黒い魔獣
ぐぱっ―――――――
巨大な万力のようなそいつの顎が開き、黒い体から赤い赤い肉の中身が露出する。
「―――――――――ひっ!」
しゃくりあげるような男の悲鳴は一瞬で消し飛んだ。―――――その、上半身ごと。
引きちぎられた肉の断面から噴水の如く血が吹き出し、千切り飛ばされた下半身が店内と、その化け物を染め上げる。
男が酒場の扉を開けてからそこまでが一瞬の出来事だ。
疾風、あるいは迅雷。目にも止まらぬ黒い災厄。…………それは、人間を丸呑み出来るほどの巨大な犬の姿をしていた。
「…………ヘルハウンドッ!?どうして……どうしてこんな街中に!?」
女将のレナがカウンターの下に隠していた片手剣を手に、俊敏にカウンターから飛び出してくる。
ヘルハウンドが吐き出した、恐怖の表情を張り付けたままの男の上半身を見て顔を歪め、舌打ちしたレナは店内全体に響き渡る叫びをあげた。
「………っち……!……人の店でやってくれるじゃないか糞イヌがッッ!!あんたら、店で暴れるバカを追い出すのは店側の役目だが、命までは責任とれないよッ!!自分の身は自分で守っとくれ!?」
鞘からよく手入れされた剣を抜き払って構えるレナの姿は、その辺のにわか冒険者より余程様になっていた。
「レナ、こいつはなんだ!?どうなってる!?」
「アタシにそれを聞いて答えがわかるようなハナシに見えるのかい!?なんでも人を頼りにせずに冒険者なら自分の頭でモノを考えな!!」
情けない顔を向ける客達にピシャリと言い切ったレナ達のやりとりをちらりと一瞥しただけで、ヘルハウンドは店内をグルリと見渡すように、赤い四つの目をぎらつかせながら視線を移動させた。
それは明らかに確固とした知性を感じさせる動きのように思える。例えるならそう……まるで何かを探しているような。
「な、何だ……こいつ……!?」
「けっ!堂々としてやがるぜ、化け物風情がよ!」
酒場に残っていた人間は誰もが携帯していた武器を抜き、出来る限り距離をとって魔物を睨んでいた。
顔を歪め悪態を吐くものこそ居たが、自分から仕掛けようとするものは皆無だ。
正体の知れない相手に策も無く挑むのは冒険者にとって無謀でしかないし、それにこのヘルハウンドという魔物は有象無象の冒険者がかなう相手ではなかった。
恐らく姿を見たことがある者すらこの場にはほとんど居ないのではなかろうか。
本来は数多くの魔物の巣食う森の奥に少数で活動していると言われる、そうそうお目にかかれない魔物なのである。
ヘルハウンドの話を聞いた事のある者は誰もみな伝え聞かされているのだ。その知能の高さ、肉体の強靭さ、牙の鋭さ、誇り高さ、……恐ろしさを。
己より遥か巨大な魔物を、軍隊のように統制の取れた群を成して食い潰し、一対一に於いてさえ、あの凶暴極まるグリズリーを知恵と俊敏さを備えた岩をも粉砕するその顎門を以て打ち倒す。
森の狩猟者、死の猟犬、冥府の番犬。
魔物でありながら単純な恐怖以上の畏怖をもって伝えられる。……それがヘルハウンドという魔物だった。
実際に酒場の客達は大人の男の体を一瞬で食いちぎる程の恐るべき戦闘力の片鱗を垣間見せられているし、彼らに囲まれていながらも悠々としたヘルハウンドの姿は普段相手にしているような、せいぜい野の獣を凶暴にしたような魔物達とは明らかに一線を画している。
戦う為に生まれたが如き存在を初めて目にする威圧感は、男達を飲み込んでいた。
或いはそこでヘルハウンドが男達に襲いかかっていたら、仮に倒せたとしても半数以上が犠牲になっていたかもしれない。かなりの手練れと見える女将のレナさえも、少なくとも無事にはすまなかっただろう。
――だがヘルハウンドはそうしなかった。
引き放たれた弓矢の如く、反応できないほどのスピードで一直線に男たちの脇をすり抜けていく。
その行く先は――――店の奥に位置する階段だった。
その圧倒的な速度は易々と目的地への到達を許しただろう。
そこに一人の男が居なければ。
「無視ですか連れねェじゃねえのワンちゃんよぉ」
黒に割り込む黒。
