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第2章「揺れ動く日常」(2)

 校門を出るとき、ナツミが黒江ユキを見つけて「一緒に帰らない?」と声をかけた。

 ユキは「用事があるから」と冷静に断り、一人で歩いていく。

 ナツミたちが去ったあと、シンは一歩踏み出そうとしたが、声をかける勇気が出ない。

 ユキの後ろ姿が小さくなるまで、シンはただ見送る。


(何なんだろう、この感じ……自分の問題もあるのに、どうして彼女のことが気になるんだろう……)


 そう思いつつ、シンはゆっくり帰路につく。

 途中でスマホを開き、今日あった出来事をメモしようとするが、既に抜け落ちている時間帯があることに気づいて戦慄する。

「俺、ヤバい……いつの間にこんなに忘れたんだ……」と背筋が冷たくなる感覚が走るのだった。


 ◇◇◇


 同じ頃、ユキは校舎裏のフェンス沿いを歩いていた。

 母親が夜遅くまで働いているため、帰宅しても誰もいない。

 一人で少し遠回りの道を選ぶ。

 空にはうっすらと夕焼けが漂い、校庭の隅から運動部の掛け声が聞こえる。


(彼は……もう帰った? 倒れたりしなかったかな……)


 胸の奥で不安が芽生えるが、表情には出ない。

 あの笑顔で「大丈夫」だと言いながら、本当は苦しそうな瞳をしていた――ユキはあの瞳を思い出し、ふと立ち止まりそうになる。


「なんで、私……こんなこと気にしてるんだろう」


 小さく呟いて、また足を動かす。

 自分の感情が薄れている自覚があり、普段なら他人がどうなろうと関心が湧かない。

 なのにシンだけが気にかかるのはなぜなのか。

 笑って誤魔化す彼の明るさを見ていると、なぜか胸がざわめく。


(でも、仕方ない。私には……感情がないんだから……)


 ユキは顔を上げ、さっと踵を返して学校から離れる道へ進む。

 自分には何もできない。

 心に生じた小さな波紋を持て余しつつ、結局言葉にできないまま歩みを進めるのだった。


 ◇◇◇


 シンは自宅に戻ると、母親が「おかえり。ちょっと遅かったのね」と声をかける。

 しかし、なんとなく曖昧な返事しかできない。

 「掃除当番だった……と思う……」と濁すと、母親が「そっか。ちゃんとご飯食べてね」と笑う。

 シンは適当な言い訳をして部屋に直行し、ベッドへ腰を下ろす。

 汗でシャツが背中に張り付いているが、着替える気力もない。


 (今日も念動力を使ったし……そのせいでまた記憶が飛んでるかも……。怖いな、マジで……)


 手の平をじっと見つめる。

 指先が軽く震え、胸が強く脈打つ。

 いつからか、自分には物を操る力があると気づいた。

 それを意図して使うとひどい頭痛と記憶の欠落が襲うため、極力使わないようにしてきた。

 だが、咄嗟のアクシデントではコントロール不能で発動してしまい、こうして自分を追い詰める原因になっている。

 

 保健室の棚で見た『奇妙なファイル』が頭から離れない。

 榎本先生は明らかに何かを隠しているし、それが自分の念動力や記憶障害に関係あるのでは――漠然とした直感があるが、確証はない。


 「母さんに言っても信じてもらえないし、コウタやナツミには心配かけるし……彼女には……もっと言えない……」


 まるで行き場を失った言葉が喉で渦巻き、シンは短く叫びたくなる衝動をこらえるのだった。


 ◇◇◇


 ユキは自宅に戻り、制服を脱いで部屋着に着替えていた。

 机の前に座ったまま、じっと空を見ている。

 母親は夜勤で深夜まで戻らない。

 家に籠る時間が長いのはいつものことだが、今日は心に妙なざわつきがある。

 あのシンの笑顔がやけに脳裏をかすめる。


「どうして、あの笑顔がこんなに気になるの……」


 声に出しても答えはない。

 ユキ自身、“感情がない”状態を受け入れつつあったが、ほんのわずかな揺らぎを認識している。

 誰かの笑顔に胸がかすかに痛む――こんなことは久しくなかった。


「私にはもう、笑顔なんてできないのに……あれを見ていると……何だろう……」


 ユキは軽く頭を振り、机に向かってノートを開く。

 課題はきっちりこなすタイプだが、そこに満足感はほぼない。

 生きている意味すらぼんやりとしていて、ただクラスで静かにしている方が楽だと思ってきた。

 けれど、シンに対してだけはなぜか無視できない感情が芽生えているかもしれない――。

 ユキは、それが怖くて、わからなくて苛立たしく感じるのだった。


 ◇◇◇


 夜が更け、シンは部屋でスマホのメモを見返す。

 今日あった出来事が短く羅列されているが、その中に理解不能な文言がある。

 自分が書いたはずなのに何を意味するのか思い出せない。

 ここ数ヶ月こんな調子で、そろそろ自分が自分でなくなるのではと怯えていた。


 ベッドに倒れ込み、脳裏にユキのあの冷たい瞳を思い浮かべる。

 確かに表情はないし笑わないが、何か底知れない悲しみを孕んでいるように見えた。

 なぜそこまで感じるのか自分でもわからない。

 ただ、彼女がひどく孤独に見えたのも事実だった。


 (俺も孤独かもしれないけど……。少なくともコウタやナツミがいる。でも彼女には……いつも一人だし。放っておけない気持ちになってしまう……)


 しかし、目を閉じると頭痛の残響が浮かぶ。

 記憶がさらに抜けてしまうかもしれない恐怖が、全身を冷やすように走る。

 自分はどうすればいいのか――誰にも聞けないまま、シンは意識を手放すように眠りに落ちていった。


 ◇◇◇


 同じ夜、榎本真理は学校に残り、保健室で書類を整理していた。

 周囲が暗く静まった中、彼女だけが薄明かりの下でパソコンの画面とファイルを交互に睨み、「やはり進行している……」と小さく呟く。

 そのファイルには「研究施設」のロゴとシンの名前、断片的な脳波データが収められている。


 (念動力の副作用か……。記憶障害が想定以上に進んでいる。これ以上使わせたら……。でも、施設はさらなるデータを要求している……私、どうすれば……)


 榎本は罪悪感に囚われたように机に突っ伏すが、すぐに姿勢を正してファイルを閉じる。

 「教師として子どもを守りたい」という思いと、「研究データを提供せよ」という義務の板挟みになっていた。

 誰もいない保健室に虚しく響くのは、彼女の小さな息遣いだけ。

 シンの頭痛や物忘れの裏にある真実――それを知りながら、無力感に苛まれている。

 いつか、この矛盾が爆発する日は近いかもしれない。


 ◇◇◇


 シンは布団の中で「やっぱり、何か変だ……」と短く呟き、深い闇に落ちる。

 ユキは暗い部屋でノートを閉じながら「あんな笑顔……私にはできないのに……」と心の中でこぼす。

 榎本は保健室を後にし、ファイルを抱いて校舎を出る寸前に「ごめんなさい……」と呟く。

 

 三人の言葉は誰にも聞かれないまま夜に飲まれ、しかし物語の渦は確かに巻き起こり始めていた――。



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