第十一話 夕立の前に その4
あの冬の朝より先も、私はひたすらに生き続けた。高校を出て、大学を出て、それなりの会社に就職した。
大学に進学して以来、永和町には帰らなかった。だれにも頼らず、一人で生きるために。姉のように、ならないために。
生き続ける間、私の心には、ごうごうと何かが燃え続けていた。
あの日燻り始めたそれについて、正体は何もわかっていない。
それ故に名前のないその感情は、私の心の虚空が広がっていくたびに、その勢いを増していった。
何もなく、ただひたすらに過ぎていく日々。そんな日々は、ある人物から送られてきた一つのメッセージで、大きく変わることとなった。
水野友寄。姉の恋人だった男の弟で、色々浅からぬ縁からか、時折会うことがあった。
ある日、そんな彼から送られてきたメッセージを見て、私の感情は久しぶりに大きく揺れ動いた。
『あなたのご両親が逮捕されました、児童虐待で。虐待を受けていた子の名前は“三司祈李”。兄さんと貴方の姉が残した、たった一つの忘れ形見です』
一瞬、理解ができなかった。逮捕、虐待、忘れ形見。書かれた言葉を、私はゆっくりと咀嚼する。そして、しばらくの後、私はその言葉の意味を理解した。
「今更来たって……遅いわよっ!!」
メッセージを受け取ってから数日後、数年ぶりに戻った故郷で、私はいつの間にか親になっていた友人から、そんな言葉を受けた。
ある日、身重になった姉が骨壺と共に故郷に帰ってきたこと。
子供を産んだ二年後に、体を悪くして死んだ事。
残された子供に対して、両親が姉のツケを払わさせた事。
そして、目の前の友人がその子、三司祈李という少女を助け出したことを、私は怒る彼女から聞かされた。
何を言っているかはわかったし、言葉の意味も理解できた。けれど、信じる事だけはできなかった。
いつかのように幻想に溺れようと、私は覆らないものを否定しようとした。
でも、フラフラと連れられた先にあった二つの名を刻んだ石が、そんな甘い行為を容易く打ち砕いたのは、言うまでもない。
その夜、私はただひたすらに茫然とした。自身を守ろうとする悲しみも、驚愕も、あまりに巨大すぎるその事実の前にはどうすることもできなかった。
頭にあるのは、何故だという疑問だけ、どうしてこうなったんだという、誰も答えをくれない疑問だけだった。
私は、何のために生きれば良いのだろう。私よりも早く年老いて死ぬ親のためにも、自らの幸福を掴むためにも、もう私は生きることはできない。
――なら、もういっそ……
「……」
その言葉が零れそうになった直前に、私はその気配を感じた。言葉を飲み込み、心を取り繕い、友人を想定して私は後ろを振り向く。けれど、そこに立っていたのは一人の少女だった。
少女は、不思議そうな表情をしながら、ぼーっと私を眺めている。そして、相対する私自身もまた、彼女の顔を見つめていた。
だってその少女は、姉にそっくりだったから。
今までずっと考えようにしていたあの幼いころの記憶が、次々にその彩を取り戻していく。
姉が最後に残したそれは、私が望んでいた形ではないにしても、紛れもない姉の愛の結晶だった。
それを理解した瞬間。ボッと、何かが灯った。それは熱を帯びていて、消えかけていたものを巻き込みながら、私の心を埋め尽くした。
『今度こそ、幸せにしよう』
幾度となく選択を間違えた。最後には道を違え、誰も幸せにはならなかった。
私は姉を愛していた。他のどんな人間をも差し置いて、あの人だけを愛していた。
でも、あの人は、最後までは私を愛してはくれなかった。
自分だけのものだと思っていた笑顔は数ある内の一つに過ぎず、たった一つを見れたあの男が妬ましかった。
どうしようもなくなった姉が頼ったのが私ではなく、力のある友人だったという事実が、悔しくて悔しくてしょうがなかった。
愛しくて、愛しくて、愛しくて。
愛しくて、愛しくて、妬ましくて。
愛しくて、妬ましくて 悔しくて。
憎くて、憎くて、憎くて。
だから今度こそ、私だけがこの子を、姉の形見を幸せにしよう。
【この愛は、もう誰にも渡さない】
まだ言葉の意味も、私が誰なのかも知らない少女を抱き締めながら、ただひたすらにそう誓った。
※※※※※※※※
「決して報われることが無いはずの願いを、私は貴方によって叶えようとしたの」
「……」
「あら、どうしたの?そんな顔をして」
「……初めて聞きました。母が、そんな境遇だったなんて」
「綾音は…まあ、言わないわよね。あの子は結局、姉の理想的な側面しか見たことが無かったから。」
「……貴方は、貴方は私を私としてなんて、これっぽっちも見てなかったんですね。」
「ええ、そうよ」
「全部、全部自分のためだったんですね」
「ええ、そうよ」
「本当にどうにかできる時に、貴方は何もしなかった、出来なかった。それを全部他の何かのせいにして、挙句私を貴方の諦めたはずの思いのはけ口にしようとした。そういう事ですか?」
「…ええ、そう、その通り。私はできる立場にいたはずなのに何もしなかった、もう私にできることはないって、何もかもを諦めた。だから私は縛られた、貴方と同じように、ね」
「私と同じって、何言ってるんですか」
「あら、間違っては無いと思うのだけど。貴方、これまでの不幸はすべて親のせいだと思って、全ての責任を過去に押し付けたのでしょう?」
「そんなことしてません。私を縛ったのは貴方達の方だ、何もしていない私に濡れ衣を着せたのは、他でもない貴方たちだ」
「じゃあ、あの事件もそのせい?」
「…あれも、過去の因果のせいです」
「でも、他の手段が思いつかなかったからって、実行したのは貴方じゃない」
「…何が言いたいんですか」
「貴方はもう、人を責めれるほど清い存在じゃあないって言ってるの」
「…もし、もし仮にそうだとしても、貴方と私は、決定的に違います。」
「へえ、何がかしら」
そう問うと彼女は一息つき、その、はっきりとした声で告げる。
「私はもう、過去に縛られてなんていません。綾音さんも、友寄さんも、貴方も、もう私には必要ない。私は、自分で自分を認めて生きていくんです。
貴方みたいに、誰かに渇望しないといけない狂った人生なんて、私はもう二度と過ごさない。」
それは、宣告だった。
私の綺麗さで塗り固めた憎しみは、もう成就することはない。
後悔という一度目の死を迎えた願望は、それ自体の拒絶によって、とうとう二度目の死を迎えたのだ。
だからもう、私には否定も肯定もする権利は何もない。
けど、一つだけ、最後にこれだけは、心に残してほしい。
「……そう。それなら、
私はもう何もできない。
何もすることができないから
……せめて、幸せに生きて頂戴ね」




