獣と人と
奇妙な乱入者によって一瞬にして血臭漂う阿鼻叫喚の地獄と化した酒場。にらみ合うサガとヘルハウンドの張り詰め切った殺気にあてられて、一人としてその場を動けない。
だが、その拮抗を一つの素っ頓狂な叫びが破った。
「アニキー!?さっきからなんなんですかッ!?また喧嘩とかやめてくださいよ本当!!」
二階の客部屋に続く階段の一番上からラタトスクが降りてこようとしていた。
あまりにも大きな音の連続にラタ意外にも何人か宿泊客が様子を見に起きてきたらしい。
何人か、で済んでいるのは酒場での喧嘩など日常茶飯事だからだろう。実際ハリやジェイスは真っ先に起きてきてはいないようだ。部屋から客たちの反応を伺ってはいるのかもしれないが。
「ちっ!馬鹿がっ!!」
反応が早かったのはサガもヘルハウンドも両方だ。が、サガの方には幾分か焦りがあった。
再び姿勢も低く風のように猛進するヘルハウンド。その速度と大きさによる威圧感は、まるで砲撃だった。ただサガが焦っているのは、その標的が自分じゃないことを察したからである。
「てめえもォっ!無視してんじゃねーぞって言ってんだろが!!糞犬っころがッ!!」
左右にステップを踏んでフェイントをかける魔獣の目的は、サガに食いつくことではない。その背後、やはり二階だった。迎撃の代わりにサガは手近にあった椅子を引っ掴み、ヘルハウンドに向かって投げつける。同時に、隣の椅子を後方に向けて蹴り飛ばした。
殺意が込められた速度で飛んだ二脚はそれぞれ床と階段にぶつかって四肢を砕け散らせる。
「死にたくなけりゃ絶対に降りてくんじゃねえ!!あほラタッ!!」
「ぎゃああああぁぁーーーーーッ!!!!??」
「うちの椅子ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!!!!???????」
サガを挟むように二つの悲鳴が同時に上がる。ヘルハウンドは椅子を避けて大きく横に跳んだため、疾走をそこで止められている。
「ッこのォっ!!」
「!?ッいらんことしてんなバカがッ!!」
近寄ってきたヘルハウンドがサガの方を警戒しているのをいいことに、壁際に下がっていたうちの一人が手の剣をヘルハウンドの背中に突き立てようとする。確かに壁際から見ればそれは大きな隙にも映ったろうし、行動に移した男は功名心があったとしても勇敢ではある……が、そう甘い相手でもない。
背後からの男の刺突を、巨体をしならせて魔獣は鮮やかに回避する。――速い。男とヘルハウンドではその反応、瞬発力、速度に圧倒的とも言える格差があった。多少戦闘の経験があっても、通常の人間と上位の魔獣では埋められない戦闘力の差が存在する。それを証明するように、獣は男が次の行動を思考する暇も与えない速度で反撃する。
命懸けの戦闘への闖入者に、その赤い眼光は怒りをたたえているようにも見えた。
「――――う、あっ――――!?」
その眼に灯る鋭い殺意に絶対的な死の予感を垣間見た男は、言葉にもならない呻きを上げるばかりで、次に己が取るべき行動さえ真っ白になった思考には思い浮かべられなかった。
「何してる!!逃げやがれッ!!」
男が奇襲を仕掛けた時点でサガは次の行動に移っていた。床を蹴り、瞬く間に数メートルの間合いを詰める。
「てめえの手に負える相手かどうかもわかんねえのかッ!!」
回避から一瞬の停滞もなく攻撃に移ったヘルハウンドの標的は、剣を突き出して無防備になったその喉首であった。至近距離から放たれるクロスボウの矢のように回避不能のスピードと致命的な威力で、あぎとは男の首に食らいつく。
顔を歪めたサガが魔獣に飛びつくのと、魔獣の牙が男の肩から首にかけて突き刺さるのはほぼ同時だった。
だがそれではサガの負けだ。
「くッ、そ……ッォ!!!」
サガ本人も自覚していたか、その口からは痛恨の呻きが漏れる。
もはや全身の筋力を封じられていようが、ヘルハウンドはその牙に力を込めるだけで男の首の一帯を引きちぎり、致命傷を負わせることができる。男の命は既に無に帰した。
サガに思わぬ唐突な助成が無ければ。
『任せておけと言いつつ、不甲斐ないではないか主』
この逼迫した一瞬の命の交錯に、悠々と余裕さえ見せる女の声が、サガの脳の内だけを流れた。
「タナトスッ!?」
「―――――――――アギャギャギャギャギャッッyyaaaaaa―――――!!!!!!!??」
