婚約破棄されたから腹いせに悪魔を召喚しました
「アメリア・グランフォード。君との婚約を破棄する」
その言葉を聞いた瞬間、私は思った。
――ああ、やっぱり。
驚かなかった。
悲しくないわけではない。
むしろ、胸の奥がひどく痛かった。
それでも、いつかこうなる気はしていた。
私の婚約者、第二王子エドワード殿下は、最近ずっと別の女性と一緒にいたからだ。
「……理由は?」
私は尋ねた。
少し言葉がつっかえてしまった。
すると殿下の隣に立つ令嬢が、勝ち誇ったように微笑んだ。
「私ですわ」
伯爵令嬢ミレーヌ。
つい三か月前まで、殿下とはろくに会話もしたことがなかったはずの女性だ。
「エドワード様は私を愛してくださっていますの」
「……そうですか」
「ですから、身を引いてくださいませ」
ずいぶん簡単に言ってくれる。
それも態度も大きすぎる。
私は扇を閉じた。
そして静かに尋ねる。
「殿下も、同じお考えですか?」
「ああ」
即答だった。
「私はミレーヌを愛している。君には申し訳ないと思っているが……」
「思っているが?」
「私の人生は、私が決める」
周囲から小さなざわめきが起こる。
王宮の大広間。
今夜は王家主催の夜会だった。
つまり私は、大勢の貴族が見ている前で婚約を破棄されたことになる。
それもこんなくだらない理由で。
恥ずかしい。
悔しい。
泣きたい。
でも。
「分かりました」
私は頭を下げた。
「婚約破棄、お受けいたします」
エドワード殿下が少しだけ目を見開いた。
もっと泣きわめくと思っていたのだろう。
私だって、そうしたかった。
けれど、ここで泣いたら負けのような気がした。
「では、失礼いたします」
踵を返す。
その瞬間だった。
「アメリア」
背後から殿下の声が飛んできた。
「君も、良い相手を見つけてくれ」
私は振り返った。
キレながら。
まじでこいつは何を言い腐ってる?
てめえらの独善的でゴミのような考えのせいでこうなってるんだが?
そう言ってやりたかった。
それでも、彼らのようにみっともなくなりたくなかった。
最後まで家族としての誇りを持つ。
そのために笑った。
だいぶ歪な笑みだと思うけど。
「ありがとうございます」
怒りを抑えながらなんとか絞り出す。
「殿下も、どうぞお幸せに」
そう言って、私は会場を出た。
……もう我慢できそうになかったので。
◇
「……最悪」
馬車に乗った瞬間、私は呟いた。
泣いた。
ものすごく泣いた。
そして泣きながら怒った。
侍女のマルタが隣で慌てている。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ!」
「はい……」
「婚約破棄されたのよ! しかも大勢の前で!」
「はい……」
「三年間よ!? 三年も婚約してたのよ!?」
「はい……」
「なのに『君も良い相手を見つけてくれ』って何よ!」
「……殿下なりに、励ましたのでは?」
「励ましになるわけないでしょう! 頭おかしいんですか!?」
私はクッションを抱きしめた。
悔しい。
悲しい。
惨めだ。
何より腹が立つ。
「……悪魔でもいればいいのに」
「え?」
「悪魔よ」
私は窓の外を睨んだ。
「悪魔を召喚して、エドワードを地獄にでも連れて行ってもらいたいわ」
「お嬢様」
「何よ」
「そういう本気とも冗談ともつかないことを言うと、本当に悪魔が来るかもしれませんよ」
「来るわけないでしょう」
私は鼻をすすった。
「悪魔なんて、物語の中だけよ」
――その日の夜。
私は屋敷の地下にある古い書庫へ向かった。
理由は単純だった。
眠れなかったからだ。
そして。
少しだけ、本当に悪魔を呼んでみたくなったからだ。
もちろん、本気ではない。
腹立ちまぎれの八つ当たり。
それだけだった。
古い魔術書を棚から引っ張り出す。
「ええと……召喚術……」
ぱらぱらとページをめくる。
難しい。
魔法なんて学校で習った初歩程度しか使えない私には、さっぱり意味が分からない。
「これ……?」
なんとなくそれっぽいものを見つけた。
本の通りに、床にチョークで円を書く。
その中央に小さな蝋燭を置く。
そして本に書いてあった呪文を読む。
「ええと……暗き門よ、開け。深淵より来たる者よ、その姿を――」
そこで止まった。
「……恥ずかしい」
誰もいないのに恥ずかしい。
「こんなの本当にやるの?」
当然、返事はない。
私はため息をついた。
「……もういいわ」
蝋燭を吹き消そうとした。
そのとき。
――ゴォン。
地下室の扉が閉まった。
「え?」
風なんて吹いていない。
なのに蝋燭の火が、消えた。
