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第8章「隠された過去と重なる痛み」(1)

「シン、本当に、忘れてしまったの……?」


 いかにも面倒見の良さそうなショートカットの少女――風間ナツミが、眉をひそめながらプリントを差し出している。

 いつもは明るく笑ってクラスを仕切るリーダー気質の彼女だが、今は心配そうに声を落としていた。

 まるで目の前にいる少年、白山シンがどこか取り返しのつかない深みに足を踏み入れつつあるのを感じ取ったかのように。


「うん……ごめん。本当に、ナツミがプリントくれたこと自体、全然思い出せないんだよ」


 シンは苦しげな笑みを浮かべていた。

 最近は“ひどい物忘れ”が連日続き、周囲の友人たちもただごとではないと感じている。

 声色はどこか震えており、シン自身も事態の深刻さを自覚しているのが伝わってくる。


「昨日の放課後、あたしが『シン、明日までに読んでおいてね』って渡したでしょうが。なのに……まったく覚えてないの?」

「うん。悪い。ぜんぶ、真っ白なんだ」

「そっか……。最近、マジで大丈夫? 単なる寝不足とかのレベルじゃないように思えるんだけど」


 ナツミは隣に立つ男子――御影コウタにちらりと視線を投げた。

 コウタは真剣な面持ちで腕を組みながらシンを見つめ、険しい口調で言う。


「シン、お前、正直に言えよ。今までもノートのこととか色々忘れてたけど、ここ数日は特にひどいじゃないか。記憶喪失っていうか、何か病気の可能性は?」

「病気って……そんな大げさじゃ……ないと思う。たぶん、ちょっと寝不足……ホントにそんな感じで」

「寝不足でここまで物忘れが激しくなるか?」

「そう……だよね」


 シンはコウタの追及を受けて小さく首を振った。

 ここはクラスの教室、朝のホームルームが始まる直前だというのに、まるで大事件でも起きたかのような空気が広がっている。

 周囲のクラスメイトも興味を寄せつつ、しかしシンを責め立てることはせずに様子を窺っていた。


「おい、シン、大丈夫かよ?」

「うん……ほんとにごめん。ありがとう、ナツミ、プリント受け取るね」

「うん……今日授業が始まる前に先生に出さなきゃだけど、まあ何とかするよ。あんたは体調をちゃんとしてよね」


 ナツミは小さくため息をつき、プリントをシンの机に置く。

 そこへ、黒江ユキが、静かな足取りで近づいてきた。

 

「忘れたなら、メモとかに書いておけば?」


 シンが驚いたように顔を上げる。

 黒江ユキは、あまり自分から会話に参加しないタイプだ。

 友人が少ないわけではないが、もともと感情をあまり表に出さないし、近寄りがたい雰囲気がある。

 しかし、今は淡々とした調子で提案していた。


「うん……そうだね。スマホのメモとか、ノートに全部記録した方がいいよね。ありがとう」

「別に……」


 ユキはそれだけ言うと、微動だにしないまま、細い肩をわずかにすくめる。


「みんな……ごめん。とりあえず今日の授業はなんとかするから」


 シンはぎこちなく笑顔を作る。

 そして、授業が始まるチャイムが響き渡った。


 ◇◇◇


 斜め後ろの席にいるユキは、ぼうっとしているシンをさりげなく視界に入れ、“動揺”の波が伝わってくるのを感じては軽く頭を抱えていた。

 休み時間になっても、シンは先ほどのことをまた忘れているらしい。

 「あれ? ナツミ、プリントってどこに置いたっけ?」とシンが聞いたとき、さすがに周囲が「大丈夫か?」と声を上げるほどだった。

 だがユキは、そんな騒ぎの中で黙り込む。

 “読心力”がわずかに暴走しかけているのか、いくつもの不安や恐れが頭に流れ込み、痛みになっていた。


(皆の気持ちを拾いすぎて、私は自分を見失う……。でも、どうしてこんなに……苦しいの?)