肺の空気全てを絞り出すような凄まじい獣の悲鳴が、酒場の客全ての耳を打つ。
一瞬で仕留められる獲物の喉首さえその顎から逃して、ヘルハウンドは全身を包む筆舌に耐えない苦痛と異常な感覚に悶え、暴れまわる。
無理もない。ヘルハウンドのその誇らしげな漆黒の毛並みが、今や全身を包む炎と化しているのだから。―――――比喩にあらず、紛れもなく魔獣の体は、前触れもなしにその体中を燃え上がらせていた。
取り付いたさしものサガも熱に煽られ、さらに文字通りの必死で暴れるヘルハウンドには振り落とされ、無様に床を転がることとなる。が、そこは即座に身を起こす。
その目に映るのは明々と燃え上がる魔獣の、誇りも知性もかなぐり捨てた苦悶の暴走だった。
「こんなところで力なんか使いやがって……酒に引火したら大火事だぞ。」
『知らんな。主達でどうにかするべきだ。』
「ま、そりゃそうだ。」
全く悪びれていない声音のタナトスに苦笑いしつつ、サガは立ち上がる。
ヘルハウンドはもはや敵の姿さえ眼中になく、ただ己の体から炎を引き剥がすためだけにのたうちまわっていた。だがまとわりついた炎の勢いは一向に弱まることを知らず、既にその骨までを焼いている。
その苦痛とは如何程のものか。
「えぐい殺し方だ……いつ見ても」
『我の権能は空気を多少奪った程度でかき消えるような生易しいものではないからな。そう思うならさっさと止めを差してやるべきだろう。』
流石のサガもその苦しみようにはわずかに顔をしかめる。が……、それに応えるタナトスの返事は淡々としたものだった。
「言われなくともそうするがな。っと……」
「ああッ!?」
炎に包まれたヘルハウンドは身を翻し、一直線に疾走する。その行き先は酒場の出口、建物の外だった。
それが逃走を図る獣の本能によるものか、あるいは水を探す知性がまだ僅かに残っていたのか、それは知る由もないことだが。
瀕死で逃げゆく魔獣を、今度は誰も追おうとはしない。レナでさえ呆然とその場に立ち尽くしている。
「心配すんな」
そんな彼らに声をかけたのはやはりというべきか、サガ自身だった。
「あんな体じゃどこへも行けやしねえ」
まるで子供の行き先を告げるようにあっさりと言い放ったサガは、悠々と傍らに手を伸ばす。
そこにあったのは彼のもう一つのトレードマークとも言える、愛用の巨大な黒い剣“テンペスト”だ。
椅子は単純に勢いを緩めるための威嚇だけでなく、自分の武器の近くにヘルハウンドを誘導する計算された罠だった、というのは出来すぎた話だろうか?
なんにせよ、サガの巨体さえその刃で覆い隠せるほどの巨大な剣を、サガは当然のように持ち上げる。それは普段から彼の持ち歩く所有物なのだから当然は当然なのだが。
サガはテンペストを手に、かつかつと靴音を鳴らして真っ直ぐに出口へ向かう。
周りの人間たちは思考が追いつかないのか、ただそれを見送るばかりだ。
「………………」
無言で出口に立ったサガの目に映ったのは、夜の町並みを照らしながら、道路の中央に蹲って蒼々とした月光にさらされる魔獣の姿だった。
ヘルハウンドはやはりそこまでゆくのが生命の限界だったのか、苦悶の声さえない。
「今楽にしてやる。」
傍らに立ったサガの言葉を見上げることも、もはやない。
サガは静かにテンペストを振りかぶった。
「……然らば」
静かに呼吸を整えたサガの両腕が、迷いなく一息にテンペストを振り下ろす。
―――――――瀑布の如く真っ直ぐに振り下ろされた大剣は、強靭な頭蓋をくるみのように叩き割り、獣の脳漿を一瞬で通り抜けた。
ごろり、と煙を上げるヘルハウンドの頭部が半分、中身ごと道路に転がった。
「お前からするといわれのない苦痛だったかもしれんが、お前も目の前で一人殺ってるわけだから恨みっこなしだぜ。…………俺たちも生きるのに必死だ。こんなんでもな。だからどうか、許せ。」
小さく静かに、男は傍らの亡骸に向けて呟いた。
「アアアァァァーーーーーーーニキィィィィーーーーーー!!!!!!!!!」
その鼓膜と脳を、不意の叫びが大打撃する。
「だ、大丈夫ですかァッッ!!!!!??????」
酒場の戸口に居たのは、僅かに息を切らすラタトスクだ。
「うぅぅるっっっっっっっっ――――!!せえわアホォッッッッ!!!!!」
きいんと耳鳴りのする頭を抑えてサガが乱暴に叫び返す。
