第六話 三司祈李 その1
人の目は、カメラのようになっている。ものに当たって跳ね返った光は目の中へと入り、順に角膜、瞳孔、水晶体を介して網膜へとたどり着く。
電気信号となった光は、神経を瞬きの内に通り抜け、やがて脳に到達する。そうして人は初めて、目の前のものを認識する。
私を跳ね返った光のことを誰も私として受け取らなくなったのは確か、かすかに記憶に焼き付いてるあの日からだった。
【1】
言葉というものの意味さえ知らなかったあの日、私は座って目の前にある箱を眺めていた。
何やら豪華そうな布に包まれたその箱にはしばらく前、皆でお箸を使って入れたものが入っている。
すぐ隣では、大人なのに私みたいに泣いている女の人がいた。他の人はどうなのかがなんとなく気になり、辺りを見回してみる。
少し離れたところで、私と同じように黒い服を着た人たちがこっちを見て何か話していた。
特にこれといった変化がなかったため、私は目の前に視界を戻す。箱の近くに、一枚の写真が置かれていた。とても幸福そうな笑顔で写真に写るその人の事は、今はもうよく覚えていない。
【2】
あれから、しばらくの時が経った。私はある二人に引き取られ、彼らの住む家で暮らしていた。からだも以前より大きくなったけれど、私の住む世界はそれに伴い、ずっと小さくなっていた。
私の住む部屋には一つの明かりと寝る場所、いくつかの棚と箱、それ以外の雑多なものが散らばってあった。そして、もっとも大きな特徴として、廊下へとつながる扉を除き、その部屋には外とつながる場所が何一つなかった。
あの頃の私は、ただただ生きていた。
ご飯はどうしても耐えられなくなった時に、おばさんが持ってきてくれた。おむつを履かなくなってからは時々、濡れた布をもらい、それで体を拭いて過ごした。トイレに行くときはおばさんかおじさんに頼んで、許可をもらってからしていた。
この時の私に、名前はまだ無かった。
表情の変わらない二人を見ていたからか、私もいつしか表情を変えなくなった。言葉はいくつか、お願いの言葉と返事の言葉、それ以外は二人の話している言葉からなんとなく理解した。
暗くなったら眠りにつき、十分に寝たら目が覚める。お腹が限界になったらご飯をもらい、トイレに行ったついでに水を飲む。
何日も、何日も、何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も。
同じことを繰り返した。
私のその普通の日々は、突然終わりを告げた。ある時、お腹が空いて二人を呼んだけど、誰も来ることはなかった。それから二晩越した日、限界を超えた私は、一歩も動けずに倒れていた。
暗い部屋の中、朧気になる視界に突然光が差し込んだ。それと同時に、誰かの声がした。安堵したのか、それとも緊張の糸が切れたのか、今となっては理由は分からないけれど、私の意識はそこで途絶えた。
【3】
次に目が覚めた時、私がいたのは病院のベットの上だった。今までと違う光景を目にした私は困惑し、何事かと辺りを見回す。
すると、そばにひとり、寝息を立てている女の人がいた。その顔に少しだけ覚えがあった私は、そっと声をかけてみた。けれど反応がなかったため、今度は体を揺らしてみた。すると、その人は眠たげな顔をしながら目を覚ました。
私に気付くと、その人はしばらく呆けた顔をした後、驚いた顔をしたかと思えば今度は突然泣き出した。その泣き顔を見て、その人が昔、箱の前で泣いていた人だと分かった。
それから、色々なことが起きた。あの部屋だけだった私の世界が唐突に広がった。夢だと思っていたあの青い天井や緑の床に感動した。初めてする本当の会話に戸惑った。温かいご飯を食べた。匂いも汚れも、傷すらもない服を着た。そして何より、自らの名前を知った。
しばらくの時が過ぎ、私は泣いていたあの人、綾音さんと二人で病院を旅立った。外の世界は、院内よりもさらに広く、心地よいものだった。車に乗り、私は新天地へとたどり着く。そしてその日から、綾音さんの家での生活が始まった。
綾音さんに引き取られた私はまず、本当の普通について教えられた。慣れるまでにかなり苦労したけれど、今となってはすっかりその生活が体に染みついている。
次に苦労したのは、勉強だった。綾音さんに保護されたとき、私は8歳だった。五年以上もあの部屋で過ごしていたせいで私は、普通に会話をすることすらままならないほどの言葉しか知らなかった。
そんな私に綾音さんは、ひたすらに知識を詰め込んでくれた。人間と途方もない程かけ離れていた私を、綾音さんは立派な一人の人間へとしてくれた。私の方も新しいことを知っていくことに喜びを覚え、同じくらい必死になった。 そのおかげで、三年近くハンデがあった小学生の勉強は、今となってはもう過去のものになっていた。
とても幸福な日々だった。家にはほかに綾音さんの子供たちもいて、寂しさを覚えることもなく、気づけば失っていたはずの表情も、いつの間にか取り戻していた。
けれどそんな希望溢れる日々は、終わりの時が近づいていた。