 ユキは自問するが答えは出ない。

 心がノイズでいっぱいになり、シンの悩みやコウタとナツミの心配が重なり合って頭痛をひどくしている。

 すると彼女は思わず視線を窓の外へ逃がし、ぎゅっと目を閉じた。


「具合悪いの?」


 ナツミが気づき、小声で尋ねてくる。

 ユキはかすかに首を振り、何も言わずに席を立った。

 「トイレに行く」とだけ言い置いて教室を出る。

 彼女はクールな態度を崩さずに廊下を歩くが、頭の痛みはひどく、胸の奥がざわついてならなかった。


 ◇◇◇


 放課後、コウタとナツミは「文化祭用の書類を出してくる」と言い訳して、保健室へ向かった。

 二人ともシンの物忘れが深刻化している原因が何かあると睨んでおり、その裏には保健医・榎本真理の存在がちらついていた。

 榎本はどこか得体が知れない空気を醸し出す女性で、見るからに穏やかな微笑みを浮かべながら、何かを隠しているような印象がある。


 榎本は一見すると物腰が柔らかく優しい先生だ。

 ただ、その瞳の奥には薄い冷たさが垣間見えると、コウタたちは感じている。

 ナツミが扉をノックすると、内側からいつもの柔和な声が返ってきた。


「はーい、どうぞー」

「失礼します。先生、文化祭の準備でちょっと書類にハンコをもらいたくて」


 ナツミはそう口実を作って、すっと部屋に入った。

 コウタはその後ろに隠れるように入り込み、周囲をさりげなく観察する。

 すると保健室の隅の書棚に、幾つかのファイルが並んでいるのが見えた。

 「PSY_TB」「FocusTrial」などと書かれたラベルが貼られており、明らかに保健関係のファイルとは様子が違う。


「どうしたの? コウタくん」


 榎本がふわりと微笑み、書棚とコウタの間に体を入れて視線を遮るように動く。

 まるでコウタがファイルを見ているのを悟ったかのようだった。

 コウタは慌てて「い、いえ、何でもありません」と言い繕うが、心臓が高鳴るのを止められない。


「文化祭準備、大変でしょう。書類はこれで合ってるかしら?」

「は、はい、ありがとうございます。先生、いつも助かります」


 ナツミが笑みを作りつつファイルを受け取り、軽く頭を下げる。

 榎本は穏やかな笑顔を崩さずに「頑張ってね」と送り出すが、その瞳はどこか探るようだった。

 二人が保健室を出てから小声で話す。


「今の、絶対怪しいよ」

「ああ……あの“PSY”とか書いてあったやつ、なんだろうな」

「証拠を撮ろうかと思ったけど、榎本先生の目が怖すぎて無理だった……」


 ナツミは唇をかみしめ、悔しそうに呟く。

 コウタも頷き、「いつかチャンスを見つけて撮るしかないな」と低い声を返した。


 ◇◇◇


 その日の夕方、シンが帰宅するとリビングに母親が待ち構えていた。

 彼女はコップの水を持つ手が小刻みに震えているのを隠そうともせず、シンにテーブルの椅子を勧める。


「シン、ちょっと話があるの。座って」

「どうしたの、母さん。なんか怖い顔してるけど」

「ごめんね、ほんとはもっと早く言うべきだったのかも……。でも、あのときはあたしも何もわかってなくて……」


 母親はそう前置きをすると、ゆっくりと息をついて言葉を探す。

 シンが目を丸くして「何?」と促すと、母親は声を落として話し始めた。


「昔、あなたが小さい頃……“特別支援センター”っていう施設に通わせてたの。発達がちょっと遅れてるかもしれないって言われて、私……焦っちゃって。そこなら大丈夫、専門家がちゃんと見てくれるってウワサを聞いてね。でも、今考えたらおかしいのよ。どうも、ただのサポート施設じゃなかったらしくて……」

「そんなの……聞いたことないけど」

「覚えてないのも当然だと思う。小さかったし、私もあまり長く通わせてなかったから。だけどね、あとでわかったの。そこは……何かの研究施設だったって」

「研究施設……?」


 シンは頭の中に疑問符を浮かべる。

 まさか自分が知らない間に研究対象にされていたのか。

 念動力を持つようになったのは、小学生あたりからだとぼんやりと自覚したが、もしかするとその施設で何かが行われたのだろうか。


「最初は『子どもの発達をサポートします』って言われただけだったんだけど。ある日、私……施設の奥で、白衣を着た人たちが子どもをモニターに繋いで検査しているのを見てしまって。怖くなって、すぐに通うのをやめさせたの。後で調べたら、そこは“ある企業”や“政府系の研究機関”が裏で絡んでたらしくて……」

「なんだよそれ。どうして言ってくれなかったんだよ」

「ごめんね……あなたが怖がるんじゃないかと思って……」


 母親は涙ぐみながら唇をかむ。

 シンは息が詰まるような感覚に襲われ、「俺、もしかして実験台だったってこと?」と声を荒げる。

 そして頭の奥が痛む。

 物忘れがひどくなったこの数日、自分の体がおかしくなっているのは確かだ。


「わからない。でも……最近のあなただったら、何か思い出すきっかけになるかもしれないと思って」


 そう言われても、シンは混乱するばかりだった。

 母親を責めたくはないが、頭の中で過去の断片を探っても何も浮かばない。

 ただ一つ確かなのは、この力が自分をむしばんでいるという事実。

 記憶がどんどん失われていく恐怖が、まるで暗い霧のように胸を覆っていく。


「ごめん、ちょっと整理したい。部屋に戻るよ」

「ごめんなさいね、今さらこんな話をして」


 母親が申し訳なさそうに視線を落とす。

 シンは返事をしないまま、自室へ駆け込んだのだった。

 

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