第7章「揺れる秘密と踏み出した一歩」(2)
夕方の保健室。
シンはずっと頭痛をこらえていたが、とうとう我慢できず、五時間目が終わるや否や保健室へ足を運んだ。
重い扉を開けると、そこには白衣の保健医・榎本真理が端正な顔立ちで振り返ってきた。
「シンくん、また頭痛?」
「はい、ちょっと……めまいもして……」
榎本は静かに微笑み、彼を奥のベッドへ誘う。
身長は高く、ショートヘアを整えた大人の雰囲気。
笑顔には柔らかさがあるが、その奥には鋭い視線が隠れているような印象をシンは受ける。
着任してまだ間もないにもかかわらず、彼女はこの学校に溶け込んだどころか「生徒思いの先生」として評判になっている。
しかし、シンの目から見ると、やはり少し“探る”ような態度が気になる。
「ほら、そこに横になって。何か悩みがあるなら遠慮なく言ってくれていいのよ」
「ありがとうございます……まあ……寝不足くらいです」
シンが苦笑いしながらベッドへ倒れ込むと、カーテン越しにもう一人が横になっている気配がした。
振り返ると、そこには黒江ユキがこちらに背を向け、じっと息を潜めているようだ。
榎本は「彼女も少し休んでるの。頭痛が酷いんですって」と言い残し、デスクへ戻って何やらファイルをいじり出す。
その横顔はシンとユキを交互に観察しているようにも見えるが、その真意はわからない。
カーテンで仕切られた薄暗い空間。
シンは横になったまま、その向こう側にいるユキを意識した。
すると、微かな吐息が聞こえる。
苦しげな呼吸かもしれない。
思わず小声で声をかける。
「大丈夫……?」
するとユキも抑揚のない声で「あなたこそ」と返す。
決して柔らかい響きではないが、どこか安心する要素があるのは不思議だ。
「まあ、頭が痛いけど、横になれば少しマシ。そっちは?」
「ちょっと疲れているだけ」
ユキはそれだけ言うと口を噤んだが、その背中からは微かな震えを感じた。
シンはぎゅっと目を閉じ、頭痛をこらえつつ、何も言えないまま時間をやり過ごす。
そして、榎本がデスクからこっちを見ている気配があった。
◇◇◇
一方、保健室の外。
コウタとナツミは、シンがちゃんと休めているか様子を見に来たが、ドアの向こうから榎本の声が聞こえて、思わず足を止めた。
『……白山シンの進捗は、記憶障害が顕著になっています……はい、黒江ユキも……もう少しでデータが揃います……』
「今の、絶対名前出てたよね?」
「うん。シンだけじゃなく、ユキのことも……データって何よ……?」
コウタは顔をこわばらせ、ナツミの腕をとっさに引いて物陰へ隠れる。
スマホで録音しようとするが、ノイズまみれで肝心なところがハッキリしない。
それでも十分怪しい内容だと二人は確信した。
やがて足音が近づき、ドアが開きかける。
二人は息を潜めて隠れ、何とか気づかれずに済む。
榎本は誰かと話しながら「……わかりました。引き続き観察を……」と呟いているようだが、はっきりは聞き取れない。
「やっぱり裏がある……!」
「でも今シンやユキに言ったら、あの先生が逆に動くかもしれない。刺激していいのかな……?」
ナツミは不安げに唇を噛み、コウタも苦い表情で黙り込む。
二人はこれ以上盗み聞きするのは危険と判断し、息を止めて保健室前から離れるしかなかった。
◇◇◇
それから十分ほどして、シンとユキがそれぞれ保健室を出てきた。
シンは頭を振りながら廊下を歩き、ユキは無表情のまま淡々とついてくる。
そこへコウタとナツミが駆け寄ると、シンは「おう……」とわずかに笑みを浮かべ、ユキはその横で微動だにしない。
「大丈夫かよ……?」
ユキが短く答え、シンも「まぁ、ぼちぼち」と力ない声を出す。
そんな二人の様子を見て、コウタとナツミは言葉を交わさずとも(これ以上負担をかけたくない)と思う。
「シンは少し休んでろ。帰宅して寝たほうがいい」
「うん……悪い」
シンがそう応じる一方、ユキはちらりとコウタとナツミに目線を送る。