ヘルハウンドの猛進に横槍を入れたのは、それ以上のスピードで魔獣の前に躍り出た我らが主役だった。
獅子にも匹敵するヘルハウンドの巨体を、なんと体をぶつけて受け止める。
「そう気張らずにちょいと寄り道してきなよ……っ」
左肩から牙を避けて体当たりをかまし、巨体をカチ上げる。
「ggggggggggggggggggggッグggるるるるるrrrrrrrrrrrrウrrrrrrraaaaaaa!!!!!!」
下顎を持ち上げられ進路を邪魔された魔獣は怒りの唸りを上げて伸し掛りつつ、体を捩って暴れようとするが、サガの尋常ならざる怪力がそれを許さない。
凄まじい負荷がかかった床板がメキメキと今にもへし折れそうな悲鳴をあげる。
酒場の中央で剛力によって相手を捻り潰そうとするサガとヘルハウンドの取っ組み合いは、まさに人間のそれではない、野獣の格闘だった。
「お兄さんとォ、遊ぼォうぜえ……ッ!!」
両頬を歪ませて奥歯を噛み締めたサガの両腕が、さらに、高圧で水流を流し込まれるゴムの筒のように膨張する。
「ガああァラぁッ!!!!」
気合の吠え声を吐き出して、サガは全身の筋肉を総稼働させ、牛ほどもあるのではないかと思われるヘルハウンドを根元から持ち上げ、力任せに投げ飛ばした。
「ひぃっ!!!??」
射線上の近くに居た客は蜘蛛の子を散らすように命からがらといった体で酒場の端に飛び退く。
嵐のようにテーブルを巻き込み、砕け散らせながら巨体が酒場の入口の壁に叩きつけられると、酒場全体が揺れたような衝撃と轟音が客達を叩くのと共に、巨体を受け止めた酒場の土壁に大きな亀裂が入った。
「―――――――――サガ!!」
「まだだぜ。怪我したくなきゃ下がってろオバサン。」
やったのか、とレナが希望と警戒の入り混じった叫びを上げた。
が、見向きもしないヘルハウンドに眼を向けたままのサガの警告によって前へ進もうとした足がその場に縫い止められた。
「ウrrrrrrゥウウウウウウゥゥゥッ!!!!!!!」
怒髪天の唸りを吐き出して、魔獣は跳ね起きた。
どうやら壁に打ち付けられたダメージの効果にはあまり期待できそうにないらしい。
『タフだな……背中をしたたかぶつけたろうに。人間なら死んでるし丈夫な獣でも普通は足腰立てないぞ?』
サガの中の女性もダメージの程を伺うが、サガと同意見なようだ。
柔軟で分厚い筋肉が体の内側への衝撃をかなり吸収してしまったのだろう。
「有名は伊達じゃないってこったな。」
『手を貸そうか?』
「いらねえよ。こんなところで、俺や客まで焼き殺す気か。」
『力の加減ぐらいはするさ』
「ハン、だが断る。後がめんどくせえしな。」
『やれやれ。意地っ張りめ。ならばせめて武器ぐらい使え。』
「ちょこっとばかり急いでたから取ってこれなかった。」
ちらりとサガが脇に目をやる。酒場の壁に愛用の大剣テンペストが立て掛けられていた。
「どうせ取りに行った途端に横をすっ飛んでくんだろうぜアイツは。」
牙を向いてこちらを睨むヘルハウンドに視線を戻す。
平静に喋っているが、サガから滲み出る猛烈な殺気は壁際に張り付いた客たちを、呼吸さえおぼつかなくさせるほどに凍りつかせていた。
女性も言葉と裏腹に信用はしているのか、それ以上は何も口を出さないようだ。
楽観視できるような状況では決してないはずだが、サガは頬の両端を吊り上げた。
「こいつみたいな大物はちょっと久し振りだぜ。」
血肉は沸騰するように沸き立ち、思考と殺気は極低温に冷めていく。
背骨を握られるような冷たさを感じて、酒場の男達が固唾を飲んだ。
目の前の相手の危険性を認めたのか、さしものヘルハウンドも全身の毛を逆立て、威嚇ではない本気の狩猟者の静かな呼吸を調えている。
「さすが、いい殺気してやがる。」
死線に立ちながら浮かべられるそのサガの笑みは、人ならぬ、獣の笑いではなかろうか。
「さあ、てぇ……身の程を知らずにのこのこ森から出てきたポチ公にゃ、人間様の居る場所では自分たちの思い通りにはならないってことを教えてやるとしましょうかねえ。」