表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

月夜の帷に呪いの歌を


 天高く凛と輝く月の下、それは、ひっそりと佇んでいた。寂れた教会の神聖なる鐘の上、尖塔の上から人の営みを見下ろす不遜な人影。

 その長い髪が風に舞い、月明かりが丸みを帯びたシルエットを浮かびあがらせる。それは、一人の美しい女の姿だった。

 しかし、その仄暗さ。夜風にさらわれて彼女から漂う濃い血の匂いと艶やかな妖気は、彼女が人間ではない、暗闇の中に生きる種族だということを告げていた。


「あれは……人間なのか?」


 見た目に沿うように美しく、そして冷たい声音が静かに、誰に問うでもない疑問を紡ぐ。その視線の先には、たった今己の僕をいとも容易く屠り去った一人の男がいる。闇夜に溶け込むような女の人影は、その男をじっと睨めつけていた。その男の力が、あまりにも己が知る人間の力からかけ離れているように思われたからだ。

 人影が観察する男は、灰となった獣の亡骸を身動ぎもせず見下ろしていた。


「………………お前たちにはすまないことをした。」


 女が謝罪と共に傍らに手をやる。そこにはまるで忠実な番犬のように、あの獰猛なヘルハウンドが侍っていた。その誇り高い瞳から感情は読み取れないが、それでも女は傍らの僕に力なき悲しみを感じた。

 これ以上、かけてやれる言葉も自分にはない。

 視線を前に戻し、女もまた、沈黙のままに男の姿を観察する。妖艶なその瞳は不愉快げに、あるいは興味深そうに細められた。


 その若い男はまず、見た目から既に普通の人間とは明らかに様を異にしている。端的に言えば、異様と言ってしまってもいい。

 そう、男は人間共の群れの中に混じっているにはあまりにも異様なのだ。

 闇に生きる者として祝福を受けたような浅黒い肌と、魔獣の毛並みのように漆黒の頭髪。人間にしてははっきりと大柄だと言える体格をしている。背丈も体の厚みも立っているだけで圧迫感を与えるほどで、戦士としての過酷な生がそうさせるのか、周囲の男たちとは一線を画す精気、生命力が溢れるほどに満ち満ちている。身長と肌の色はダークエルフにも通じるものがあるが、それにしては線が太い。肉食の獣のように引き締まった筋骨を余すことなく搭載したその体躯を包むコートもまた黒で、その襟が、並ぶ牙を隠しているかの如く口元まで包んでいる。

 周囲に当たり前のように群がる人間共は、あの男に背中を見せてよく安穏としていられるものだ。次の瞬間に喉元を食いちぎられそうだとは感じないのだろうか?その鈍感さは敬意にすら値する。

 女はこじつけにも似た不快感に眉を歪めた。

 そしてまた、男が周囲から浮いている理由は他にもある。これはどんな馬鹿でも一目でわかる単純な要素だ。それは黒づくめであること。男の服装はコートもパンツも、ブーツも、全ての衣装が黒で統一されている。

 常なら女も名声目当ての頭の悪い剣士が、奇抜な格好をして人目を引こうとしている程度にしか思わないだろう。だが、男のその様相には、それよりもっと彼女や同族にとって不吉な何かを感じた。

 うまく言葉にはできないが、例えば吸血鬼の黒装がその魅了されるが如き恐怖を伝えるのに一役買っているように、男の姿もそれ自体が滲み出る威圧感や凶暴性を伝えるための要素として成立しているように思う。

 滑稽じみて大げさな表現ではあるが、女の思考はそういうものを、“神があらかじめ定めた世界の演出”だと、そんな馬鹿げた表現に結びつかせてしまう。神が愛する価値のあるものはその価値が引きたてられるように、在るべくして在るように運ばれ、その生を装飾されているのではないかと。神と信仰に背いて生きる自分たちでさえ、そんな“天意”の如きものを、なにより彼女自身の主にそういうものを感じる瞬間があるからだ。