その瞳には「何かあったんでしょう?」という問いかけが宿り、コウタはさりげなく口パクで「あとで話す」と返す。
ユキは軽く頷いた。
シンだけが不審そうに首を傾げるが、コウタは言葉を濁して誤魔化す。
それぞれが思惑を抱えながら、この場所を後にした。
◇◇◇
放課後も遅い時間になり、校内の一角。
人気の少ない階段前、こっそり話せる場所でコウタとナツミ、そしてユキが集結した。
シンには知らせず、三人だけで“先生が怪しい”というネタを共有するためだ。
「……で、さっき、保健室の外で盗み聞きしちゃったわけ。榎本先生、シンとユキのこと“データが揃う”とか言ってて……もう確信したよ、何かあるって」
ナツミが声を落として話すと、ユキは息を呑んだ。
その表情は変わらないが、瞳の揺れが「やはり」と語っている。
「先生、何か怪しいやつらと繋がってるんだろうな。それに俺たち、資料室で“特別支援センター”のマークが入ったメモも見つけてさ、そこに“被験体”とか不穏な単語があったんだよ」
コウタが続けると、ユキは短くまばたきをして、「私も昔、そこに通っていた気がする」と呟く。
二人は「えっ」と目を丸くする。
ユキは幼少期の記憶が曖昧なのだが、断片的な映像――白い壁、ラボのような空間でカウンセリングを受ける自分――を思い出すことがあるという。
「じゃあ、やっぱりユキもシンも、その“支援センター”とやらで何かされたのか……!」
「わからない……母は『子どもの心理ケア』と言ってたけど、詳しくは聞いてない。正直、自分でも何が本当か……」
ユキは少し黙り込み、視線を落としたまま続ける。
「でも、彼が限界なのは確か。物忘れが進んでるし、いつか本当に……」
「限界って……マジか。やっぱりやばいんだな。どうする? 今すぐ伝える?」
「いや、あいつがそれ聞いたら余計にパニックになるかも……。榎本も先手打って何かしてくるかもしれないし……」
ナツミが腕を組んで唸ると、コウタも頭を抱える。
ユキは無表情なまま、だが声のトーンは低く「慎重にしたほうがいい」と同調した。
「なら、しばらくは内緒にして、証拠や情報を集めるのが先ね。先生を刺激しないで、どこまで暴けるか……」
「そうだな。シンにも無用な心配はかけたくない。でも、あいつに何かあったら困るし……もう危ないんだろ?」
コウタが問うと、ユキは微かに息を詰まらせ、「うん……」と答えた。
ユキの読心力も限界に近いし、シンの念動力による記憶喪失も深刻化している。
いつ二人が壊れてもおかしくないのだ。
三人は顔を合わせ、深いため息をつく。
「じゃあ、とりあえず方針は決まったわね。シンには軽い感じで『体大事にしろ』程度に言っておいて、先生の監視と資料漁りを続ける。もし危険が迫ったら……どうにかして助ける!」
ナツミが声を張り気合いを入れると、コウタは「おう!」と拳を上げる。
そしてユキは小さく頷き、ぼそりと呟いた。
「ありがとう……二人とも……」
沈黙が訪れる。
薄暗くなった校舎の窓からは夕焼けが差し込んでいるが、三人の心境は明るいとは言えない。
遠くで部活の掛け声が反響しているのを聴きながら、ナツミが話を打ち切る。
「とにかく、明日はまた朝から先生の動き見張ろう。倉庫とか資料室も時間見つけてチェックする。あんたも無理しないでね、ユキ」
「わかった……」
「シンには『あんまり夜更かしするなよ』くらいに言っておくわ。あたし、こんなのおかしいと思う。絶対、先生たちが原因だわ」
ナツミは苛立ちを隠せず、声を震わせる。
コウタはそんな彼女を宥めるように背中を叩き、ユキは硬い表情を浮かべながらもほんの少しだけ目を伏せる。
「彼はもう限界かもしれない」
思わずユキがそう呟いた言葉に、コウタとナツミがぎょっとする。
二人は言葉を失い、ユキを見つめるが、彼女は黙ったまま表情を変えない。
コウタは歯噛みし、ナツミは拳を握った。
その沈黙に夕焼けが溶け込み、校内のどこか遠くで部活の終了を告げるチャイムが鳴った。
彼らの運命は、もう後戻りできないところまで来ているのかもしれない……。




