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第十話 幻想を信じる者 その3

8月14日 続


 その話を聞いた者は、その誰も彼もが彼女に憐みの感情を向けるばかりで、決して話を信じようとはしなかった。ある者は、気が狂ったのだとさえ言ったという。


 しかし、常人であれば悪感情を抱くであろう数々の言葉を受けても、それが彼女の心の奥深くまで届くことは無かった。


 それもそのはず、そんな言葉は塵となって消えてしまうほどの幸福で彼女の心は満たされていたからだ。



 それから、何十年もの時が過ぎた。数え切れぬほどの人が生まれ、数え切れぬほどの人が死んでいった間も彼女は生きていた。


 絶えることなく続く人生の中で、いくつもの体験をして、いくつもの感情を抱いたはずだった。けれど、彼女の心を満たしていたのは、消えることのない絶望だった。



「その人は、周囲の人からおかしくなってしまったと言われていました。年配の方も、中年の方も、子供でさえもそんなことを言っていました。それだけの長い間、その人は誰にも信じてもらえなかったんです」


 だから、私がその人と初めて顔を合わせた時も、ひどく疑われてしまった。


「何かひどい暴言を言われたわけでも、まして暴力を振るわれたなんてことはありませんでしたけど、それでも明確に拒絶されているのだと分かりました」


 睨むような、怯えるような目線は、何度も私を貫いた。一体どんな経験をすればここまで人を拒絶してしまうのだろうと、考えずにはいられなかった。


「でも、それでも私は諦めることはしませんでした」


 理由として、伝承の真相を確かめたいという探求心はあったと思う。けれど、それ以上に私は……



「……貴方を、貴方の話を、私は信じているからです」


 拒絶されながらも彼女の元へ通い続けて数日が立ったその日、私は彼女から投げかけられた疑問に対して、そんな言葉を返した。


――どうして、貴方は諦めないの?


 老人の、弱々しくか細い声だったけれど、それでもはっきりと彼女は口にした。きっと、理解できなかったのだと思う。


 何度も何度も否定されてきて、人に拒絶されることの恐ろしさを知っている彼女からしたら、それでもなお彼女の元に通い続けていた私は、とも知れば異常者のように見えていたのかもしれない。


 そんな私の“信じている”という言葉を受け止めた彼女の反応は、とても静かなものだった。


 無視をされた、というわけじゃない。その時貌に表情として浮かぶべき感情は、すでに彼女から消えてしまっていたんだ。


「それから、私は彼女、芳江さんから話を聞くことができました」



 記録に残る限りで最後の伝承の体験者である彼女の話は、それがついさっき起こったかのように鮮明だった。しかし、それはどこか現実味に欠けている、夢のような話でもあった。


 今からおよそ七十年ほど前、一人の男が海へと向かった。大人しい性格ではあったが情に厚く、それゆえ多くの人に好かれていた。


 そして、そんな彼には、誰よりも愛する者がいた。


 その子は昔から共に時間を過ごしてきた幼馴染で、彼の心に存在していた友情が淡い恋心へと変わるもの何ら不思議なことではなく、相手もまた同じだった。


 どれだけ苦しい日々を過ごそうと、その人となら生き抜いていける。だからこそ彼はそんな彼女を守るため、ありったけの勇気を持って旅立っていったのだ。


 たとえ傍にいなくとも、彼らの心はつながっていた。遠い地の彼女に思いを馳せ、心に溜まった思いを何度も文にして彼女へと届けた。


 受け取る彼女は文に込められた彼の言葉を心にしまい、必死に生きて彼の帰りを待ち続けた。


 そんな日々が続いていたある日、いつものように郵便の配達人が二人の家へとやってきた。前回の手紙か届いてからしばらくの間が空いていたのもあって、普段よりも喜ばしい気持ちを抱えながら彼女は玄関へと向かい、その扉を開けた。


