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第10章「交わる過去と決意の兆し」(1)

 教室の入り口から保健医の榎本真理が姿を見せた。

 榎本はまるでこちらの様子を窺うように視線を向けてくる。

 シンも一瞬、その目線とぶつかった。


 「シンくん、このあいだ病院へ行ったそうね? 検査はどうだった?」


 榎本が微笑みながら問いかける。

 彼女の声は穏やかだが、その瞳には妙な光が宿っているように感じられ、シンはギクリとする。


 「別に普通です……大したことなかったですよ」

 「そう。何か気になることや不安があったら、保健室でいつでも相談してね」


 榎本はそう言い残すと、足早に職員室のほうへ向かう。

 その背中を見送りながら、コウタがひそひそ声でつぶやく。


 「やっぱり狙ってるよな、あの感じ。病院の情報を探ってるっていうか……どう考えても怪しい」


 ナツミも眉をひそめて、「この前に榎本先生が外出してたっていう話、研究施設と連絡を取ってたんじゃないかって思えてくる……」と心配そうに言う。

 シンは黙ってうなずくものの、榎本の真意をどうやって突き止めればいいのか分からず、不安が募っていく。


 やがて授業が始まり、しばらくは通常の学校生活が進む。

 ところが、休み時間になると新たな問題が発生した。

 クラスメイトから「シン、昨日頼んでたプリントの件、どうなった?」と聞かれ、彼がすっかり忘れていたことが分かったのだ。


 「悪い……本当に、すまん。忘れてた。俺、最近物忘れが激しくて……」

 「はあ!? 忘れるって……ちゃんと引き受けてたじゃん! もういいよ!」


 苛立ったクラスメイトの言葉に、シンは頭を下げるしかない。

 教室内がちょっとした嫌な空気に包まれたとき、ユキが無表情のまま静かに割り込む。


 「それは仕方ないの。彼は……そうしたくて忘れてるわけじゃない」

 「何だよ急に」

 「責めてもどうにもならない。それより、私が代わりにやるから。プリントのことなら教えて」


 クラスの皆が「ユキが口出すなんて珍しい」という視線を投げかける。

 元々、ユキは自分からクラスメイトに関わるタイプではなく、いつも孤立している印象があった。

 それだけに、彼女がシンを擁護するのは意外だった。


 シンは「ありがとう。でも……大丈夫か? 余計な負担にならない?」と気遣う。

 ユキはそっぽを向いたまま、小さくため息をついて言葉を返す。


 「別に、あなたのためにやるわけじゃない。単に、そのほうが効率いいだけ……忘れたくて忘れてるわけじゃないなら、責めるのは酷だと思う」


 そこまで言うと、ユキは眉間に手を当てて顔を伏せる。

 読心力でクラスメイトたちの戸惑いや苛立ちが伝わってきているせいだ。

 たぶん頭痛もまた強くなっているはずだが、それでも彼女は口を閉ざしたまま誰にも言わない。

 クラスメイトは「……ま、いいや。ユキがやってくれるなら助かる」と半ば諦めた様子で、シンをきつく責めるのをやめた。

 仕方なしに収まった空気の中、シンはユキに感謝の視線を送る。


 「ありがとう、本当に……」

 「べつに。気にしなくていい」


 そう言いながら、ユキの横顔はわずかに赤く見えたような気がする。

 とはいえ彼女の瞳は冷たく、その裏で苦痛をこらえているのだとシンは察する。


 ◇◇◇


 放課後、コウタとナツミは図書室へ向かった。

 シンやユキの過去、あるいは“特別支援センター”という組織について何か資料が残っていないかを探すためだ。

 だが、普通の学校図書室にそんな機密情報があるはずもない。

 諦めきれず、さらに校内の古い倉庫まで足を伸ばしてみた。


 「コウタ、見て! この箱、なにか見覚えない?」


 ナツミがホコリを払いながら箱を開けると、中に古いパンフレットが数枚入っている。

 それにははっきりと「特別支援センター」のロゴと“児童心理研究部門”の文字が印刷されていた。

 コウタが驚いたように声を上げる。


 「マジで残ってたのか? しかも『被験体No.20~30』とか書いてある紙切れが……」

 「これヤバいやつじゃない? 持ち出していいのかな、これ」

 「いや、下手に原本を持って行くと怪しまれるかもしれない。とりあえずスマホで撮っとこうぜ」


 二人は慌ててスマホを取り出し、いくつかのページを撮影する。

 文字がかすれて読みにくいが、“児童心理実験”“身体的負荷”“適性検証”など不穏な言葉が断片的に確認できる。

 ナツミは震える声でつぶやく。


 「なんか……本当に、人道的にアウトじゃない? こんなの……どうして学校の倉庫に?」

 「たぶん昔に提携とかあったのかもな。やっぱり榎本先生が、施設と絡んでるのも……全部繋がってる気がする」


 コウタがファイルをしまいながら顔を曇らせる。


「もしシンが被験体の一人だったとしたら……」そんな想像が脳裏をよぎり、胸が痛む。


