第十話 幻想を信じる者 その1
8月??日
あまりにも唐突に、何の前触れもないまま目が開き、それと同時に私の意識は覚醒する。
「……あれ?」
眼前に広がる光景をみて、頭に残る直前の記憶と現状の差異を認識した私は、思わずそんな声を上げた。
不可思議な出来事に混乱しながらも、私はひとまず、先ほどまでの記憶を思い返すことにした。
記憶に残っている限りでは、私はいつものようにあの部屋で、亡夢伝承に関しての調査記録の整理をしていたはずだ。
しかし、今現在私が立っているその場所は、時雨家ではなかった。しかし、見知らぬ場所というわけでもない。何を隠そう、そこは他でもない私が過ごしていた実家の私の部屋だった。
混乱が収まった私は、改めて自分の状況を整理すべく、周囲を探索することにした。
窓から光が差し込むその部屋には、勉強机やら本棚やら、何年も共に過ごしていた品々が記憶通りの様子で置かれている。また、何気なく動かしていたが、自分自身の体も特に異常なく思い通りに動かすことが出来ていた。
状況そのものがおかしいという事実さえ除けば、その空間におかしな事は一切存在しなかった。只一つを除いては。
時計と共に壁に掛けられていたそれの方へと近づく。確か、セットで置いておいた方が何かと便利そう、なんて安直な理由でそうしていた気がする。そんなどうでもいい事を考えながら、私はそのカレンダーの前へと立った。
カレンダーは、8月のページで掛けられていた。それはそうだ、月が違っていたらカレンダーの意味がない。もっとも、そもそもの年が間違っていなければの話だが。
【2012年】 書かれていた西暦は、今から7年も前のものだった。
――ドサッ
突然聞こえた音に、私は思わず反応する。見ると先ほどまでまっさらだったはずの勉強机の上に、何やら自由帳のようなものが置かれていた。すぐさまそちらへと向かい手に取ると、それは昔書いていた日記だった。
小学校六年生とは思えない汚い字で何行も書かれたその日記を、ペラペラと流し読みしていく。正直うろ覚えとすらいえない記憶なのだが、それが紛れもなく自分が書いたものである事だけは疑いようがなかった。そしてそれと同時に、この世界がなんであるのかを、ようやく私は理解した。
「……夢、か」
現実には絶対にありえない出来事であっても、夢であるならばいくらでも説明ができる。ただ一つ説明できないことといえば、何故今更になってこの頃の夢を見ているのか、ということだ。
どんな人間にも、忘れるべき過去というのはある。俗に言う黒歴史などとはまた違うそれは、例えどんなに昔のことだったとしてもカビの様にこびりつき、生涯にわたって人の人生に巣食い続ける。例えば、私の場合は…
8月○○日
会ってはいけない、と言われていた子に会った。
「どうして、会っちゃいけないの?」
「……あの子と居ると、あなたも嫌な目に合うからよ。それは嫌でしょ?」
「でも、あの子は……」
――私と、何も変わらなかった。
8月14日
「……んっ」
ずいぶんと重みを増した瞼を擦りながら、私はゆっくりと目を開ける。面を上げ、数度瞬きをした後、私は周囲を見渡してみる。先ほどまでいたはずの部屋は面影一つ残っておらず、ただ元の部屋の光景が広がっているだけだった。
目の前の机に、まとめていた資料が散らかっている。冊子のようにまとまった用紙をめくってみると、確かに紙の質感があった。厚みもあの日記とは違い、ずいぶんと分厚い。まあ、祈李君よりも先にこの家で過ごさせてもらい始めてから、ほぼ毎日この伝承についての調査を進めていたのだから当然といえば当然だ。
そんなことをしている内に、徐々に現実へと感覚は戻っていく。また、それに比例するように、あれは確かに夢だったのだという実感が少しずつ私の中に湧きあがってきた。
そして、体にのしかかる重みをはっきりと取り戻した頃、私は突如としてそのなくそうとしていた記憶を取り戻した。
【彼女は、もう救われた】
あくまでただの私の推測で、まして彼女に直接聞いたというわけでもないけれど、確かにそうなのだろうという妙な確信が私にはあった。
そしてそれは、“誰かに彼女が救われた”ということは、彼女はもう過去なんて捨て去っても生きていけるという、私にとって最悪の現実を意味していた。
認めたくなくて、どうにかして消し去ろうとしていたその結論を思い出し、夜の全てを飲み込むような雰囲気に浸っていた心は、それを上書きするようなさらに黒く醜い感情をゆっくりと吐き出した。
……あの人からの連絡があったのは、そんな時だった。
はるか遠くに感じられた夜明けは、微睡みにによって浅くなった思考のまま過ごしている内にいつの間にかやって来ていた。今だ光も差し込まない窓を背に、泥がへばりついた様に重い体を何とか起こした私は、必要なものを手にして部屋を発つ。
