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こわいだん  作者: くろとかげ
1/8

現代版・破られた約束 前編

   私 視点


 一面を覆う白い壁は清潔感があり、何より美しかった。皮肉なことに、それが患者の命の残りを際立たせていた。

 ベッドで眠る妻の体は死期が迫っているせいか、入院初日の頃と比べて、ずいぶん変わり果ててしまっていた。そんな痩せこけた身体も、日の光に照らされれば少しはまともになるものかと思われたが、あいにくの雨だ。午前中はあんなに晴れていたのに。

「私が死んでも、私を捨てないでよ。ずっとあなたのそばに居させ、て」

 妻は度々そう漏らしていた。眼から涙を流し、唇を小さくさせ、途切れ途切れに呟くのだ。

「死ぬだなんて。弱気なことを言うなよ。お前らしくない」

「ううん。私、分かるの。自分の見えている世界がどんどん暗くなっていくの。体は、まるで泥の中に沈むように重いわ」

 返す言葉が思いつかない。私があんまりにも黙り込んでいたので、妻は続けて口を開いた。

「弱気になって、ごめんね。でもね死ぬのは怖くないの。本当よ。私、これまで好き勝手やってこれたから」

 笑えない冗談だけれど、私は思わずくすりとこぼした。

「でも最後だから、ふたつ。ふたつだけ。わたしのわがままを聞いて」

 私は頷いて妻のお願いを、叶えてあげると約束した。

「嬉しい。約束よ。絶対絶対」

「ああ、分かった。約束しよう」

 約束とは、安心だ。私は妻を安心させるため小指と小指を結んだのだ。

 妻が死んだのは、その翌日。苦痛や、恐怖から解放されたかのような美しく、安らかな死に顔であった。

 私と妻が交わした約束。

 ひとつは、後添えを作らないこと。

 そしてもうひとつは――納棺の際に、愛用していた携帯電話を"こっそり入れてほしい"というものだった。


   ***


 私たちに子供はいなかった。葬儀が終われば孤独な時間が増える。……予定だったが、どうやら私の思い込みだったらしい。

 友人の古泉(こいずみ)が、私を心配してか頻繁に会いにきてくれた。

 更に幸か不幸か、葬儀が一段落すると仕事も忙しくなった。人手が足りず与えられた仕事はすべて引き受けた。必死になった私に、喪失感で悩むという配はこなかった。

 それでも家に帰れば、物足りなさ、何より人恋しさを感じてしまう。だから就寝時間は早くしよう、と決めた。

 私の毎日はこの繰り返しだ。私は独り身でも十分にやっていけるということを知った。

 だが妻のことを忘れた日は、一度もない。


   ***


 妻が死んで1年が過ぎた。とある休みの日。いつものように、友人の古泉がうちへ遊びにやってきた。

 が、彼の様子が少しばかりいつもと様子が違う。こちらが酒を用意しても古泉は手をつけずに神妙な顔を浮かべじっとしているだけだ。

「こいつを飲む前にひとつ。気を悪くするかもしれないが、嫌にならず聞いて欲しい」

「…………何だ?」

「実は紹介したい女がいる。いい女性(ひと)なんだ。今度、会ってみてくれ?」

 予想外の言葉に私は口もとをヒクつかせた。

「おいおい。冗談は止してくれよ。私には妻が――」

「酒も飲んでないのにこんなこと冗談で言えるか。俺は本気だ」

 本気と口にする彼の顔は確かに真剣そのものだ。

「俺は心配なんだよ。お前の生き方。やり方がな。休みもほとんどとらずに仕事ばかり。飯もろくに食わない。こっちから誘わなけりゃ外にも出ない。そんなこと続けていたら早死にしちまうぞ」

「そうなったら、それまでさ」

 私が吐き捨てるように言うと、古泉は軽い溜め息をつき、悲しそうな表情を浮かべた。

「――でも古泉の心配してくれてるという気持ちは伝わった。ありがとう。分かったよ。せっかくだからその人と会って話をしてみようかな」

 そうだ。こんなことで互いの気分を悪くさせる必要はない。それだったら彼の話に乗って、その女に会ってみようではないか。それで、付き合うか否かを問われたら、ノーだとキッパリ断れば良いだけのこと。

