エピソード-1 涙と笑顔と
さっき生徒手帳を拾った女性が気になって仕方なかった。
なんというか……一目ぼれというヤツなのかな? あの休み時間以降、彼女のことが気になって仕方なかった。
心なしか胸の鼓動も早く思える。
「(なんなんだろう……この気持ち)」
とりあえず名前も知らないなんて、色々と失礼なんじゃないかと思ってしまった。少なくとも彼女は僕の名前を、それも何故かはわからないけれどフルネームで知っている。
調べる術が直接聞く以外にない今、授業中にさりげなく振り向いて彼女を探した。
「!」
僕が彼女を見つけると、彼女もこちらに向いて笑顔で小さく手を振った。
すぐに向き直って、
「(か、かわいい……)」
彼女の笑顔は思った以上の衝撃だった。なんというのだろう、華やかというわけではないけれど、優しい……温かな笑顔だった。
その笑顔を反芻している内に、授業はあっという間に終わってしまっていた。
休み時間。
確か授業の始まりの時に校庭を見たらユイが走っていたので、おそらく体育授業明け。着替えや次の授業の準備でこのクラスに足を伸ばす時間はないと思う。
「あのさ、広野君」
「どしたコウタ?」
「あのね、ちょっと気になることがあって」
「なんだよ? 気になるってあれか、もしかして女か?」
「えっ」
ば、バレるのはやいよ!?
「う、うん……」
「おー、コウタにも青春の一ページか……俺は何ページもめくってるはずなのにな、未だにウウッ」
広野君は見かけはいいのにね、何故か女の子と付き合っても直ぐに別れてしまうのだった。
「そ、それでね……えーっと見える? 髪の長い黒髪の子なんだけど」
僕がチラリと目配せするように、休み時間でも一人座る彼女を指すと。
何の前触れもなく広野君の顔がみるみる青ざめていった。まるで何もなく健康だったのに、突然「手の施しようがありません」と医者に言われた時のよう。そんな経験僕も彼らにもないけどね。
「ああ……長野か、うん……イインジャナイカナ」
広野君は突然カタコトになって言った。でも僕にはそれは些細なことでしかないので……長野、さんかあ。
「そうなんだ!」
「あ、でもコウタ…………ッ!?」
広野君は僕が背にしている長野さんの方を見て、顔をひきつらせて。
「どうしたの?」
僕もつられて振り返ると、そこには笑顔の長野さんがいた。
「あ……やっぱり長野さんは可愛いなあ」
「確かに可愛い……可愛いが…………アアシヌ」
突然広野君が白眼をむきだしたけど、些細なことでしかないので……長野さんかあ。
そうして後に「長野 秋」という名前であることを教えてもらった。
その時の広野君は、青ざめて膝をがっくりと落として様子が少し変だったけれど、些細なことでしかなかった。
* *
「し、しのいくぅんっ!」
突然休み時間を迎えた教室で、授業終わりで次の教科の準備をしているとそんな慌てたような、焦って噛み噛みになってしまったかのような可愛い声が近くから降ってきた。
見上げると、僕が気になって仕方なかった――長野アキさんだった。
「え、僕?」
「そう……です。あ、あの……ちょっと来てくれませんか?」
「え、うん。いいけど」
なんだろ……僕は彼女のことが気になっていたけど、彼女は僕に何の用なのかな?
そうして長野さんに弱弱しく制服の袖を引っ張られながら教室を出た。
そこは、体育館裏だった。
少し先を歩く長野さんは何故か、耳まで真っ赤になっていた。
「えーと……長野さん?」
「私の名前……覚えてくれたんですね」
嬉しそうに、そして少し涙ぐみながらそう言った。
「ど、どうしたの長野さん!」
「ごめんなさい、嬉しくて……」
涙を拭いながら笑顔を見せる彼女は……あまりにも魅力的だった。
「それで……長野さん?」
「私は……篠井コウタさんにお話したいことがあるんです」
押し迫った、緊張した物言いだった。さっきの呼びだした頃の彼女とはまったく違う――噛みもせず、しっかりとした口調で、真剣な眼差しで。
「…………はい」
僕はそんな彼女に気圧されて、そんなことしか言えなかった。
彼女は深呼吸をして、落ちつけて、目を開いて、僕を一直線に見つめて。
「私は……長野秋は……篠井幸太さんが……好きですっ!」
それは告白だった。
気になっている彼女からの、勇気を振り絞っての告白。
顔を真っ赤にして、その答えに怯え震える彼女を待つのは……ひどく辛いことだった。
だから、僕は――
「はい」
そう、答えた。もっと言葉を選んで、並べられれば良かったのに。
でも彼女は、彼女はボロボロと涙を流しながら”笑顔”でこう言うのだ。
「ありがとう……ございます。これから私を……よろしくお願い……します」
涙に濡れる笑顔は今までに見たどんな笑顔よりも。綺麗だった。可愛かった。美しかった。
そう、僕はこんな僕には。長野秋さんという、僕には勿体ないほどに可愛らしい彼女が出来たのでした。