好きなひと
アリサは毎日のように理科室へ向かう。目的はもちろん質問することではなく、タケダに会うためだ。わからない場所を質問してから、そのまま採点をしたりプリントを作るタケダのそばで問題集を解く。ときたまは雑談をふったり。
ヒゲはそらない、眼鏡もダサい黒縁、なんていう「おしゃれ」とはかけ離れた風貌の彼を好きになったのはいつだっただろうか。ごつごつした大きな手で、自分を褒めて欲しいと、頭を撫でて欲しいと思うようになったのはいつだっただろうか。嫌いだった化学は、タケダを好きになるのと同時に好きになった。それくらい、彼が好きだった。
自分の感情が報われるわけがないのは知っている。けれど、好きだから仕方がない。
下校を促すチャイムが鳴った。カバンを肩
に引っ掛け、ふとタケダを見た。いつもと変わらない白衣姿だ。
「せんせーはなんで教師になったんですか?」
「んー? そうだなぁ……」
採点する手が止まることはない。タケダは考える。
「……好きなひと、の影響かな」
強いて言うならそうなのだろう。もはや会うことのできない人。一瞬締め付けられた胸の中身を無視する。今ではもう関係のないことだ。
「……ふーん」
興味の失せたような声に違和感を感じて、生徒を見上げた。
「どうした」
「べっつにー? ただ、」
ニヤリと彼女が笑った。
「ショージョマンガみたいだなーって」
「ばっ……」
顔が熱くなるのがわかった。
「からかうな!」
「いっやー、そんな鈍感なくせにぴゅあっぴゅあな恋愛してたんデスネー」
「鈍感って……」
「さいならっ」
「あ」
廊下を少し走って、理科室から離れた。
(何考えてんの、あたし。先生に好きなひとがいるとか、別にフツーじゃん。あたしより年上なんだから)
それでも、苦しくて仕方がなかった。切なかった。
(てか、先生だもん、好きになっちゃいけないのくらいわかってたじゃん)
涙が零れてきた。それが何によるものなのかはわからない。相手に対する嫉妬なのか、タケダに好きな人がいたことへのショックなのか。廊下の片隅で、うずくまって静かに泣いた。タケダが様子を見に来ないことを願う。
(こんなの見られたくないし)
涙を拭き、トイレに駆け込んで顔を洗った。鏡の中の顔はまあ、泣いた後には見えないだろう。
「よくよく考えたらさ、」
アリサは声に出して自分に言う。
「今でも好きなのかはわからないし、ダイジョーブ。あたしの方が有利だ」
切なかった気持ちは水と涙が流してくれたようだ。
「っし! かーえーろっと!」
アリサはカバンを持って階段を駆け降りて行った。
タケダは乱暴に閉められた木製の扉を見つめて、一人ため息をついた。
(なんであーゆーとこまで似てるんだ)
学生時代の好きな人にそっくりな行動に、笑うことしかできない。高校時代の女教師も、人をいじるだけいじってさっさと消える人だった。
(なんで俺は毎回、そーゆー関係になれない人を好きになるのかね)
人のいなくなった理科室で、タバコに火を付けた。彼女にも、他の生徒にも悟られてはいけない切なさを押し隠すために。
手のかかる生徒だ。けれど、周りを明るくする向日葵のような笑顔で、皆仕方ないと納得してしまうような生徒なのだ。それはかつての女教師にも通じるものだったが、それが彼女に惹かれた理由ではない。アリサの人を惹きつける力は、女教師になかった。
辛い思いをしている人間に、決して重くはならないように助言を与えて去って行く、何気ない格好良さに、タケダは惚れたのだった。
(ま、何にもできはしないし、するつもりもないけどな)
見えない誰かに言い訳をして、煙を長く吐く。
「さ、仕事仕事」
夕焼け空に、灰色の煙が消えていった。
「切なさを押し隠す」
このワードから思い浮かんだのは片想いでした。数ある片想いのシチュエーションでも、個人的には「両片想い」が好きなのです。そして二人を配置した瞬間、彼らはベタな道を走って行きました。まったく……
では、またお会いできる日まで。