静寂と薄暗さだけが満ちる廊下を抜け、こっそりと誰もいない台所へ足へ踏み入れる。冷蔵庫からペットボトルの珈琲を取り出すと、生のままの食パンと共にそれを胃へと流し込んだ。
それから歯を磨き、最低限の支度を済ませた私は、誰にもバレない様に扉を開けて外へと飛び出した。
太陽が顔を出していないためか、夏だというのに空気は冷ややかで、焦燥と期待によって帯びていた熱が余計に強く感じられる。
夜の名残をまとった風が、私の背中を押す様にそっと吹いてくる。そのせいか、残された時間を惜しむように歩みは早くなり、歩幅は少しづつ大きくなる。
体は徐々に前のめりになっていき、気づけば私は、意味もなく未舗装の道を走り出していた。
息は荒れ、体は思うように動かない。何かを追い求めているのか、はたまた何かから逃げ出しているのか、理由なんて自分でもわからない。
けれど、それでも私は走り続ける。もしも立ち止まってしまったら、二度とその場から動けなくなるような気がしていたから。
太陽がいつもと同じようにその輝きを示し始めた頃、私は目的の場所へとたどり着いた。そこは家々の密集地から少し離れた場所にある、少し寂れた神社だった。
私は少し息を整えると、眼前に佇む鳥居を見据える。それはよく想像するような朱色のものではなく、石造りのものだった。
しかし、見た目こそ地味ではあるものの、抱えている威厳は確かにその長い歴史を感じさせる。私は改めて一つ深呼吸をすると一歩踏み出し、その先の神域へと足を踏み入れた。
目覚めたばかりでまだ弱々しい陽光は、何年もそれを糧として育った大樹達の広げる葉によって容赦なく遮られ、境内は今だ夜であるかの様に錯覚させるほどの闇に包まれていた。だが、それでも私の目に届く光を頼りに、私は止まることなく奥へと進む。
それから、まっすぐと石畳を進んでいった先で、私はとうとう目的の場所へ辿り着いた。
目の前にそびえ立つその社は小さいものの、醸し出す雰囲気は入口で見たあの鳥居以上に厳かで、ともすれば畏怖すらも抱いてしまうような印象があった。
けれど、私の関心はそれ以上に、社の前で穏やかに談笑する二人に向いていた。にこやかに話す彼らの会話に割り込むのは少し気が引けたものの、ここに来た目的のため、私は意を決して声をかけた。
「おはようございます、友寄さん」
境内に響いたその声が耳に届いたのか、友寄さんはゆっくりと此方を向いた。私の姿を見た友寄さんは一瞬驚いたような顔を見せたものの、その表情はすぐに穏やかな笑顔へと変わった。
「おはよう、真那君」
にこやかな表情と共に発せられた挨拶が私に届く。はっきりしつつも優しげなその声が、体に染み入るような気がした。
「……真那君?」
「えっ、あっはい、何ですか?」
「いや、ぼーっとしてたように見えたから……もしかして、無理して来てくれた?あんな時間に連絡しちゃったから」
「あー……いや、気にしなくて大丈夫です。自己管理の話になるので」
「そうかい?ならいいんだけど」
実際、連絡を貰った後に眠れなかったのは自分の判断だし、友寄さんが気にする話じゃない。
「……友寄さん、呼んだというのはその方ですか?」
さっきまで友寄さんと話していた人が、話へと混ざってきた。その人の格好は洋服やズボンなどの現代のモノではなく、白を基調とした和服、巫女服……ではないが、おそらくは神職の人が着るのであろう服装だった。
「はい、そうです」
「成程。事前に聞いてはいましたが…本当にお若いですね」
「……あの、友寄さん。この方は?」
「あ、申し訳ありません。自己紹介がまだでしたね。私、この神社の神主を務めております、綱継と申します」
綱継さんはそういうと、丁寧な所作でお辞儀をする。つられて私も頭を下げた後、私自身も自己紹介をした。
「えっと、佐伯真那と申します。その、本日はよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。ところで、佐伯というと……もしかして、朱里さんの娘さんでしょうか?」
「え、ああはい、そうですが。母をご存じなんですか?」
「ええ、昔、祝言のほうを取り仕切らせて頂きました」
「ああ、成程」
「にしても、娘さんですか…。ずいぶんと時間が経ったものですね」
しみじみ、といった様子で綱継さんはうなずいた。
「……さて、互いに自己紹介も済んだことですし、そろそろ本題に入りませんか?」
「おっと、そうでしたね。すっかり忘れていました」
友寄さんの言葉を受けて微笑した後、綱継さんは改めるように一つ咳ばらいをすると、緩んでいた表情を引き締めた。
その顔は先ほどの気さくな老人の雰囲気とは違い、神主としての威厳を感じさせるような面持ちだった。
「……それでは、友寄さんのおっしゃる通り、本題へと入りましょう。そのためにも、まずは本殿へ上がってください」
そういうと、綱継さんは正面の社へと足を向ける。それについていくようにして、友寄さんと私も歩みを進めた。




