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第12章「迫る文化祭と選択の分岐」(1)

 白山シンは、廊下を足早に歩きながら、こみ上げる頭痛に歯を食いしばっていた。

 もうすぐ昼休みが終わる。

 文化祭前日だというのに、また記憶が飛ぶような感覚がやって来るのではと恐れているのだ。

 彼は自分の胸ポケットを探り、スマホのメモを何度も確認する。

 この日の予定や作業指示をすぐに失念してしまうため、常に「自分宛ての覚え書き」を頼りに動いている。


「……俺って、こんなに準備下手だったかな……?」


 シンは低く呟き、軽く首を振った。

 視線の先には、同じクラスの御影コウタと風間ナツミが顔を突き合わせて話し合っている姿が見える。


「なあ、コウタ。先生、またどこか行ってるみたいだよ」

「マジか……やっぱり、あの先生、また“外”と接触してるんじゃないか?」

「先生……榎本先生のこと?」

 

 シンが二人に近づいて問いかけると、コウタとナツミはハッとこちらを振り返った。


「お、シン。どうした、その顔色? 頭痛まだ治んねーのか?」


 コウタが心配そうに声をかける。

 シンは苦笑して、額にうっすら浮いた汗を腕で拭った。


「いや……ちょっと、いつものやつ。そんなにひどくないよ。……それより、榎本先生が何か?」

「うん、また姿が見えないみたい。文化祭前日で、保健室が必要な生徒だっているのに、先生がいないって……変じゃない?」


 ナツミが言葉を継ぎ、コウタがうなずく。


「そうそう。あの先生、これまでも俺たちの調査で“研究施設”と繋がりがあるって判明しただろ? きっと今日も、何か画策してるんだって」


 すると、シンは息を呑むようにして問い返す。


「研究施設……か。……やっぱり、榎本先生は、俺たちの能力について、何か裏で動いているのかな……」

「俺はそう思う。だから警戒しろよ」


 ナツミも眉根を寄せたまま頷く。


「とにかく、保健室に行く用事があっても、あたしたちが付き添うから。勝手に行かないでね」


 ナツミが釘を刺すと、シンは弱々しく笑う。


「それはわかってるけど、頭痛がひどいときとか……でも、そうだな。気をつける……ありがとう」

「うん、約束だよ。あんた、いつも自分だけで解決しようとするから」


 ナツミがやや強い口調で言うのを聞いて、シンは苦笑した。

 自分がどうにか頑張らねばという思いがあるのは事実だが、それで周囲に迷惑をかけることも多い。


「……わかったよ。ありがとな、ナツミ」


 廊下の奥では、セミロングの黒髪をストレートに下ろした黒江ユキが壁に寄りかかるように立っている。

 彼女は制服のブレザーをきちんと着こなし、余計な装飾は一切ない。

 やや細身の肩と、長いまつげが特徴的で、その表情はクールな印象を与えるが、今はまるで眩しさを嫌うように俯いている。


「ユキ、大丈夫?」


 シンが一歩近寄り、控えめに声をかける。

 ユキは静かに顔を上げ、無表情のまま目を伏せる。


「……うん、ちょっと……騒がしいだけ」


 彼女はそう言うが、その声の端には苦しそうな響きが混じる。

 周囲では文化祭前日の高揚感に浮き立った生徒たちが、ステージのリハーサルに向かう、模擬店の最終チェックをするなど、さまざまな作業に忙殺されており、感情のノイズが渦巻いている。

