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第2章「揺れ動く日常」(1)

「ちょっとシン! いつまで探してるの? もう時間ないわよ、早く朝ご飯食べて行きなさいってば!」


 リビングから聞こえる母の声に、白山シンは息を切らせて応える。


 「わかってる! でも……待って……昨日使ったノートがどこにもないんだって!」


 母親は呆れたように軽い笑いを漏らす。


「毎朝同じことやってる気がするわよ? 本当、最近忘れ物が多いじゃない? 大丈夫なの?」


 シンは階段を駆け下り、黒髪を短く切った頭をかきむしった。

 ようやくリビングのテーブル下にノートを見つけて弾かれたように手に取る。

 一見きちんと制服を着こなしているが、ネクタイが曲がり、シャツの裾も少し出かかっていた。


 「やっと、見つかった……」

 「だから前もって準備すればいいのに。さあ、もう出ないと間に合わないでしょ?」


 母は「最近、ほんとに忘れ物多いわよね」とこぼす。

 シンは苦笑しながら急いで朝食をかきこむように済ませる。

 鞄に教科書とノートを詰め込むが、「あれ、これ全部入れたんだよな?」とまた確認を繰り返す。


 (なんか、ずっとざわざわする……どうしてこんなに物忘れがひどいんだろう……)


 母親は怪訝そうに「どうしたの? また何か探してるの?」と声をかける。

 「い、いや、なんでもない!」とシンは慌てて家を飛び出した。


 ◇


 何とか学校の門に滑り込むと、もう朝のホームルームまで残り数分。

 シンは「セーフ、ギリギリ……」と小声で呟く。

 息を整えながら校舎に入り二年B組の教室へ向かうと、友人の御影コウタが待ち構えるように腕を組んで立っていた。

 コウタは、ネクタイをゆるめ、シャツの袖を折り返し、いかにも「ざっくばらんなお調子者」という雰囲気を漂わせている。


 「シン! 今日もギリギリだな。やっぱ朝からやらかしたのか?」

 「う……まあ、ちょっとノートが見つからなくて……でも何とか間に合った……」

 「お前、昨日もやってたろ! いい加減学習しろよなー。フォローする身にもなれっての」


 コウタは苦笑し、背後から風間ナツミが「ホントよ、あたしらがどれだけ苦労してるか……」と呆れ顔で絡んでくる。

 ナツミはショートヘアにカラフルなヘアピンを複数つけ、小柄ながら快活な笑顔が印象的だ。


 「シン、さっきまでコウタが『アイツ絶対また教科書忘れてる』って笑ってたのよ? ま、あたしもそう思ってたけどさ」

 「悪かったな……やっぱり今朝も探してたんだ。母さんに呆れられたよ……」

 「そりゃそうでしょ。てか宿題やった? 昨日の英語、たっぷり出たじゃない。どうせ忘れたとか言うんじゃ……」

 「え……宿題……あれって今日が提出日?」

 「ほら! やっぱり!」


 ナツミが頭を抱え、周囲が「シン、マジで大丈夫か?」と笑いながらはやし立てる。

 シンは冷や汗をかきつつ謝るが、本人には笑えない深刻さがある。

 とにかく思い出せない。

 自分でも昨日どこまで宿題をやったかが曖昧なのだ。


 教室の後方では、黒江ユキが黙々とノートを整理していた。

 細身にセミロングの黒髪、制服をピシッと着こなし、表情はほぼ無い。

 周囲から「クールで近寄りがたい美少女」と評されているが、その分絡む者も少ない。


 ナツミが「ユキはちゃんと宿題やった?」と冗談混じりに声をかける。

 ユキは机から目を上げずに「やった……」と短く返すだけ。

 それっきり会話が途切れ、ナツミは「あ、そ……」と微妙に引き下がる。

 シンはその静かなやり取りを横目で見て、心の中で(やっぱりなんか壁があるんだよな……)と思うが、余裕がない自分を嘆くほうが先だった。


(俺だっていっぱいいっぱいなのに……どうしてあの無表情が気になるんだ……)


 ◇


「よーし、ホームルーム終わり! んじゃあ次は……って、シン、ちゃんと授業の準備できてるか?」

 

 休み時間になるなり、コウタが大袈裟に声を張り上げる。

 クラス数名が「またかよ」「シンは忘れる天才だなー!」と面白がっており、シンは「勘弁してよ……」と肩をすくめる。


 「あたしも呆れるわ。でもまあ、いつもフォローしてくれてるコウタも大変だろうしね」


 ナツミが苦笑し、「シンはマジで何とかしたほうがいいよ」と注意喚起する。

 シンは弱々しく、「そんな大事みたいに言わないでよ……」とぼやくが、コウタは容赦しない。


 「いやいや、これ以上俺がフォロー増やすの勘弁だっての。いいか、スマホのメモだけじゃダメだ。そもそもメモ見るの忘れてるだろ、お前?」

 「そ、それは……う、うん。よく忘れるね……」

 「だろ! 付箋を貼りまくるとか、机にでっかい紙置いとくとか、いっそ音声アラームを鳴らすとか……徹底的にやれ!」


 周囲のクラスメイトが「それは迷惑になりそう」「机が付箋だらけとかウケる」とツッコミ合い、まるでコントのように笑いが広がる。

 シンは赤面しつつも、内心で(本当はかなりヤバいんだけどな)と唇を噛む。


 (念動力……頭痛……記憶が飛んでる……誰にも言えないんだよ……)


