ驚きは無い。
読み方も漢字通りで、普通な雰囲気の名前だったから。
確かに「茶」という文字は少し女の子には相応しくなさそうだけれど。
「ちゃなちゃんか~可愛い名前じゃなぁい!」
こうして勇の母親がウキウキと返す辺りは尚更で。
美容師という仕事柄、藤咲家の中で誰より感性が若い。
そんな彼女が言うのだからきっと不自然ではないのだろう。
ちゃなもこの誉め言葉にまんざらでもなさそう。
恥ずかしがりながら手を合わせ、もじもじとした喜びを表す姿がここに。
ぶかぶかの袖でのその仕草は勇の視線をも奪ってならない。
「そ、そっか。 じゃあ……た、田中さん、今日はゆっくりしていってよ」
「はい、ありがとうございます」
こう応える声もほんの少し語尾が吊り上がっていて。
どうやらそれほど感情に乏しいという訳ではなさそうだ。
安心と喜びからだろうか。
俯いたその顔にはぷくりとした優しい微笑みが浮かんでいた。




