嵐がされば、また嵐
「“慈悲深き蓼雨の神の芳命、恩寵授かりし御子を流れ、彼の者の艱難に少しくその精を分け与え給え”」
手を合わせ、跪いて無心に祈る――――。
慈雨の神レティシアの力を借りる詠唱の儀、穏やかな生命の力に満ちた癒しの光が呪文を口ずさむと共に術者たるラタトスクを包む。
神の力の生み出す幻想的な光を纏うラタトスクの姿には、普段の元気さが取り柄の娘といった風はなりを潜め、柔らかな美がそこに存在していた。
光の寄り代となったラタトスクが、傍らに寝かされた男の薬包帯の巻かれた傷口に手を添えると、光はラタトスクから男の体へと流れ込むように移りゆき、間もなくその体内に吸収されていく。
「痛みはどうですか?」
法術の行使を終えたラタは男に訪ねた。
「あ、ああ。ゆっくりだが確かに痛みが引いていくよ。実際体験するとやっぱり凄いな魔法ってやつは。」
「私の法術なんて見よう見まねみたいなものですから、あまり過度に効果に期待せずに安静にしておいてくださいね」
磨り潰した薬草に浸した包帯を巻き、治癒魔術で更に肉体の治癒力を高める。
魔術無しであれば十数針は縫う必要のある裂傷だが、最初の手当さえしっかりすれば後は数日で完治するだろう。
「いや、大したもんだよラタ。あんたにこんな隠し芸があったとはねえ」
応急手当を手伝ったレナがラタの力を称えた。
「芸ってほどでもないですけどね」
「いやいや十分さ。それにしても治癒魔法なんて誰に習ったんだい?」
「旅する中で色々な手伝いをする内に、いろんな人から」
「これまた随分抽象的な答えが返って来たもんだ」
肩をすくめるレナと困ったように頬を掻くラタトスク。
「まあ、あんな馬鹿たれにか弱い乙女が一人ついてってるんだ。あんたにも色々とあるんだろうさ」
レナがにやりと笑うと、その後ろから不機嫌そうな声がかけられた。
「聞こえてんぞババア。店を救った英雄に向かってそりゃあねえんじゃねえの?」
「聞こえるように言ってんのさ、スケールの小さい英雄殿。人の店あんだけ壊しといてよく言うと、私ゃ個人的にはそう思うがね」
「その恨み言は表の灰にでも向かって言うんだな」
しばらく外に居たままだったサガがようやく店内に戻ってきていた。
「あんたもあんたで、あんな魔法なんて使えたんだねえ」
「クリスマスに向けて俺もかくし芸の一つでも覚えようと思ってな。猛練習の賜物だ」
「殊勝な心がけね」
とぼけたサガの答えは、暗に詮索するなと言っている。レナもそれ以上の深追いはしない。
「助けてやる暇もなくさっさとおっ死んじまった馬鹿ヤローは、さっきシーツかけて男連中が運び出してたあれか」
「とりあえず他の人間が憲兵呼びに走ってるわ。店はご覧の有様だわしばらく営業できないわ人は死ぬわでこちとら散々だ。落ち着いたら連中にはたっぷり弁償もしてもらわないとねえ。普段から税金払ってることだし」
「店は畳んじまったりしねえのか?」
「馬鹿言いな。冒険者一人死んだぐらいで寄り付かなくなるような連中相手してないよ」
会話しながらサガは店の状況を見渡す。騒ぎを聞きつけた近隣住民と、こちらはようやくというべきか様子を探りに降りてきた宿泊客とで早くも店内、外ともに酒場は混沌とし始めている。
「アニキ!何か分かりましたかー?」
ラタトスクもサガの方へ近づいてきた。
「いーや。収穫ナシだ。すっかり燃え尽きちまってて野郎が今朝何を食ったのかもわかんねーよ」
「むう」
『我もあの瞬間は流石に後のことまで考える余裕はなかったのでな。許せ』
「はん。後先考えてたらあのヤロー死んでたろ。手間も省けたしお前に謝られる要素はねえよ」
サガは鼻を鳴らす。確かにあの状況下でタナトスがサガに力を貸していなければ、いや、力を貸すのがほんの少し遅れていれば、表には少なくとももう一つ人間の死体が並んでいただろう。
「手当が済んだんならお前も調べてみな。何かわかるかもしれねーしな。俺も用事が済んだらすぐ戻る」
「了解です」
一息つく暇もなく今度はラタトスクが店の外に出ていく。そしてサガは目的の人物を発見した。
「あんなところに居やがった……おいジェイス!」
「ん?サガか。こりゃひでえな、片付けしてるだけで一晩あけちまうぞ」
サガに引けを取らぬ巨体の男は、しかし強面に似合わず箒を手に店の片付けに参加していた。
「んなこたどーでもいい。それより今回の件、引き受けた仕事に関係あるんじゃねーだろうな」
苛立たしげに言ったサガの言葉にジェイスは驚いたように目を見開いた。
「ガハハ、そりゃーいくらなんでもこじつけが過ぎるだろォ、サガ君よぅ?仕事の邪魔をしたい連中がヘルハウンドを手懐けてこの店を襲わせたとでも言うつもりか?」
通常魔物の類は決して人間に懐くことはない。ましてヘルハウンドぐらいの魔物になれば尚更だ。
だがサガは引き下がらない。
「じゃあ逆に聞くが、ヘルハウンドがまったくの偶然から衛兵の目を盗んで街に忍び込んで、酒場に乱入して人を襲う事があり得ると思うか?」
「そりゃあ……なぁ?」
ジェイスも偶然だとは思えないのか、困ったような表情を浮かべる。
「しかし仮に何者かの仕業だとしても、一体誰にそんな事ができるというのだ?」