そして。
床に描いた円の中央から、黒い煙が立ち上った。
「……嘘」
煙は人の形になった。
長身の男。
黒い髪。
赤い瞳。
そして頭には、二本の角。
男は私を見下ろした。
「呼んだか?」
私は固まった。
「……」
「おい」
「……」
「お前が呼んだんだろう」
「……本物?」
「見れば分かるだろう」
「悪魔?」
「そうだ」
私は数秒黙った。
そして。
「帰って」
「なぜだ」
「怖くなったから」
「勝手だな」
悪魔は呆れたように言った。
「そもそも呼び出したのはお前だろう」
「そうだけど!」
「なら願いを言え」
「願い?」
「ああ。金か。権力か。不老不死か。敵の破滅か」
悪魔が口角を上げた。
「あるいは、失恋した男を殺してほしいか?」
「……」
「図星か」
「違うわ」
「では何だ」
私は唇を噛んだ。
「……幸せになりたい」
悪魔が黙った。
「エドワード達を見返したいわけじゃない」
「ほう」
「ただ……」
涙が出た。
「私を捨てたことを、後悔させたい」
悪魔はしばらく私を見つめていた。
やがて。
「面白い」
「何が?」
「お前の願いは、悪魔らしくない」
「そう?」
「ああ。殺せとも、奪えとも言わない。ただ後悔させたいとは」
悪魔は笑った。
「人間は面倒だな」
「悪魔に言われたくないわ」
「気に入った」
「何が?」
「お前」
悪魔は私の前に片膝をついた。
そして私の手を取りながら言う。
「俺の名はルシアン」
「……アメリアよ」
「知っている」
「どうして?」
「呼び出した者の名前くらい分かる」
「そう」
私は空いている方の手で涙を拭った。
「じゃあルシアン。お願いがあるの」
「ああ」
「私を幸せにして」
ルシアンは一瞬だけ目を丸くした。
それから。
「それは俺にも難しい」
「悪魔なのに?」
「人間の幸福ほど厄介なものはない」
ルシアンは立ち上がった。
「だが、一つだけ手伝える」
「何?」
「お前を捨てた男に、お前を失ったことを後悔させることだ」
私は少しだけ笑った。
「……お願い」
◇
三日後。
私は社交界に戻った。
婚約破棄された令嬢として。
当然、噂は広がっていた。
『第二王子が婚約者を捨てた』
『新しい婚約者はミレーヌ嬢らしい』
『アメリア嬢は可哀想に』
そんな話ばかり。
けれど、私には一つ変わったことがあった。
ルシアンが、私の屋敷に居座るようになったのだ。
正確に言うなら私の部屋に。
「お前、いつまでいるの?」
「飽きるまで」
「悪魔って暇なの?」
「人間の観察は面白い」
「……変な悪魔」
「よく言われる」
そしてもう一つ。
ルシアンは、私に恋人のふりをしようと言い出した。
「なぜ?」
「単純だ」
ルシアンは言った。
「捨てた女に新しい男……それも顔も性格もいい男がすぐにできれば、元婚約者はどう思う?」
「……気になる?」
「そういうことだ」
私は少し考えた。
「でも、私に恋人なんて……もう無理よ」
「ふりでいい」
「あなたは悪魔でしょう」
「そうだ」
「人間の恋人のふりなんてできるの?」
「お前よりはできる」
「失礼ね」
こうして。
私は悪魔と恋人のふりをすることになった。
もちろん角は隠してもらった。
最初はぎこちなかった。
でも。
「アメリア」
名前を呼ばれるたび、いつからか胸が少しだけ騒ぐ。
「今日は寒いな」
そう言って外套を肩にかけられたときも。
「人間は体温を失うと死ぬだろう?」
「……そうね」
「なら気をつけろ」
そう言って手を握られたときも。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
私は少しずつ、婚約破棄されたことを忘れていった。
別の感情に支配され始めていたから。
◇
一か月後。
王宮の夜会。
私とルシアンが会場に入ると、ざわめきが起きた。
「誰、あの男?」
「アメリア嬢の新しい恋人?」
そして。
「アメリア!」
エドワードが近づいてきた。
隣にはミレーヌ。
「その男は誰だ?」
「私の恋人です」
「……恋人?」
殿下の顔が歪んだ。
「君は、もう新しい男を?」
「はい」
「そんなに早く……」
ミレーヌが口を挟む。
「アメリア様、婚約破棄されたからといって、節操がないのではありませんか?」
会場が静まった。
ここで全ての人間の心が一致したと思う。
すなわち。
『お前が言うな!』
そんな心の声が聞こえてきて、私は少し笑ってしまう。
努めて笑いを消してから、私はミレーヌを見た。
「そうかもしれませんね」
「え?」
「でも、婚約を破棄されたのは私ですから」
私は笑った。