 この時、私は誰とも付き合うつもりはなかった。私が愛する妻は、ただ一人なのだから。

 一週間後。

 古泉のやつはさっそく私の家に、件の女性を連れてきた。

 どうやら古泉の妻の、その妹の友達らしい。妻と比べると、静かで穏やかな退屈な性格の持ち主のようだった。

「大人しい性格だけどな、決して暗いというわけじゃないぞ。お淑やかで優しくて上品なお嬢様なんだ」

 と、そっと耳打ちされ、私は彼女を横目でうかがう。

 印象は清楚というよりは質素。暗い性格ではないようだが、かなりの恥ずかしがり屋(知人となら話せるが、初対面レベルだと顔を合わせることさえも困難。つーか口も効けないくらい)だった。

 外見と内面は一致していた。

「あの……大越、初音です。……この度は ごにょごにょごにょ 」

「え? 何? ごめんもう一回言って」

 相手の声が聞き取りづらく自己紹介もひと苦労だ。

 しっかし内気な人だな。こんな女と付き合えだなんて、あいつも良く私にすすめてきたもんだ。ギロリと古泉を睨む。

 ところが馴れとは不思議なもので、時間の経過とともに彼女とする会話はスムーズになり、大越初音の良い部分もなんとなくだが感じ取れるようになった。

 やがて私たちはその日のうちにすっかり仲良しになってしまった。本当に人間とは不思議なものだ。

 緊張をなくしたのか、初音は、ちゃんとしたまともな会話のできる女性となっていた。会話が楽しいと、人というのが見えてくる。酒が美味しくなる。

 こんな酒は久し振りだ。ぐいぐいすすんで、私も饒舌になる。

「じゃ、あとは若い者どうし、よろしくやってくれ」

 と、聞こえたのはいつだったか。気がつけば古泉の姿はなく、部屋には私と大越初音の2人だけとなっていた。

「あの」

 初音が私に言った。よどみなく流れるような口調だった。

「遅くなって申し訳ないのですが、奥様に挨拶をしてもよろしいでしょうか?」

 奥様――この単語に私の肩はピクリと反応し、丸くなっていた背筋は伸びた。

「ああ。ありがとう。か……」家内と言いそうになるのを無意識に止める。

 言葉を換えて「あいつも喜ぶよ」

 仏間へと案内すると、初音はしなやかな動作で部屋に入り、仏壇の前に正座した。

 その横で私はあぐらを掻いた。目を閉じ遺影に向かって手を合わせる初音の横顔に、不覚にも見入ってしまう。

 時が止まったかのような錯覚。私は数秒、いや数十秒は初音から視線を外せなかっただろう。

 低い鼻。薄桃色の唇。酒のせいだろうか頬はほんのり赤い。正直、地味で幼げな顔立ちだ。体付きも、まるでまだ少女を抜け出せていないみたい。色白の肌に、尖った肩。余分な脂肪はなく腕や首は細く華奢なイメージを醸していたが、不思議と健康的に思えた。

 唾で喉をならし、思わず視線を下げてしまった。

 紺のブラウスに浮き出た胸と下着のライン。首筋の美しさが色気を強調していた。

 私の視線がそうさせたのか、彼女は閉じていた目を開けて、こちらを見つめ返した。

 互いの視線がぶつかり合う。瞳が潤んでいる。と、私は思った。

 酒の酔いのせいだろうか。私の脳みそはぐるぐると回っている。ぐるぐるしすぎて狂ってしまった。でなければ遺影とはいえ妻の前で、初めて会った女を押し倒すことなんてできなかったはずだ。

 大越初音は私の行為を拒まなかった。ただ首を横にして、覆い被さる私から恥ずかしげに視線をそらしただけだった。


   ***


 死んでいると分かっているとはいえ、まだ妻を愛しているはずなのに、なぜ女を求めてしまったのか。

 酒のせいか。いや違う。酒には、我を忘れさせるほどの力はなかった。私は自らの意志で、大越初音の身体を求めたのだ。長い間、女に触れることのなかった私の欲が爆発したのだ。