ジェイスの疑問ももっともだ。ヘルハウンドを飼い慣らして手駒にするなど、人間には不可能な所業に思える。
だがサガの脳裏には一つの予断がよぎっていた。ヘルハウンドを調べている間に、店の外で一瞬だけ感じた濃密な血臭の残り香。気のせいとも思えるほどかすかに漂ってきただけだったが、しかし妖気とも言える程に昏く濃密なその殺気に込められた、胸を掻き毟りたくなるような重い怨念を、確かに自分の肌はひりひりと感知したように思う。殺気になど慣れ親しんだはずの自分が、ぞくりとした背筋の寒さに思わず振り向いてしまうほどの気を。
しかし、今はそんなことを伝えても無駄だろう。自分でも曖昧な感覚を頼りに他人に危機感を説明するよりは、まず論理から今わかることを暴き出す方が先決なはずだ。
「さあな。だが偶然じゃないことだけは確かだ。奴は手当たり次第に人間を襲ってたわけじゃない、店に入ってきた後も何かを探しているふうだった。それも一階では見つけられなかったのか、執拗に二階を狙ってたぜ。奴が探してたのが人間か、それとも物なのかはわかんねーけどな」
「何?本当なのか?」
サガの発言を聞いて、初めてジェイスが本当に訝しげな表情を浮かべた。
更に続くサガの言葉に、ますますその険しさは増す。
「間違いねえ。奴は目の前の脅威である俺より、二階へ向かって進むことを優先していやがった。……あの酒場で一番狙われる可能性があったのは……ジェイス、お前じゃないのか?」
「ありえるのか……そんなことが……。だがしかし、そうだとすれば――――確かに。あくまで憶測の域を出ないが、お前の話、一考には値する意見やもしれんな」
断定はできないが、あの酒場にいた者の中で、個人的な怨恨以上の襲撃を受ける理由を持つものがいたとすれば、今この街に居る冒険者から一番注目される仕事において現場監督に近い立場を担っているジェイスが最もその条件に当てはまるのではないのか。
「もうじきでかい計画が動き出そうっていうこの時期だ、警戒するに越したことはねーんじゃねえのか――――――?」
「……お前の言うとおりなのだろうな」
重々しくジェイスは頷いた。この件に関して、自分達の想像を超える何かが水面下で動き始めているのかもしれない。ならばその意思にいいように踊らされた挙句消されたりすることのないよう、まずは慎重に情報を整理し、その存在と目的を燻り出す必要がある。
「もう一度聞くが、今回の仕事に関してお前が俺たちに隠している情報はないのか?」
「無い。……が、これほど大きな仕事だ。雇用主の利害に絡む重要な情報が、俺たち現場の人間に伏せられている可能性はかなり高い。少なくとも、どこか俺に公開されていない情報があるのは間違いないだろう」
額にしわを寄せたジェイスが声を落として答えた。大きな声では言えないのだろうが、それが仲介屋としての本音なのかもしれない。大男が二人、周りの耳をはばかるように額を突き合わせる。
「じゃあもう一度その市長とやらの腹の中を探ってみる必要があるんじゃねーのか。もしかすると俺達だけじゃなく、お前の名前まで備品の消耗品の欄に載ってるのかもしれねーぜ?」
「ああ。そうするとしよう。この件に関して再度雇用主と掛け合ってみよう。いや、この街と今回の仕事に関わる全ての情報をあらゆる角度から洗い直す必要があるか。今回みたいな何もかも手探りのケースなら、確かに用心するに越したことはない。同じ釜の飯も食ったことのないお偉いさんの権力闘争に巻き込まれて死ぬなんぞ、男として最悪のカッコ悪い死に方の一つだからな」
「お前の死に方なんぞ知ったことじゃねーが、俺のためにそうしろ。てめーの胡散臭い事情に巻き込まれて命を左右されるなんざ、俺だってまっぴら御免だ」
「こんなときまで口の減らんやつだ」
「でかい陰謀の匂いにビビってしょぼくれてる奴よりは頼りになんだろうが」
にやり、と口元に無頼の冒険者らしい悪辣な笑みを浮かべた二人はようやく突き合わせた顔を離す。
なんだかんだと言ってもこの二人はやはり、少なくともお互いの領分に対しての手腕としぶとさだけは信用しているのだろう。互いに一目置く男達とは案外そういうものなのかもしれない。
「やれやれ、本当にお前が絡む仕事に一筋縄で通用するものはないな」
「てめえで呼び出しておいてよく言うぜ。俺こそお前の用意する仕事の話に厄介事が隠れてなかった試しがねえってさっき言った通りじゃねえか」
「ははん。まあ面倒に巻き込まれてそれでも生き存えてるお前のしぶとさを、今回は頼みにするとしようか」
「知らんな。俺は俺が明日生き延びるために動くだけだ」
なんというか、まあ、実に冒険者らしい言い草である。
「じゃあなジジイ。次会ったときに生きて会うのがいいか死体に挨拶するのがいいか、それまでに考えといてやるよ」
「お前こそ、明日街を歩いてる間に借金まみれになって首をくくらんでいいように気をつけて行動するんだな」
「ケッ」と吐き捨てたサガはむくれながら店外へ歩いていく。
子供から見ればどちらもどうしようもない大人に違いないのだろうが、望まぬ嵐に巻き込まれるのには誰より慣れっこな二人だった。