「誰と付き合おうと、もう殿下達には関係ないでしょう?」
「……」
エドワードが黙る。
ミレーヌも絶句する。
その時、ルシアンが私の隣に立った。
「そういうことだ」
低い声。
その瞬間、エドワードの顔から血の気が引いた。
なぜかは分からない。
ただ、彼はルシアンを見ると、一歩後ずさった。
「……君は、何者だ?」
「ただの男だ」
「嘘だ」
「そう思うなら、それでいい」
ルシアンは笑った。
「だが一つだけ教えてやろう」
「何を……?」
「お前は、自分から幸福を捨てた」
エドワードが黙り込む。
そして。
それから少しずつ、彼の人生は崩れていった。
ミレーヌは王子妃としての立場を得た途端、殿下の望む暮らしがどれほど窮屈なものか知った。
自由に夜会へ行けない。
好きな服も好きに買えない。
王族として常に人の目を気にしなければならない。
やがて二人は喧嘩ばかりするようになった。
一方でエドワードは、私とルシアンの姿を社交界で何度も目にした。
笑っている私。
楽しそうに話す私。
以前よりずっと自然体になった私。
そのたびに、彼は苦い顔をした。
そしてある日。
私は王宮の庭でエドワードに呼び止められた。
「アメリア」
「何でしょう」
「……戻ってきてほしい」
私は瞬きをした。
「どこへ?」
「私のもとへだ」
呆れてしまった。
「殿下にはミレーヌ様がいるでしょう」
「彼女とは、もう……」
「知りません」
「君を愛していたことに気づいたんだ」
その絞り出すような声に、私は少しだけ胸が痛んだ。
けれど。
もう昔の私ではない。
「遅いですよ」
「アメリア……」
「私も、以前は殿下を確かに愛していました」
エドワードが顔を上げる。
「でも、婚約を破棄されたあの日に終わりました」
「そんな……」
「殿下」
私は静かに言った。
「私を失ったことを後悔しているのなら、それで私には十分です。それ以上は要りません」
それ以上は何も言わなかった。
私は頭を下げてルシアンの元へと歩いていくのだった。
◇
「満足したか?」
帰り道、ルシアンが尋ねた。
「うん」
「本当に?」
「うん」
私は空を見上げた。
「思っていたより、すっきりした」
「そうか」
「ねえ、ルシアン」
「何だ」
「あなたは、いつまで私のそばにいるの?」
ルシアンは黙った。
心なしかそわそわしているように思える。
……顔は相変わらずの仏頂面だが。
「悪魔って、人間のところにずっといていいの?」
「問題ない」
「じゃあ……」
私は少し迷ってから言った。
「恋人のふりも、いつまで続けるの?」
ルシアンが立ち止まった。
「……ふり?」
「え?」
「俺は途中から、ふりをしていたつもりはない」
「……」
今度は私が固まった。
「どういう意味?」
「そのままだ」
ルシアンは私を見た。
「俺は、お前が好きだ」
「……悪魔なのに?」
「悪魔でも好きになる」
「私、普通の令嬢よ?」
「ああ」
「何の力もないわ」
「知っている」
「特別美人でもないし」
「それも知っている」
「料理も苦手よ」
「知っている」
「じゃあ、なんで?」
ルシアンは少し考えた。
「お前が俺を呼んだ時」
彼は笑った。
「泣きながら『幸せになりたい』と言ったお前が、最後には自分で笑えるようになったからだ」
「……」
「その笑顔を、もっと見たいと思った」
胸が熱くなる。
私は顔を伏せた。
「……悪魔って、ずるいわ」
「なぜ?」
「そんなこと言われたら……」
私は小さく笑った。
「好きになってしまうじゃない」
ルシアンが目を細める。
「なら、問題ない」
「何が?」
「俺も、お前を好きだからな」
◇
後日。
社交界では、一つの噂が流れた。
第二王子は、かつて自ら捨てた婚約者を取り戻そうとして失敗した。
そして元婚約者は。
正体不明の男と恋に落ちたらしい。
誰も知らない。
その男が悪魔だということを。
私も、もう気にしていない。
エドワードがどれほど後悔しているのか。
ミレーヌとどうなったのか。
そんなことは、もう私の人生には関係ない。
ただ一つ。
婚約破棄された夜、私は悪魔を呼んだ。
復讐のためだった。
でも。
悪魔がくれたのは、復讐ではなかった。
私がもう一度、自分の人生を好きになるための時間だった。
「ねえ、ルシアン」
「何だ?」
「あなた、本当に悪魔なの?」
「そうだ」
「じゃあ、地獄に帰ったりしない?」
「帰ってほしいのか?」
「……嫌」
私が答えると。
ルシアンは満足そうに笑った。
「なら、帰らない」
婚約破棄された夜。
泣きながら呼び出した悪魔は。
どうやら私の人生で、一番大切な人になってしまったらしい。