 正直、妻には申し訳なく思っている。呪われ、祟られて殺されても私は文句はいえない。妻はけっこう過激なところがあったからな。どんな報いが降りかかってきても、それを不思議には思わないだろう。

 なのに私は大越初音と交際を結ぶことにした。自分でもどうかしていると思う。



 初音は田舎から上京した人間だった。控え目でオドオドした性格のくせに、舞台女優が夢なのだという。小さな劇団に入っていて活動に精を出しているらしい。

 話を耳にした時、正直信じられなかった。私は初音に黙ってこっそりと劇に足を運んだ。

 役を演じる彼女の姿から、真相が明らかとなる。

 なんとあの初音が豪奢な衣装に身を包み、大きく動き、喜怒哀楽をあらわにしながらハキハキと叫んでいるのだ。場面に応じて顔の表現を豊かにさせていた。

 まるで宝石だ。キラキラと輝いていて、私の心をどんどん引き寄せる。

 他の客の声がチラリと耳に入る。どうやら初音はそこそこ人気があるらしい。舞台で活動する彼女には多くのファンがいて、後輩にもかなり慕われているようだ。

 大越初音の人気に嬉しくなった私は、劇が終わったあと、見に訪れたことを当人に漏らしてしまった。彼女は恥ずかしげな表情を浮かべたが、素直に喜んでくれた。

 私たちの仲は日に日に強まっていった。

 かつては無茶苦茶だった私の生活も、やっとまともらしくなる。人のために働くことができ、力をつけるために食事をし、何より娯楽を味わう余裕がうまれた。

「お前太ったな」と古泉に言われるほどになった。

「幸せ太りだよ」

 大越初音との恋愛を満喫し、いよいよ私は彼女にプロポーズをした。結婚しよう、と。

 二度目の結婚。挙式は迷ったが慎ましくすませることにした。


   ***


 妻をもつと仕事の忙しさが邪魔になる。家にいない時間が多いのは変わらないのだ。酷い時には、朝帰りだってすることになる。

 それでも幸せな時間は続いた。もちろん、これからも、それが永遠であると信じていた。

 夜勤明け。クタクタになって家の玄関を開けると、驚いたことに初音が出迎えてくれた。

「うわ! ど、どうしたんだよ」

「ごめんなさい。どうか、どうか、私を赦してください」

 初音は額を床にすりつけ涙を流しながら喚いた。事態は把握できていないが、彼女の様子から、とんでもないことが起きたに違いない、と察した。私は冷静になることを努めた。初音の肩を抱き、立たせた。リビングへ移動しソファーへ座らせた。

 震える背中をさすりながら、なるべく優しい声で、

「どうしたんだ?」

「あの。どうか、どうか、別れさせてください。離婚させてください」

「は? り、離婚? どうして? 嘘、だよね? あ。もしかして私の接し方とか態度に、問題や悪いところでもあったのか。仕事ばかりで、かまってあげられる時間が少なかったからか?」

「違うんです。そうじゃありません」

「じゃあ、私の何がいけないと言うんだ? 理由(わけ)を聞かせてくれ」

「それは……」初音は口籠もった。「話せません」

 初音は子供がいやいやをするように、首を左右に振った。髪が乱れ、痛々しいくらいに床に抜け落ちていった。

「頼む。言ってくれ」

「できません」

「言ってくれ」

「できません。できないんです」

 このやりとりを繰り返す。仕事疲れのせいもあってか、優しく接しようと決めたつもりだったが、私にはもう限界だった。

「言え!」

 地団駄を踏みながら、私はとうとう声を荒げてしまった。

 怒鳴り声が初めてだったせいか、妻は肩をビクリを震わせ、黙り込んだ。

 息が詰まるような、重い沈黙が続いた。

「言えば、殺されてしまうの」

「……こ、殺される?」

 いったい誰に?

 そう言葉を続けようとした瞬間、妻が先に答えてくれた。

「前の奥様が出たんです」

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