 その“読心”が彼女にとって大きな負担だ。


「ごめんな、俺も頭痛とかで何もフォローできずに……」


 シンが言うと、ユキは首を横に振る。


「謝らないで。……でも、ここにいると頭がガンガンして……」

「なら……屋上、行くか? 少しは静かだと思うし……」


 ユキが目を伏せたまま小さく頷いたので、シンはコウタとナツミに「あいつをちょっと連れてくね」と目配せする。

 コウタが「わかった、俺らはここで待機してる」と返し、ナツミは「何かあったらすぐ呼んでね」と念押しする。


 階段を上り、最上階の扉を押し開けると、夕暮れが校舎を染める時間が近づいていた。

 風が生温かいが、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだ。


「……ここ、まだマシ」


 ユキはブレザーのボタンを外し、細い首を軽く回す。

 シンは心配そうに伺いながらも、屋上のフェンス近くに立ち止まった。


「ユキ、ほんとに無理しなくていいから……もしきついなら、文化祭の準備も休めば」

「……そうしたい気持ちもある。でも、クラスのみんな頑張ってるし」


 ユキはどこか寂しげに笑おうとして、失敗したようなぎこちない動きになった。


「……読心してると、疲れる。それでも、何も感じられなくなるよりは……マシかもしれないと思うから」

「ユキ……」


 シンはそれ以上言葉を出せず、風に煽られたフェンスがカタカタと鳴る音だけが耳に残る。

 しばらく二人で黙り込んでいると、ユキが急に小さく肩を震わせた。


「……シン。あの研究施設、まだ動いてるんだよね。先生も、絶対に何か隠してる」

「うん……ごめん、俺もはっきりしたことは分からないけど……」

「わたし、昨日……昔の光景がちらっと頭をよぎった。白衣の大人たちがわたしを囲んで、機械みたいなのを頭に付けて……すごくイヤだった……」


 ユキの声はわずかに震え、いつになく感情をあらわにしているとシンは感じる。


「そっか……怖かったんだな。……俺も覚えてないけど、子供の頃、どこかで検査を受けさせられてたって母さんから聞いたことがある。でも記憶が……」

「そう……シンも、思い出せないのに、覚えてる部分もある、みたいな感じ……?」


 シンは曖昧に首を振り、「わからない」と低く呟いた。

 記憶の断片はいつも霧の中にある。

 彼がはっきり言えるのは、“能力を使うと、最近の出来事を忘れがち”という実感だけだ。


「ごめん……こんな話、したくなかったよね」


 ユキがそっぽを向き、視線を落とす。

 シンはそれを否定するように首を横に振り、心配気味に口を開く。


「そんなことない。話してくれて、むしろ嬉しい。……俺も、なんて言うか、同じような不安抱えてるから」

「同じ……か。そうだね、わたしたち、似てるといえば似てるのかも」


 ユキは苦笑のような表情をほんの一瞬浮かべる。

 それから小さく息を吐き、「ありがとう……」と小声で添える。

 その声はかすれたようだが、本当に少しだけ安堵した色が混じっていた。


「ユキ、もし何かあったら……言ってくれ。俺が助けられるかは分からないけど、力になりたい」


 シンがそう告げると、ユキは「うん……」と呟く。

 言葉少なだが、そのまましばらくフェンスの近くで、夕暮れの景色を眺めていた。


 ◇◇◇


 校舎裏から少し離れた場所で、保健医・榎本真理は誰かと会っていた。

 榎本はショートヘアを襟足できれいにまとめ、白衣でなく黒いジャケットを羽織っている。

 その瞳には疲労感と焦燥感が混ざっており、携帯を握る手が小刻みに震えていた。


「――明日が最終段階です。シンとユキを極限状況に追い込めば、必ず能力を発揮するでしょう」


 スーツ姿の研究員が淡々と告げる。

 その男は四十代前半ほどで、長身、痩せた体躯に冷淡な眼差しを宿している。

 榎本は視線を落とし、言いにくそうに口を開いた。


「でも……彼らの状態は想定より悪化しています。ユキさんは感情を失いかけ、シンくんは記憶が……これ以上は」

「構わない、と本部は判断しています。被験体が壊れるか否か、そこまで含めて貴重なデータですよ。あなたももう引き返せないんじゃありませんか?」

「……わかっています……」


 榎本は苦渋の表情を浮かべ、歯を噛みしめる。

 研究員は冷ややかにうなずき、さらに脅しを加えるかのような低い声で言う。


「失敗すれば、あなたが研究施設から受けた便宜や、ここでの行動もすべて暴かれる。……それでいいんですね?」

「……はい。……わかりました。明日は、わたしが責任をもって……」


 榎本は言いかけて言葉を飲み込む。

 生徒を救いたい気持ちと、研究施設に逆らうことの恐怖の間で引き裂かれそうだった。


 ◇◇◇


 ――その夜。

 シンは自宅の部屋で、ベッドの上に腰を下ろし、スマホを握りしめていた。

 画面にはユキからの短いメッセージが表示されている。


『明日は……楽しめるのかな。ちょっと、怖い。でも、ありがとう』


「……ユキも不安なんだろうな」


 シンは唇を噛んで、部屋の蛍光灯を少し落とし、ぼんやりした明かりの中でノートを開く。

 そこには自分の目標や決意、それにユキへの想いが走り書きされている。


「俺だって、怖い。……記憶が飛んだら、どうなるんだ?」


 ペンを握る手が震え、文字が歪む。


「もし、全部忘れたら……コウタやナツミ、ユキのことだって……」


 そう想像すると、胸の奥が冷たく締め付けられる。

 彼はペンを持つ右手を何度か握り直し、震えを止めようとする。


「……大丈夫。明日こそ、ユキと一緒に笑いたい。……忘れないように……」


 小さくそう呟き、ノートの端に〈明日こそユキと文化祭を楽しむ〉と書き加える。


「俺ができるのは、これくらいか……。でも、やるしかないよな」


 暗い部屋で、自嘲気味に微笑み、シンはノートを閉じる。

 心の中で何度もその言葉を反芻したのだった。


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