 そうしてその日、彼は名前だけになって帰ってきた。



 彼女は、何度も名前の書かれた紙を読み込んだ。彼の心がどこかにないかと、紙がしわくちゃになるまで探し続けた。


 けれど、いつまでたっても彼女の心に彼の言葉がしまわれることはなかった。


 しかし、それでも彼女は彼の言葉を求め続けた。家族の言葉も、友人の言葉も、紙の言葉すらも受け取るのを拒絶した。


 虚構だと信じるには長すぎる月日が経ち、心にため込んでいた彼の言葉が零れ始めてもなお彼女は、扉を開けて家へと帰ってくる彼を待った。


そしてある日、とうとうその願いは、現実のものになった。



「ありがとうって、言ったのよ」


 これまでのどの表情よりも優しげな顔をして語る芳江さんの様子から、それが彼女にとってどれほどの言葉だったのかが理解できた。


 ずっと彼を待ち続けた彼女に送られた感謝の言葉は、それだけで彼女の心を満たしたのだ。



――だがしかし、彼女の口から、その後の最も幸せであるはずの時間について語られることは、決して無かった。



「遠い昔の記憶だから忘れてしまった、というわけじゃなかったんです」


 そこに至るまでの記憶はあれだけ鮮明に覚えていたのだから、それ以上に幸せなことを、他でもない彼女が覚えていないはずがない。


「話を伺って分かったこととして、芳江さんは、幸せだという感情を抱いた記憶は覚え続けていたけれど、《《肝心な体験に関する記憶のことごとくが消えてしまっていた》》んです」



 自分はあの時幸福だったのだということは分かる。だけど、どうして幸福に感じていたのかは何もわからない。


 気が付いた時自分に残されていたものは、とてつもない幸福を感じていたという実感と、その全てを自分はすでに失っていて、もう二度と手に入ることはないのだという絶望と喪失感だけだった。


 自分は何を忘れてしまったのかどれだけ必死に思い出そうとしてもうまくいかず、周りに頼ろうとしても、そもそも誰もそのことを信じてはくれない。


 そうして、いつかあったのかもしれない希望に救いを求め続けながら、同時に決してそれが叶うことがないのだという事実を抱えて生きていく。


 次第に自分が本当に救われたのかという事にさえ疑問を覚え、最後には何もかもを信じられなくなっていきながら、失意に囲まれて逃げることすらできずに、とうとう心が死んでしまう。


 かくして、全ては《《亡き》》ものと化し、叶ったはずの願いは目覚めた後の《《夢》》のように消えて、その人の人生という物語は幕を終える


 

「……夢物語よりもはるかに残酷なそれを、人は、【亡夢】と呼んだ。これが、私のたどり着いた一つの結論です」



 話を聞いた友寄さんと綱継さんは、しばらくの間黙って俯いていた。静寂が辺りを支配し、言葉を待つ私には緊張が走る。


 そんな沈黙を破ったのは、綱継さんだった。


「本当に、良く調べられたのですね。我々以外でそこまで結論を出したのは、もしかしたらあなたが初めてかもしれません」


「……ありがとうございます」


 その言葉で、これまでの自分の成果が認められた気がして少し喜ばしい気分になったが、綱継さんの言葉は、まだ続いた。


「……ですが、ですね。残念ながら、それでは完全な答えとは言えません」


「それは分かっています。なにせ、私が勝手に出した結論でしかありませんから」


 そう、これは私が導いた、一番きれいだと思った結論。完璧に合っているはずはないとは最初から思っていた。けれど、綱継さんが次に口にした言葉は、予想外ものだった。


「いえ、そういう話ではありません。真那さんがたどり着いた結論も正解ではある。もっと正確に言いますと、それはあくまでこの伝承が持つ、一つの側面なのですよ」


「一つの、側面?」


「ええ……確かに、人によってはそのような残酷な結末を迎えてしまうことも在ったでしょう。ですが、本質はそこではないのです」


 そういうと、綱継さんはその言葉を口にした。


「我々が受け継いできた亡夢伝承の真実、それは他でもない、死者による祈りによって引き起こされる、【生者が生きていくため】の儀式なのです」

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