「だ、だって店の中血だらけだし、人倒れてるし心配で……!!」
「けっ。結局俺ちゃんは、なーんもしとりゃーせんワイ。」
タナトスの割り込みであっさりと片付いたので不完全燃焼だったのか、サガは子供のように口を尖らす。
「俺より店は燃えてねーのか。ワンコに食われかけてた馬鹿ヤローは?」
「あ、は、はい。店の被害はひどそうですけど火は点かなかったみたいで、男の人も出血こそしてますが手当すれば命に別状はなさそうです。タナトスさんのおかげですね」
「アア、まったく器用な奴ではある」
サガも手助けを受けた形なので、今回ばかりは文句をぶつけることもない。
「フフフ……それほどでもあるな。功を労わんとするならば酒を寄越せ。特に主」
謙遜もない美しい女性の声が二人には聞こえた。
「ったく。ちっと持ち上げるとすぐこれだ」
サガは皮肉げに眉をひそめた。
対照的にラタトスクは肩を落とす。
「ただ……、やっぱり最初の人は……」
「そりゃそうだ。あれで生きてる人間がいたら逆に怖いわい」
俯くラタの言わんとすることを察したサガが、その言葉を遮るように先に言葉を紡ぐ。
「自分の身も自分で守れない馬鹿は冒険者やってる限りいずれどこぞで野垂れ死ぬ。たまたま今回生き延びていようがな。死にたくなけりゃこんなやくざな生き方するもんじゃねーの。ガキでもわかる理屈だぜ」
「っ死んだ人に向かってそんな言い方!……ないじゃないですか……」
サガの言葉に反抗するように睨んだラタだったが、その視線はまたすぐに地に落ちた。
「お前がいちいちこんなことでへこんでるからだろーがちんくしゃラタトスク。たまたまそこに居合わせただけの奴が死んじまったからって毎回下向いてられっかよ。俺らが気張ってたらあのヤローが死んでなかったとでも言うつもりかァ?犬のおまわりさんじゃないんですゼェ俺らァ」
「……わかってます。そんなこと……」
俯いたままラタは「あ゛ーーー!!」と濁った呻きをあげながら苛立ったように頭をかきむしる。
「めんっどくせーガキんちょだなテメーはよ。そんなに落込みたかったら死ぬまで落ち込んでろ馬鹿」
その姿にため息をついて、サガはいかにもかったるそうに言い放つ。
「だがその前にやることあんだろーが。まずあの馬鹿男の手当してやった方がいーんでないですかァ?」
「うー……っハイ!!」
しゅたっと手を垂直に上げたラタは回れ右して酒場の中へ戻っていく。
「ブリキのおもちゃですかあんガキャぁ。やれやれまったく、アホの相手は疲れるぜ」
『私のやれやれは我が主人の甘々な態度だがな。どうも今晩の珈琲に砂糖はいらないらしい』
「うるっせー。灯油くべるぞ若作りババァ」
『ほほぉ、香ばしくウェルダンにされたいのか我が主?』
「はん」
鼻で笑って俺はヘルハウンドの死体に視線を戻す。いつまでもバァサンと漫才やってる場合でもないだろう。
既に焼け落ち切ったヤツの死体は、灰になって白い骨だけを夜風に晒している。
「こいつの事も調べねえとなあ……」
目を細めてこの騒動の理由を探ろうと思考を働かせはするものの、浮かんでくることといったらどいつの恨みの線だろうかというしょーもない憶測ぐらいだ。
『偶然のわけもあるまいしな』
「当然だ。ヘルハウンドがたまたま森の奥から酒飲みに出てきて、客と喧嘩してたまるかよ」
『……こやつ、何かを探していたようでもあったな』
「ああ」
店内に入ったヘルハウンドは、客を手当たり次第に襲うわけでもなく執拗に二階の客室を狙っていたことが脳裏をよぎった。
『憶測にすぎぬが、もしや此度の騒動……今回の依頼に関係しているのではないか?』
「…………何もわからねーうちから言い出したところでいちゃもんに過ぎねーんだが、確かに。こんなもん仕掛けてくるような奴に恨み買った憶えなんぞは、パッとは出てきやしねえしな」
やっぱりジェイズのくそったれが何か重大な秘密を隠してないのか、後で問いただしてみる必要がありそうだ。
「あーーあ。めんどくせ……っ……」
生温い夜風に吹かれながら俺は、厄介ごとの予感に頭を抱えるのだった。
ようやく物語が動き始めたといったところでしょうか。
ええ、言ってみたかったんですこのセリフ。
まあともかくこれで後は勢いに任せて筆を進めれば勝手に完結しちゃったりなんて思ったりして(白目
ハハハ、我ながら気色悪いあとがきじゃのう。
なにはともあれ、読者の方にはただ感謝です。