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第十一話 夕立の前に その2

 考えないようにしていた。自分でも酷く醜く、狂っていて、何より彼女が一番嫌いな事だという事を理解していたから。


 でも、私は結局、それを堪えることができなかったらしい。頭の中にずっと残り続けていたあの顔にそっくりな表情を浮かべる彼女が、何よりもはっきりとそれを証明していた。


 思考が現状に追いついたとき、私の口は即座に言い訳を口にしようとしたが、声どころか、それ以前の吐息すら飛び出すことは無かった。


 頭がどれだけ取り繕えといっても、私の心は、それを許さないとでもいうように拒絶していた。


「清美さん」


 名前を呼ばれる。いつの間にか逸らしてしまっていた目線を声のした方に向けてみると、さっきと変わらない雰囲気で、何故か少し笑っている彼女がいた。


「……えっと、何かしら?」


 隠しても無駄だと思ってはいるものの、それでも私は誤魔化す。優しくて、彼女の味方で、誰よりも頼りになる大人を演じる。そうでなければ、奥底で煮えているものが溢れ出してしまいそうだから。


「確認、終わりました。」


「あら、もういいの?」


「はい。いろいろ調節もしてもらいましたし、何より借りる立場ですから」


「これしかないって言っておいてあれなんだけど、そもそもデザインが気に入らないとか……」


「無いですよ、着られるだけ充分ですし」


「そう、ならいいんだけど」


 大丈夫、うまく話せてる。不自然さも多分ない。話的にも、多分もう用は済んだはずだ。だから、このままいけば…。


「……ところで、清美さん」


「ん? 何かしら」


「さっき、誰の事思い浮かべてたんですか?」


――その瞬間、縫い付けていた冷静さは音を立てて崩れ去った。




「……ごめん、なさい」


 咄嗟に出たのは、謝罪だった。でも、何に対してのものなのかは、自分でもわからない。それを知ってか知らずか、彼女は私に告げる。


「謝らないでください。もう、そういうの聞き飽きてるんで」


「そう、よね……」


 他ならない彼女に言われては、そう言うしかなかった。それをきっかけにするように、彼女は更に打ち明ける。


「……ずっと、そうだったんですよね」


「……何が?」


 問うと、彼女は言う。


「初めて貴方と話した時から思ってたんです。この人は、どうしてずっと嘘をついてるんだろうって」


 彼女の言葉を、黙って聞く。


「綾音さんは、使命感。友寄さんは、多分後悔。でも、貴方だけはどうして私を救おうとするのかわからなかった」


 でも、と一拍を置いて、彼女は言う。


「貴方は、そもそも私を救う気なんてなかった。違いますか?」


「……ははっ」


 思わず、笑いが零れた。自分がしていたという努力が、その実すべて無駄だったなんて、笑うしかない。そして、それと同時に、私は理解した。


 どうやら私の心のものは燻っていたわけではなく、ずっと燃え続けていたらしい。それが分かった今、私にできることはもう、これしかない。



「……ええ、そうよ。私にとって、貴方は手段でしかなかったわ」


「手段って?」


「決まってるじゃない。自分を救うための、よ」


 そう、全ては自分を救うため。


 道を間違え、進み方を間違え、最後には憎しみを抱えるだけになった、どうしようもない自分を。




※※※※※※


 


 姉は、愚かで聡明な人だった。


 勉強はできず、運動もできず、お世辞にも優秀とは言えない。けれど、それ以上に人を愛し、誰かのために動け、何より優しく、聡い人。


 私とは何もかもが正反対で、どっちがいいかなんて、きっと誰にもわからない。でも、もし互いに補い合って生きていけるのだとしたら、誰にも負けない完璧な二人だった。


 もっとも、私達の両親は、それに最後まで気づかなかったけど。



 本来姉にも与えられるはずの愛情が私だけに注がれているのは、火を見るよりも明らかだった。私は良くて、姉は駄目。何度も何度もそう刷り込まれそうになった。


 でもそうはならなかったのは、他でもない姉が姉として、私を愛してくれていたからだ。



 姉は、私が何かを成し遂げると自分の事のように喜び、私が辛い思いをすると、自分以上に苦しんでくれた。


 両親の期待と自尊心を満たしたことを称えるどんな言葉や物よりも、姉の「頑張ったね。」が嬉しかった。


けれど、そんな純真無垢な心は、ある日を境に変化した。


 人を知り、物を知り、体も大きくなった小学四年生のある日、私は、私の知らない姉の姿を知った。


 それは、学校での一日を終えて帰路を辿る途中の事、私は進む道の先に、楽しそうに笑いながら歩く姉の姿を見つけた。


 その頃の私は、姉にその日あった楽しい事や嬉しかったことを話すのが日課だった。だからその時も、姉と少しでも早く今日の幸福を共有したくて、姉の元へと駆け寄ろうとした。


 けれど、一歩踏み出そうとする直前で、私の足は動かなくなった。



 見て、しまったから


 私と一緒にいる時以上に楽しそうなその笑顔を、隣にいる、私が顔も名前も知らない男に見せながら歩く、その姿を。



※※※※※※



 あの日から、いくらかの年月が流れた。姉は高校生に、私は中学生になり、互いの生活サイクルが変わったことで、以前のように話す機会は少なくなった。


 そして、そのただでさえ少ない機会でさえも、徐々に失われつつあった。


 私は、あの日以降少しずつ姉を避けるようになった。別に喧嘩をしたわけでも、まして嫌いになったなんてことはない。


 むしろ姉の方は、変わらず私を可愛がってくれていたと思う。問題は、私の心に燻り始めた感情にあった。


 それを何と呼ぶべきなのかは、当時もまだわかってはいなかった。


 ただ、姉の笑顔を見るたびに、あの日見た顔が脳裏にちらつき、そのたびに得体のしれぬ何かが、私の心に溜まっていく気がしていた。


 変わらない姉、変わらない両親、変わらない平和、変わらない幸福。正体不明の何かを抱えながらも、私の日々は相変わらず過ぎていく。


 いつまでもいつまでも、少なくとも大人になるまでは続いていくのだろうと、そう、思っていた。


 それは、中学二年の初夏の夜の事。深夜零時を過ぎても、姉が家に帰ってこなかった。


 両親は、年頃だからそういうこともあるだろうなんて理由を付けて、なんの関心も抱いていなかった。


 それが異常だとはわかっていても、私は気に留めはしない。そんなことは、とうの昔にわかっていたから。


 でも、だからこそ私は、姉が心配で仕方がなかった。そんな両親の仕打ちを何年も受け続けてなお私を愛してくれたような姉が、どうしてそんなことをしたのかと。


 その理由が、姉がこれまで築いてきた全てを奪われ、誰も信じることができないという孤独に苛まれたからだと姉の口から聞いたのは、それから一か月以上が経ってのことだった。

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