 故に、憎い。

 神が、万物の造物主が、生み出した人間に運命を与え、天上から慈愛を以て見下ろしているというのなら、何故我が主に斯様に残酷極まりない運命を与えるのか。何故、己にこんな滑稽な、微塵も価値を見いだせない生を与えたのか。

 神も人間も運命も世界も、等しく最上に憎く薄汚い。取り澄ましたまやかしのその全てが死に腐り、滅び去ってしまえばいいと、心の底から本当にそう思い。果てしなく憎悪する。


「下らないわね」


 そこまで考えて、女は自分の思考が意図したところから脱線していることに気付く。自分は目的を脅かす可能性を持った存在を発見してしまったが故に、それの危険性を分析しようとしていただけなのに、つまらないことを考えてしまった。

 女はそんな思考展開をする自分に虫酸が走る。これではまるで人間だ。目的を果たすだけの物質になりきれない、無駄にしかならない感性や情を持って生きる人間のようだ。

 自分が考えるのは目的のことのみでいい。そしてならば、自分がこれからすべきことはさっさと主のもとへ帰り、この男の事を伝えておくべきだ。最早ここに残ったところで、さらなる男の情報を得られる事態など起こるまい。

 この場所を離れる前に、女は最後にもう一度男の姿を確認するべく目を向けた。


――――ぞくり――――


 女は心臓を鷲づかみにされるような凄まじい感覚を、濃縮された恐怖を味わった。

 男の顔が、その真紅の瞳が確かに女の方を向いていたからだ。それは女にとって、臓腑さえその動きを完全に停止させるほど信じがたい事実だった。

 監視していることを気付かれた――?

 だが、自分でさえ酒場の様子を確認できるぎりぎりの範囲にいるのだ。おそらくは遠視の魔力さえ使えないだろうただの人間が、しかも自分がどこにいるのか知らないどころか、その存在すら想像していない相手が、どうやってその存在と位置を感知し得るというのか――?

  理屈抜きで女の本能が、今この状態の異常さを伝えてきていた。気のせいや偶然ではきっとない。吹き出る冷や汗が、まさに蛇に睨まれた蛙のように相手に見つかったことへの致死性を訴えている。こちらを見ているように見えるだけ、という都合のいい解釈、あるいは至って通常の感覚と論理を直感で否定する。

 その存在までも完全に知り得ていなくても、きっと男はその肌で、この私の悪意を読み取ったのだ。沸々と滾る妖気と、冷たく研ぎ澄ませた殺意を。故にこの男は間違いなく障害として彼女の望みの前に立ちはだかるであろう。それがおそらく自分に向けられた天意だ。


「…………くっ……!!」


 冷や汗を流す体に、歯を食いしばって恐怖に抗わせる。それを為さしめるのは胸の内を焼く黒い炎。純然たる怒りだ。どこまで運命は自分の邪魔をするのか、自分と主人の思いを弄ぶのかと。


「くくっ………………くっ!……ははははは、あははははは!!!」


 怒りはもはや狂気に変わっていた。

 あくまで天意が己たちを呪うならば、その意図を今度こそ踏みにじってみせよう。

 あの男が自分たちの邪魔をするならば、八つ裂きにして神の下へ送り返してやろう。

 今度こそ我々が勝利する。必ずや。我が主人の魂に平穏を。彼の味わった苦痛に見合う何かを、絶対に自分が捧げて見せる。見つけてみせる。それがこの世に唯一、自分の生まれた意味なのだから。


 神の加護を失った教会に女の哄笑は永く、儚く響いた。




――――――――――――――さあ、運命がその歯車を回す。



はちきれるほどに蓄えられた憎悪の奔流が、時を動かそうとしている。


配役たちは抗いがたき運命のうねりの中で、何かを得て、何かを守ることができるのだろうか――――?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