 二人はこの発見をどう活かすべきか話し合いながら、資料室を後にした。


 ◇◇◇


 その頃、シンとユキは教室で最後のホームルームを終え、帰り支度をしていた。

 ユキは早く帰りたいのか、いつも以上に無言でカバンを抱えている。

 シンは意を決して近づき、小声で話しかけた。


 「いまから少し時間ない? 話したいことがあるんだ」

 「話って……ここではダメ?」

 「クラスメイトの目もあるし……もうちょっと落ち着ける場所がいい」


 そう言うと、ユキは少しだけ逡巡してから無言で頷く。

 二人はそそくさと教室を抜け出し、人目につかない屋上の端へ向かった。

 夕陽が校庭をオレンジ色に染める時間帯だ。

 風が吹く中で、シンとユキは柵のそばに立つ。


 「ごめん……無理させたかな」


 シンが気まずそうに言うと、ユキは少し首を振った。


 「いい。……で、何を話したかったの?」

 「昨日、君の家で話して、改めて分かったんだ。俺は念動力を持ってる。ユキは読心力を持ってる。でも、どっちも副作用がある。俺は記憶が抜け落ちていくし、ユキは……感情が希薄になってる」


 ユキが視線を落とし、俯く。


 「……うん。私は人の感情が聞こえすぎて、自分が分からなくなる。シンは……あまり思い出を持続できない」

 「それが、もし昔の施設のせいだったら……?」


 ユキは目を伏せたまま、わずかに肩を震わせた。


 「正直、あると思う。私、すごく小さい頃の記憶がほとんどないんだ。たぶん、その施設で何かをされた。……それをうすうす感じる。でも、はっきりした証拠はわからない」

 「俺も、母さんがそれを知ってるみたいなんだ。でも、隠そうとしてる。もしかしたら……俺たちは被験体だったんじゃないか、って」


 言葉にすると、シンは自分自身で想像以上の恐怖を感じる。

 自分がただの“実験台”であり、能力もその実験の産物だとしたら――そんな真実を知りたくない気持ちと、でも知らなければ何も変えられないという焦燥感がせめぎ合う。


 「……もし、このまま放っておいたら、壊れちゃうのかな。俺も、ユキも」


 震える声でそう呟くと、ユキは応えられずに目を伏せるだけだった。

 否定したいが、今の彼女には否定する根拠が見つからないのだろう。

 わずか数秒の沈黙が長く感じられる。

 風がごう、と吹き、夕陽が二人の影を伸ばす。

 やがてシンは意を決して、ユキに顔を向けた。


 「でも……俺は諦めたくない。何とかしたい。一人じゃどうにもできないかもしれないけど……ユキ、君も同じ思いなら、一緒にこの状況をどうにか変えたいんだ」


 ユキは驚いたように目を見開く。

 読心力でシンの必死の感情を感じ取ったのか、少し呼吸が乱れた。

 その後、かすかに首を縦に振る。


 「……私も、壊れるのは嫌だ。何とかしたいけど、何ができるかわからない。けど、一人よりは――」


 そこまで言いかけたところで、ユキの顔がまた痛みでゆがむ。

 シンが慌てて支えるように近寄る。

 彼女は強く瞼を閉じ、わずかに震えた声を出す。


 「だ、大丈夫。……いつもの頭痛だから。気にしないで」


 「気にするに決まってるだろ……! 無理しなくていいんだ」


 シンが必死に支えようとするが、ユキは「触らないで……」と押し返す。

 どうやら読心力がこれ以上働くのを避けたがっているようだ。

 シンは申し訳なさそうに腕を下げるしかない。


 「ごめん……」

 「いいの。……ただ、これ以上ここにいるのはしんどい。もう帰っていい?」

 「もちろん。俺も、ありがとう……話を聞いてくれて」


 ユキは頷き、そそくさと階段へ向かう。

 その背中を見送るシンの胸には、言いようのない憂鬱とわずかな希望が入り混じっていた。

 二人でなら、もしかしたら何かを変えられるかもしれない――そう思う反面、早くも副作用は襲ってくるのだ。

 時間は残されていないような気がした。


 ◇◇◇


 夜、保健室の薄暗い灯の下、榎本真理が一人スマートフォンを耳に当てていた。

 白衣の端をいじりながら、低い声で報告する。


 「二人とも能力発現が進んでいます。シンくんは念動力に伴う記憶障害、ユキさんは読心力の暴走と感情喪失。……はい、今のままではいずれ限界が来るかと。……ええ、病院や他方面から情報が漏れる前に、こちらで対処します」


 相手の声は聞こえないが、その口調からは冷たく厳しい命令が下されているのが想像できる。

 榎本は一瞬だけ苦渋の表情を浮かべた。


 「……分かりました。私も後には引けませんから。必ず――」


 そこで電話を切り、榎本は大きく息をつく。

 かつての優しい微笑はそこにはなく、怯えるような焦燥と、どうしようもない諦念の色がにじんでいる。

 けれども、彼女は再び白衣の裾を直し、いつもの“優しい先生”の顔に戻るのだった。


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