第十一話 夕立の前に その3
「……久しぶり」
部活の帰り道、たまたま通りかかった小さな公園で再会した姉は、複雑そうな表情で私にそう言った。前までのあの満ち足りているような笑顔は消えていて、笑みには陰りがあった。
私は、部活後の汗の不快さも夏の暑さも忘れて姉にこれまでの事を問いただした。
今でこそそれがどれだけ浅慮な行為だったかは理解しているけれど、当時の私は、それすらも考えられないほどに姉が人生の一端を担っていた。
そんな私の疑問に対し、姉はぽつりぽつりとこれまでの事を話してくれた。
それは、学年が上がって間もない春先の事。あることがきっかけで、姉は同級生に手を上げてしまったらしい。
聞く限り、人付きあいが上手い姉がそこまでしてしまった理由には納得がいったし、相手に明確な悪意があったのは間違いない。
けれど、今回に限っては、手を上げた相手が悪かった。
姉が手を上げたのは、当時町で強い権力を持っていた家の娘で、頭も良く、運動も出来て、その上人望もあるという、陰に隠れた性格の悪ささえ除けば、誰が見ても完璧な人物だった。
そんな彼女にとって姉は、勉強も運動も不出来にも関わらず自身よりも人気者の気に食わない存在であり、今回の出来事は、そんな姉を貶める絶好の機会となったのだ。
「……皆が、ね、私のこと、いないみたいにして過ごすようになったんだ」
姉が奪われたのは、居場所だった。
始まりは、彼女の取り巻き達。姉が手を上げたという事実を、できうる限り悪意を込めて脚色した噂を流した。
スマホなんてない時代、対話を日々の娯楽として消費していた者たちが、そんな目立つものを話のタネにしないはずが無かった。
あるものはさらなる悪意を込めて、またあるものは純粋な嫌悪を込めて。
尾が付きひれが付き、姉をよく知る人も知らない人も、誰もが姉を噂の人物だと認識していった。
そうして、姉にはおびただしい量のレッテルが張り付けられた。一つ剥がしても、それを覆いつくす様にすぐ十のレッテルが張られる。
あいつは暴力的、加害者、悪人。
ならばあの子は被害者、善人、守るべき存在。
あいつを守る奴も、擁護する奴もきっと悪人。
だから、あの子を守るために動いている私たちは、まぎれもない善人だ。
学校内で煮詰まって濃縮された噂は、誰かをきっかけに校外へと噴き出した。
「ほら、あの子」
「ああ、あの噂の」
「そうそう、ひどい子」
「逆らったのが悪いのよ」
「本当、あの子はかわいそう」
目が、怖くなった。声が、怖くなった。
友達が、怖くなった。人が、怖くなった。
呼吸が、怖くなった。あらゆる音が、怖くなった。
……でも、それでも。
あの子に、心配はかけられない
「だからあの日、家に帰らなかったの。もう、隠していられそうになかったし。それに、何より……」
親から張られ続けていたレッテルを、認めてしまいそうになったから。
「ごめん、ごめんね? こんな弱い姉さんで」
姉は、ただそう言って、私の前から立ち去った。弱いといっておきながら、涙一つも流さずに。
私は、引き止めようと腕を伸ばすべきだった、声を掛けるべきだった。姉の力になりたいと、どうか傍にいさせてほしいと。でも、結局私はただ立ち竦み、何もすることができなかった。
姉がそんなことになってたというショックは、勿論あったと思う。ただ、その時の私を満たしていたのはそんな清い感情でなく、もっと醜いものだった。
「どうして姉さんは、私を頼ってくれなかったの?」
※※※※※※
私は、姉さんと何年も何年も一緒に過ごしてきた。
姉さんが私を愛してくれたように、私もずっと姉さんを愛していた。
姉さんが嬉しいと私ももっと嬉しくて、姉さんが悲しいと私はもっと悲しくて。
だから私は、姉さんの全てを一緒に抱えたかった。私に見せない様にどれだけ苦しんでいたのか、どれだけ泣いたのか、あくまで知らないふりをしながら、私は誰よりも知っていた。
姉さんの苦労は私の苦労。姉さんの嘆きは私の嘆き。姉さんのためならどんなことだってできたし、どんなものでも背負えた。
親の期待も周りの期待も、優秀なんだというレッテルすらも持ったまま、貴方の全てを抱えられた。
でも、貴方は私に、何一つも持たせてくれなかった。
私だけのものだと思っていた笑顔は、あの名も知らぬ男がもっていった。
私だけが聞けると思った助けての声は、顔しか知らない誰かが受け止めた。
私だけがあげられると思っていた愛は、あの人自身が見つけてしまった。
私だけが救われているという幻想は、あの人の友人の数だけ砕かれた。
私が守っていると思っていた居場所は、あの人にとって居場所ですらなかった。
私はあの人にとって、ただの妹でしかなかった。
あの夏以降、姉はある日を除いて家に、三司家に帰ってくることは無かった。
高校にもいかなくなった。人に気を遣うのをやめた。知らない人に優しくするのをやめた。そして…、家族であることを、あの人はやめた。
姉が家族でなくなってから、両親はいっそう私を愛するようになった。まるで最初から姉なんていなかったように、私だけが家族であるように。
そんな両親の期待に、私は何も言わずに答え続けた。それを失ってしまったら、今度こそ自分の価値がなくなってしまいそうな気がしたから。
努力して、努力して、努力して。もう褒めてほしい人はいないのに、それでもなお努力して、その結果県内でも有数の進学校に合格した、そんな日の翌日だった。
疲れてぐっすりと眠ってしまったせいか、その日はいつもよりずいぶん早く目覚めていた。しかし、特段何かするべきこともなかったためにぼんやりと夜を過ごし、いつの間にか窓から光が差し込み始めた。
なんとなく私はその朝焼けが見たくなって、私は窓を開けようと手を伸ばした、その時だった。
――コンコン
外から、窓が叩かれた。音に興味を惹かれ、私はカーテンを開ける。そして、窓を挟んだ向かい側に、私はその顔を見た。
「……姉、さん?」
私は冬の寒い風が吹き込むのも厭わず、すぐに窓を開ける。そして、改めてその人物が自身の姉であることを理解した。
「久しぶり、元気してた?」
「……」
「ごめん、急に来て驚いたよね」
「……なんで」
返事をするのも忘れ、私はそれに目を向ける。姉の後ろには、何度か見た姉の幼馴染で、今は恋人である男が大荷物を抱えて立っている。そして姉自身も、まるで隠れてどこかに出かけるような装いをしていた。
「どういう、こと?」
「……突然のことで申し訳ないとは思ってるんだけど、今日は、お別れを言いに来たんだ」
「……お別れ?」
「そう、お別れ。私達、この町を出ていくことにしたの」
「出ていくって……どこに?」
「うーん……少なくとも、一日じゃあ行けないところまで」
「なんで、そんなこと……」
そう聞くと、姉は一つ白い息を吐いてから、その答えを口にした。
「もう、この町に、私の居場所はなくなっちゃったから」
反論を、口に出そうとした。でも、姉が浮かべた、その全てを諦めたような笑顔を見てしまったら、もう何も言えなかった。
「……じゃあ、もういくね」
何も言えない私を置いて、姉は立ち去ろうとした。けれど、その前に一度だけ立ち止まり、
「……清美は、私みたいにならないでね」
そう言い残して、歩いていった。