 ふと視線を教室の隅に向けると、ユキが相変わらず黙ってノートを書き込んでいる。

 その瞳は淡々としており、賑やかな教室の波から外れているように見える。

 彼女自身が何を考えているのかはわからない。

 だがシンには、ユキがかすかにこちらを見ている気配を感じ、胸がちくりとうずいた。


 ◇


 三時間目の途中、シンは頭痛がこみ上げてきてたまらず保健室へ向かった。

 保健医の榎本真理がデスクで書類を整理しており、シンの顔を見るや「また頭痛?」と優しく問いかける。

 榎本は白衣と淡い色のカーディガンを羽織り、柔らかな表情を浮かべているが、その瞳にはどこか鋭い光が宿っている。


 「はい……ちょっと最近、朝も夜も頭が重くて……」

 「そう……何かストレスとか思い当たることは? クラスでの人間関係とか、家庭内とか……」

 「うーん……特にない、と思うんです。むしろクラスメイトとはうまくやれてますし……」


 榎本はそこで視線を伏せ、「なるほど」と呟く。

 シンがベッドに腰かけると、彼女は書類棚の扉をわずかに開き、何かを確認するような動作をする。

 しかし、すぐにサッと閉じてシンに向き直る。


 「疲れかもしれないし、ただのうっかりかもしれない。でももし大きな不安があるなら、我慢せずに教えてね。あなたの力になりたいし……」

 「ありがとうございます……でも、たぶん……何とかなると思います」


 頭痛が激しくなり、シンは「すみません、ちょっと横になります」と言ってベッドに倒れ込む。

 榎本は「ええ、少し休んでいいわよ」と微笑むが、その目には探るような色が宿っていた。


 ◇ 


 保健室から教室へ戻る途中、シンは廊下で黒江ユキと鉢合わせした。

 ユキは教科書を胸に抱え、相変わらずクールな表情を崩さない。

 だがシンを見ると足を止め、かすかに首を傾げた。


 「また頭痛……?」

 「うん、ちょっとね。でも大丈夫。保健室で少し休んだから……このあいだはありがとう。声かけてくれて、すごく助かった」

 「何もしてないよ。別に……」

 「そっか、そうだよね。でも、あのとき安心できたんだ。心配してくれたのがわかって……なんかホッとしたんだ」


 ユキは目をそらし、少し戸惑ったような仕草をみせる。

 一瞬だけ視線が揺れ、唇が微かに動いた。

 シンはそのわずかな変化を見逃さず、「あれ、今ちょっと笑った?」と指摘するが、ユキは毅然とした声で「笑ってない」と答え、踵を返す。


 (やっぱり無表情だ……けど、今のは本当に“笑ってない”だけなんだろうか……)


 シンは胸に温かさと違和感を同時に覚え、ユキの後ろ姿を見送った。

 

 ◇


 放課後。

 シンはクラスメイトと一緒に掃除をしていた。

 そのとき、棚の上にある備品を下ろそうとしてバランスを崩し、咄嗟に念動力を使いかけてしまう。

 箱が不自然に落下速度を緩め、一瞬「空中で止まった?」と周囲がざわめく。

 慌てて手で押さえたふりをし、誤魔化そうとするが、頭に激しい痛みが走る。


 「おい、シン、大丈夫か? 今のなんか、変じゃなかったか?」

 「い、いや……俺が反射神経で受け止めただけだって……うっ……頭が……」

 「顔色悪いぞ、休めよ!」


 シンは苦笑しながら「大丈夫、大丈夫……」と答えるが、記憶の空白がまた生じている。

 ここ数分の出来事が断片的に抜け落ちているようで、掃除の段取りすら思い出せない。

 まわりが心配して声をかけるが、シンは曖昧な笑みで誤魔化すだけ。


 廊下の奥にいたユキは、その光景を目撃して、目を見開き、不安そうな表情を一瞬浮かべた。


 ◇


 ようやく掃除を終え、帰り支度を始めるシンに対して、コウタが厳しい声を投げる。


「お前、本当、今日変だぞ。さっきもみんなの前でぼーっとして、掃除の順番すら覚えてなかったじゃん。どうしたんだよ?」


 ナツミも真面目な顔で「うん、いつもの“うっかり”とは違う感じする。大丈夫?」と心配する。

 シンは「ごめん……」と頭を掻きながらうつむくしかない。

 確かに自分でもおかしいとわかっているが、説明のしようがない。


 (記憶が飛ぶ……頭痛がする……念動力……誰にも言えないよ、こんなの……)


 コウタが「ちゃんと病院行くとか、保健室で相談するとかしろよ?」と言い、ナツミが「ほんとに頼むわ……」と声を落とす。

 シンは曖昧に「うん……考える……」と返し、二人は溜め息をつきながら先に下校するのだった。




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